2018年10月26日 (金)

私の心はあなたとともに

私の心はあなたといっしょに。

父のような気高く、強く負けない人。

私の愛は、あなたの黒い瞳にあります。

私は他の誰でもなく、あなたを愛する人となります。

 

私の人生にこの愛で、心に安らぎが訪れ始めました。

そして私の心は、あなたを恋しく思います。

私の思いはあなたとともに、私の愛は火のように。

私は他の誰でもなく、あなたを愛する人となります。

 

もし私の心があなたに私の愛を語るなら、

ああ、それは多くを焼き付けるでしょう。

あなたが近くに来れば、私の愛は、

甘いものとなるでしょう。

https://www.youtube.com/watch?v=WHjFJv33Pgg&list=RDWHjFJv33Pgg&start_radio=1

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2018年10月20日 (土)

そよ風を吹いてください。

Hov arek, sarer djan, hov arek

そよ風を吹いてください。愛する山よ、そよ風を吹いてください。

Im dardin tarman arek

私の悶え苦しむこの苦悩に癒しをください。

Sareruh hov tchen anoum

山は風を持ってきてくれません。

Im dardin tarman anoum

 私の悩みに癒しをください。

 

Amber, amber, mi kitch zov arek

雲よ、雲、もう少しだけ涼しくしてください。

Vartar antzrev tapek,

海に大きな雨を注いでください。

dzov arek Kesh martou or-arevuh

悪い男のよい日

Sev hoghi dagov arek

 黒い土の下に行かせてやってください。

 

Hov arek, sarer djan, hov arek

そよ風を吹いてください。愛する山よ、そよ風を吹いてください。

Im dardin tarman arek

私の悶え苦しむこの苦悩に癒しをください。

Sareruh hov tchen anoum

山は風を持ってきてくれません。

Im dardin tarman anoum

 私の悩みに癒しをください。

 

Hov arek, amber djan,

そよ風をください、愛する雲よ、そよ風をください。

hov arek Im dardin tarman arek

私の悶え苦しむこの苦悩に癒しをください。

Sareruh hov tchen anoum

山は風を持ってきてくれません。

Im dardin tarman anoum 

私の悩みに癒しをください。

https://www.youtube.com/watch?v=aqeU7IPU2Sk

 

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2018年10月19日 (金)

彼が踊ったあと

作詞:シャアル・カディーム

作曲:ガイル・ムハディード

 

彼が踊ったあと、彼が踊ったあとは、

私の美しい愛は、私を幸せにし続ける。

あなたの美しいひとみは、私の心を一瞬にして捕まえる。

枝が重たいもので曲げられたように私の心も曲げられた。

 

私の約束、私の心配、

私に苦しみを与える。

慈悲深くなるのは、

愛の中の病と痛みによって。

美しき王、あなた以外は。

 

※トルコから来たエジプトの王のために(20世紀初頭)。原曲はイブン・アル・ハティーフ( 13131374)のアンダルシア音楽。

https://www.youtube.com/watch?v=Tm8cKnJkUt4&start_radio=1&list=RDTm8cKnJkUt4

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2018年10月18日 (木)

彼女は大きな冗談

作詞・作曲:ジヤード・アルラハバーニー

歌:ザイード・ファイルーズ

 

もうひとつの夜、なぜなら、あなたは私を愛しているままだった。

または、もしかしてあなたは私を愛していないかもしれないと話す。

もうひとつの夜、彼女は彼を愛していると冗談をいう。

ああ、またはもしかして彼女は彼を愛していないかもしれない。

 

どんなに彼が感じているか彼は知らない。そして彼は何を感じているかわからない。

どれだけ彼が愛しているか彼は知らない。そして、彼は愛しているかどうかわからない。

 

この人生の後で彼女は彼を愛していると大きな冗談を言う。

または、もしかして彼女は彼を愛していないかもしれない。

 

私だけを愛して。私を愛して。

私だけを愛して。私を愛して。

私だけを愛して。私を愛して。


どんなに彼が感じているか彼は知らない。そして彼は何を感じているかわからない。

どれだけ彼が愛しているか彼は知らない。そして、彼は愛しているかどうかわからない。

 

この人生の後で彼女は彼を愛していると大きな冗談を言う。

または、もしかして彼女は彼を愛していないかもしれない。

 

私だけを愛して。私を愛して。

私を愛して。私を愛して。

私だけを愛して。

私を愛して。

https://www.youtube.com/watch?v=i6Ztvk__y7o&index=1&list=RDi6Ztvk__y7o

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2014年7月 5日 (土)

はなこのおむこさんと焼身自殺

 2014年6月27日(日)午後1時ごろ、友だちとJR王子駅の近くで、焼き魚定食を食べながら、「韓国では、FTAに反対して焼身自殺する人まで出たけど、日本人は、TPPに反対って言っても焼身自殺まではしないようねぇ」とか、なぜが「焼身自殺」の話題になった。「ベトナムで焼身自殺した人」とか、「チベット弾圧に抗議して焼身自殺したお坊さん」とか。「そういえば、『フランシーヌの場合は』」っていう歌が、日本で流行ったんだよ」と、「フランシーヌのばあいは〜」と、焼き魚定食を食べながら友だちの前で歌ってしまった。
 その日の夜、家に帰ると、「新宿で男性が焼身自殺」とネットで情報が流れている。ぞっとした。焼き魚定食の焼き魚の皮が香ばしく焼けて美味しかったのを思い出した。
 彼は60歳前後の男性で、安倍政権の集団的自衛権に抗議する演説を行い、焼身自殺を計った。消防隊員が火を消し止め、顔に重傷のやけどを負ったが、命を取り留めたという。しかし、名前もわからない。軽犯罪法違反で、容態が回復次第、事情聴取を行うと言ったが、それ以降、何一つ、知らされることはなかった。彼の名前も。
 「日本人は、特別秘密保護法、TPP、集団的自衛権が通っても焼身自殺しない」と、高をくくっていた。しかし、実際に国政に抗議して焼身自殺をする人が出て来た。彼の気持ちを、自分なりに共感してみようと思う。たとえば、60歳男性、子どもも妻も、孫もいない。貯金も仕事も地位もない。7月分の家賃も払えない。健康上の問題もあったかもしれない。もう失うものは何もない。生きていても何の希望もない。そうなったとき、焼身自殺は、死を迎える一つの選択肢に入ってきたのかもしれない。日本経済の低迷だと思った。しかし、本当のことは何一つ、知らされていない。
 
 私は、2012年に「はなこのおむこさん」というこけしのお人形たちで、物語る「こけし浄瑠璃」を上演した。2010年12月17日、チュニジアでムハンマド・ブアジージという職に就けない青年が、青果を販売中に警官の暴力に合い、それに抗議をして焼身自殺を計った。ブアジージのセリフを「はなこのおむこさん」の台本から
 「私は、マグリブ、西の国、日の沈む国で生まれました。26歳のとき、仕事がなく仕方なく道ばたで、果物と野菜を売っていました。しかし、許しも得ずに店を開いたと言って、警察の見回りの者たちに、売りものも、売り上げのお金も、秤も取り上げられ、殴られ、蹴り飛ばされました。もしも、秤を返してほしかったら、賄賂を渡せと言われました。私は、彼らに抗議して、全身に油をかぶって自分の身体に火をつけました。それでも私は18日の間、生き長らえていました。しかしそれ以上生きることは出来ず、ここにいるのです。」
 彼の亡くなる2、3日前に当時のチュニジアの大統領ベン=アリーが、病院に見舞いにきた写真もネットで見た。ブアジージの葬儀に、彼の友人、若者たちが遂に、抗議のデモ始めた映像も見た。
 ここから、「アラブの春」は始まったと言われている。
 はるか遠くのチュニジアの青年の焼身自殺のことが、ここまでネット検索でわかったのに、新宿で焼身自殺しようとした男性のことは、何もわからない。
 作家として、アーティストとして、これでは済まされない気分になっているのが正直なところだ。物語を書くものとして、彼の行動を自分の作品の中で、反映するべきであると思う。作家、アーティスト、クリエイトする者は、人々の中に潜む深層を文字や歌、踊りにする。メディア“MEDIUM”=媒介する者=巫女でもある。
 「はなこのおむこさん」は、津波にのまれて亡くなった女の子「はなこ」が、冥界で、おむこさんをさがしに西へと旅する。そしてブアジージと知り合って、冥界で結婚する。これは山形の「冥界婚」の風習をもとに、日本とイスラームの結婚式を音楽劇にしたもの。そして2011年という時代がどういう時代であったかを、記憶するために。
 焼身自殺はたった一人で、命と引き換えに行うメッセージ。だからそれまで無名であったのに突然人々の心に名を刻む。
 1963年、当時南ベトナムでベトナム戦争に抗議をして焼身自殺をしたのは、テッック・クアン・ドック。
 1969年、フランスのパリで、フランシーヌ・ルコント(当時30歳)がベトナム戦争とビアフラ戦争に抗議して焼身自殺した。
 2009年から2012年にかけて中国政府に対するチベット弾圧に抗議をして焼身自殺をした僧侶の数は80名とも言われている。多くの僧侶が若く、そして尼僧もいる。
 1969年の6月15日に、第一次安保闘争で亡くなった樺美智子(かんばみちこ)を記念して、「フランシーヌの場合」という曲が発売され、80万枚を売った。反安保のテーマみたいになったことが、イメージとして、今回の事件を抹殺しようとしている「者たち」にあるのかもしれない。
 焼身自殺をするチベット僧侶たちの人数は、情報がさまざまで、中国政府下の中、その真実を知ることはできない。
 
 焼き魚定食のとき、日本人の焼身自殺として思い出したのは、室町時代の尼僧「慧春尼(えしゅんに)」(?〜1402?)。彼女は曹洞宗大雄山最乗寺を開いた了庵慧明(りょうあんえみょう)の妹。自分も出家をしたいと兄の了庵慧明に言うと「おまえは美しいので男を惑わす」と許さなかった。そこで、慧春は、自分の顔を火鉢で半分焼いて、兄の前に現れ、出家を許された。しかし、男性の僧に言い寄られること、あとを立たたなかった。そこで彼女は、「すべての女のこの業を私が背負う」と言って、薪を組み、自ら焼身自殺をした、と大雄山のお坊さんから話を聴いたことがある。さらに、「慧春尼守」という、とてもかわいいお守りがあって、それは「セクラハに効きます」ということで、その凄まじい効き目たるや、かなり伝説的。さらに本格的にセクハラ予防のための腰巻きも売っていた。
 この凄まじい女性、慧春尼のことが、とても気になって、「慧春尼」の像も見に行った。最乗寺にはなく、その近くの塔頭(たっちゅう)のような、幼稚園経営をしているお寺にあった。本当に美しいひとだったのだと思う。「この慧春尼さまのお顔は一年たつとどうしても左半分の顔が煤けたように汚れるんですよ」と、お坊さんが言っていた記憶がある。
 そう、面(おもて)だ、と思う。能で使われる面(めん)のこと。顔に火傷を負った男が、幽玄の世界から、「2014年に平和を失ってしまった日のことを思い出して下さい」と未来のワキ(僧侶)に現れるのである。

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2014年6月30日 (月)

巫女の歌

(1)天橋も長くもがも 高山も高くもがも 月詠の持てる復若水いとり来て
君に祀りて をち得しむもの 
読み人知らず 万葉集 巻第十三 三二四五歌
 天にかける橋も、いくらでも長くあってくれればよい。高い山も、くらでも高くあってくれればよい。そうすれば、月に達して、「月読命(つくよみのみこと)」という月の神が持っているという、若返りの水を取ってきて、あなたに差し上げて、若返らせることができるものを。
<解説>
 「真名井の巫女」と呼ばれる丹波の巫女は、斎宮が体系化する前の組織だったと言われている。「みつはくむ」と言われるように、水を汲むことが巫女の務めだった。そこから「罔象女神(みずはめのかみ)」という水の女神の名が生まれた。水を絶やさないこと、水を浴びせ「みずみずしい」ことは、老いを止め、若返らせること。王の生命が衰えることなく、平穏な治世を祈ることが巫女の務めだった。
(2)うつそみの 人なるわれや 明日よりは 二上山を 弟背(いろせ)とわが見む
万葉集 一六五番 大来皇女(おおくめのひめみこ)
 肉体を持った人間である私として、私の弟を葬った山だから、明日からは、二上山を兄弟として見なければならないのだろうか。
<解説>大来皇女(661〜702年)。父の天武によって初代斎王となった。初代より斎院とは、有力な皇女を政界より遠ざけ、婚期を逃し、経済的後ろ盾を得ないようにと、母方の血脈の闘争から生まれた一つのシステムでもある。大来皇女は、泊瀬斎宮から伊勢に向かい、13年間斎宮を務める。天武の死後、弟の大津皇子が謀反人として自害した後、退下。山岳信仰の色濃く残る時代、弟の葬った二上山を弟自身として、信仰する。
 (3)琴のねに峰の松風かよふらしいづれのをよりしらべそめけむ
拾遺集 四五一番
 琴の音に、峰の松風の音が通いあっているらしい。一体この妙なる音色はどの琴の緒から奏で出し、どこの山の尾から響き始めて、ここに相逢ったのだろう。
(4)世にふればまたも越えけり鈴鹿山むかしの今になるにやあるらむ
拾遺集 四九五番
 生き長らえた末に、再び越えるのだ、鈴鹿山を。昔が今によみがえったのだろうか。
<解説>徽子(きし)女王(928〜985年)…茂明親王の第一王女。後醍醐の皇孫。伊勢斎宮(938〜945年)。母の死により退下。948年に叔父の村上天皇の女御となり、規子内親王(第四皇女)と皇子(早世)もうける。規子内親王が再び伊勢斎宮となるため再び伊勢斎院に同行。第一句目は、自身が伊勢斎宮時代に開かれた歌会での歌。二句目は、規子内親王と伊勢に同行するときの歌。源氏物語の六条御息所のモデルとされている。「斎宮女御」という名で、三十六歌仙の一人となっている。
巫女の歌
2014年8月15日(金) 18:30 open 19:00 start
キッド・アイラック・ホール 東京都世田谷区松原2-43-11
TEL:03-3322-5564  http://www.kidailack.co.jp/?page_id=8
料金:当日3,500円 前売り3,000円
予約・お問い合わせ:
キッド・アイラック・ホール
http://www.kidailack.co.jp/?page_id=19
桜井真樹子 makiko_puti@mac.com 090-6-34-7716

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2014年4月 8日 (火)

文人の愛した弦楽器

 知識人、教養人と呼ばれる文人たち。彼らは、自分の考えや思いを言語化し、それを書き留めた。さらには、自作の歌に旋律を付け、さらには弦楽器を奏でながら、自らが歌った。文人たちには、愛用の弦楽器があった。
 ペルシャ(イラン)では、スーフィズム(神秘主義者)たちが、修業のためにセタールという弦楽器を奏でた。
 アフガニスタン、ウィグル、ウズベキスタンに広がるスーフィズムの思想のもとでの文人たちは、心にめばえた愛を詩に託すことによって、神と自分の内面的合一に達しようとした。紅シリア(パレスチナ、シリア)で発達した「愛」の思想は、外面的形式動作(=儀式)によって神を讃美するのではなく、内面的に神を讃美できる人間となるためには「愛」を自覚しなければならないと。
 それは、「美」という芸術的観念の体験である。その達成のために、故郷、地位、名誉、財産を捨てて、旅にでる。それがスーフィズムの修行僧「ダルヴィーシュ」の姿だ。
 ペルシャのルーダキー(850〜941)は、バールバド(アラブ圏のウード、琵琶の源流)を愛した。30歳のころにサマーン朝の宮廷詩人となるが、故郷に帰り、盲目にされて、最後は殺害されたと言われている。シェイダ(1843〜1906)はセタール(神秘主義者たち愛用の擦弦楽器)を歌い奏で、シャフリーヤ(1906〜1988)はセタールそのものに愛を語る。
 ウィグルのメシュレプ(1641〜1711)は、サタール(擦弦楽器)に心の想いを、旋法の違いに分けて語りだす。彼も一時は、アッバー・ウジャ朝(ウィグル)に仕えるが、再び中近東への放浪の旅を続け、最後には、アシュタル・ハン朝(ウズベキスタン)の政治批判の詩を詠み、絞首刑となった。
 ここまではスーフィズムの文人と弦楽器。
 中国に入ると、文人は仙人となる。3世紀ころからの老荘思想により、知識・教養のあるものたちは、俗世から超越した言動を行い、社会抵抗と批判を行った。「竹林の七賢」の指導者的存在であった阮籍(210〜263)は多くの琴の曲を残した。甥の阮咸も竹林の七賢のひとりで、彼の名がつけられた阮咸に改良を加え、愛用した。
 白居易(772〜846)も琴を愛し、また「琵琶行」という詩も残している。彼も、公職の頂点にいたような人だが43歳で左遷。以降は、自らの知性と教養は、詩を作るために注がれた。
 中国の文人たちは、自らの著作、詩、つまりは「書」を残すために必要な道具、筆・紙・墨・硯を、「文人に必要な四つの宝」ということで「文房四宝」と呼んだ。この詩には、このような筆を使い、その筆跡と墨のにじみを残すための紙はこれ。その詩に漂うふさわしい香りの墨はこれ。それらのふさわしい選択が、すべて揃って、文人の詩の世界が、「書」を通して空間に表現されるのだ。この美意識をさまざまな文人たちが語った著作を集めたものが「文房清玩」。そこには、文房四宝のみならず、机、窓、庭など、文人の生活が仙人の遊学の世界に近づけるための、周辺に置かれるべきもののあり方が語られている。
 そこに文房(文人に必要な道具)として、琴がある。詩を書き、旋律を付け、それを声に出して歌うには琴が文人の書斎には必要であるということ。その琴は、どのような木で、どこに置かれ、どこでつま弾かれるものであるか、と書き留めたのが、超希鵠の「洞天清禄集」、屠隆の「考槃餘事」、張謙徳の「硃砂魚譜」などである。
 日本は、中国の神仙思想を受け継いだ。平安前期の歌人、蝉丸は、貴族階級の出自であるにもかかわらず、盲目のため、その知性と教養を、歌および、琵琶の奏者として注いだ。逢坂の関に居を構え、人と会うこともなく過ごしていたが、その琵琶曲の伝授を乞うて源博雅が三年間も蝉丸の垣根のもとまで、通い続けたという言い伝えは有名だ。
 百人一首に残されている蝉丸の歌 
 「これやこの 行くも帰るも分かれては 知るも知らぬも逢坂の関」
 これは、なかなか意味深いものだ。彼は逢坂を隠遁の地と定めた。そして居を出ることはなかったとはいえ、この逢坂の関は、東の大津(滋賀県)から平安京に入る関所(インターチェンジ)でもあるゆえに、人の行き来が多い。ここで人は京都に行き、京都から帰る。ここで別れを告げる人もいる。その場所の名を知っているか知っていないかは知らないが、「逢坂の関」という。知っている知っていないかは知らないが、そこに私が住んでいるのだ。という想いを歌で掛けているのだろう。
 「秋風に なびく浅茅の 末ごとに おく白露の あはれ世の中」
  秋風になびいている浅茅の葉の先ごとに置かれている白露に、哀れで切ない世の中を思う。
 イラン、ウィグル、中国、日本、文化圏の違いはあっても、「文人」と呼ばれた人々は、政治つまり「歴史」を動かす中枢から離れ、彼らの知性と教養をその社会批判に注ぎ、その体勢に目を光らせていた。彼らは俗世にまみれることを嫌い、真実を愛するがゆえに、決して権力の動く中枢に身を置くことができず、追放され、人によっては、彼らに命を絶たれることもあった。
 かれらの詩には、スーフィズムであれ、神仙思想であれ「人間とは」ということを歌う。それがゆえに、歴史から離れ、その時計は止まったまま。文人たちの心は、真実を見つめなければならなかった。その歌は、真実を見つけた文人のみが、聞こえるように奏でられた。歴史の舞台では、真実を語れば、その物語は崩壊するからだ。
 現代の日本において、この文人とは誰のことだろうか?ジャーナリストは文人であることを止めて久しい。
 文人とは、都知事にまでなった小説家、というよりは、政治の舞台から左遷された人、たとえば、孫崎享氏のような。書斎には琴のかわりにイコンがありそうだが、小説を書き出そうとしている姿は、和漢朗詠集にその朗詠のいくつかを残した橘在列にも重なるような気がする。
第77回琵琶樂人倶楽部
「語り物の系譜Ⅶ~文人の愛した弦楽器」
2014/4/9(水) 19:30 
場所:会場:名曲喫茶ヴィオロン(JR阿佐ヶ谷北口徒歩5分)
料金:1000円
ゲスト:桜井真樹子(歌・作曲・レクチャー) 
出演者:塩高和之(樂琵琶)
「帰雁」「詠懐詩」「対琴待月」「松根」(以上 桜井真樹子)他
問合せ:orientaleyes40@yahoo.co.jp

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2012年10月 6日 (土)

誰のために学位を取る?

 レタスの種の表皮を剥がすことに成功し、なぜレタスの種から発芽するのか?というと、発芽時に表皮が酵素分解を起こし、マンナン(こんにゃくの要素)に変化するからである、という発見でPHD(博士論文)取ったにかかわらず、ロサンゼルスの警官になったインド系アメリカ人の彼は、私の兄の親友だった。なぜ、植物学を専攻したか?といえば、植物の研究をすることによって、貧しいインドの人に自分の知識が貢献できるのではないか?と思ったからだという。しかし、アメリカの学会の知識は決してそのような貢献のためには回ってゆかない。個人の地位向上のため、そして企業が興味を示せば、研究者の生命は続く。そのことに、絶望したという。
 ここらが、自問自答。音楽が好き。自分が好きだからそれは、社会貢献になる?
 彼にとっては、何が好きでも、それが社会貢献にならなければ、その情熱は、PHSを捨ててもいいほど、くだらないものになる。
 彼は、ドゥルパッド(インドの宗教音楽)を愛し、ロス市警に入る前に半年間、ボンベイでドゥルパッドの師について、学んだほどだ。実は、ダガール・ブラザーズのライナー・ノーツは彼によるものだ。
 彼は宗教的ではあるが、常にinsiderであることに意義を見いだしている。
 まぁ、白拍子も声明も社会には毒にも薬にもならない。それが、insiderのふりをして、事実上のoutsiderであるおめでたさか?とも思う。
 せめて、本当に利権と結びついた瞬間にいさぎよく離れる自分であれるように。「魂は売らない」ように、と今回の渡米で学んだことかな?

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2011年10月24日 (月)

「瑛九」と「サム・フランシス」

 日曜日に「農業能」という仕事が入っていたが、雨天中止となり、すっぽりと時間が空いた。
 そこで、「瑛九展」と「フィリップス・コレクション」、がんばって行ってきました。
 
 瑛九展、よかったです。
 最初は、なんと見栄えのしない油絵を書いている人だろう、まー、エッチングの方がマシか、ぐらいに思っていました。
 ところがフォト・デッサンという手法になると、いきなり、すごかった。
 すごい、人が変わることことなんてあるんだと思ったのは、この間のティム・バートンのとき以来二人目。それも1ヶ月以内に。
 宿ったんです。それ以降の水玉油絵なんて、水玉ファンには見逃せない絶品の水玉でしたね。なんとかやよいなんて、比でもない。
 本当にすばらしい作品をいつまでもひとりで見てられるほど、その美術館には誰もいなかった。
 
 その後、がんばって、新国立美術館の「フォリップス・コレクション」に。
 それこそ、ロサンゼルスで、「ゲッティ・ミュージアム」という、見るも無惨と言うか、最悪のコレクション+(プラス)ゴッホのアイリスを巨万の富で競り落とした、学芸員はいないのか?と思うような、下品な並べ方をしたミュージアムに行ってきたばかりだったので、今の政治もさることながら、アメリカを本当に軽蔑しようと思っていた矢先に、きちんとしたアメリカのコレクションを見て、極端な思考に走らずにすみました。
 たいへんまともでした。
 しかし知識もなく、見ていて「サム・フランシス」という人の「ブルー」という絵をみて、大変元気をもらったような気がして、この人はどんな人なのだろうとウィキると、あっ、出た、「こういう絵は井上有一の影響を受けたんだ」という(さる知り合いの文化人の…汗)声が聞こえてきそうな、ジャンルの人だったんですね。
 それはその通りです。ただ「ブルー」の作品群は、サム・フランシスが病気で、かつ評価が得られなかったときだったそうで、でもその絵が元気をくれる。
 たぶん、そうです。大家になると、安定感が出て来てしまって、全くスリリングじゃなくなり、「気」っていうもので書かなくなるんですよね。
 大家は大家になる前の作品がいい。
 櫓(ろ)を打ってはらわた凍る夜(ゆ)や涙
 これは、芭蕉が俳句を完成させる以前の句。「奥の細道」のよりよっぽどいい。
(このオリジナルも「さる知り合いの文化人」の家にあった、なんだか今回呪縛されている…汗)
 つまり、作品には何というか「気」、あるいは「何か宿った」けれども、その人間が大成していないスリリングな時代、これが、やみくもに「今」を生きている人間には、共感できる、ステキだと思える。そう、一生大成しないと、一生スリリングですよ。
 ちなみに、ゲッティ・ミュージアムも石油王のコレクションによるもの。サム・フランシスをコレクションしてサポートしたのも出光石油の出光氏。生かすも殺すも石油王次第、つまり金次第というのも現代の産物。

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2011年9月24日 (土)

ロサンゼルスの休日

 仕事が終わったとたんに、車からバスに乗る生活に。明らかに今までの人々とは違う人たちが乗っては降りてゆく。気づいたのは、「戦前の日本人?」かそれよりも背の低い人たちにたくさん出会った。たぶんメキシコから来た人たちのようだ。本当に150センチもない。乗り換えて乗り換えて目的地にたどり着く。車なら20分のところを2時間もかけなければならない。ついつい乗り過ごしてしまうと「しょうがない、次で降りろ」と運転手に言われる。何台かのバスが止まっているところについて「ダウンタウンに行くのはこのバス?」と聞くと、「そうだ、どこ行くんだ?リトル・トーキョー?よし、面倒みてやる」ということで、このラスタファリの髪の毛の体格よく、太った運転手に連れて行かれる。お金を払おうとすると「金はいらない、払わなくていい」。私から1ドル50セントを取ろうとはしなかった。
 ぐるーんと回送して始発駅から人々が再び乗ってくる。車いすの老人が乗って来た。「そこを退いて」。扉からスロープが降りて、さらにバスの優先席はあっという間に、車いす専用のスペースに。車椅子の老人は自分で、前輪の右側をバスの備え付きのベルトにくっつけて車いすを固定する。
 彼は、アフリカ系アメリカの老人、車いすには、水、洗剤、衣服、生活用品、食料など、種類別にビニール袋に分類されて、車いすの箇所箇所にくくり付けられている。つまりホームレスの人のようだ。
 「いやー、どう?元気?今日はどんな感じ?今日は、まあまあ大変だけど、うまくやったほうだと思うよ。ほら、あんた早く座らないと、けがするよ」など、なんやかんやとしゃべりまくっている。それに、人々は、「あー、ありがとう」「よかったねぇ、今日はうまくいって」「まぁ、いつもとかわらずに仕事も終わったよ」などと、まわりの乗客は、彼と楽しくしゃべっている。孤独なホームレスの老人がひとりごとのように、しゃべりかけてくるのをみんなが受け答えしている。その暖かい空気がバスの車内に溢れ出したとき、私は涙が止まらなくなってしまった。その人々が次々に降りて、私とその老人になると、彼はしっかり口を閉じてしまった。つまり、私には英語が通じないということが彼にはわかっているようだ。
 バスを降りて目的地へ。今日は、「バイシクル・ピープル」という人たちに会った。ロサンゼルスでは、車がないと生きてゆけない。車で20分のところをバスなら2時間かかるのだから。それでも、車の持てない人々が集まって、「自転車生活」を送っている人々が集まるバーがある。リトルトーキョーからそんなに遠くない。ニューヨークの「ブルックリン橋」を作った鉄鋼会社が経営しているドイツビールのバー。そこで、自転車を安価で買う情報、自転車修理のボランティアを探したり、ツーリング計画をしたり。アメリカの車社会の変革など、社会問題に目覚めている人々が集まって来る。「バイシクル・キッチン」というNPOがある。車を持てない自転車生活の人々の支援活動をしている。
 あっという間に、自分の階層の人々のもとへ戻ってくるわたし。築150年のビール工場で、やっと、ほっとできる人々に囲まれて、うまいドイツビールを飲む。

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