2009年11月 7日 (土)

近代居合術、現代能

 近代居合術というのは、戦前(昭和15年頃)の陸軍士官学校で採用されていた、近代戦に対応した軍刀術。軍服を着、ブーツをはいた状態で、軍刀を使うため、伝統的な座位はなく、立ち技のみ。居合から五本の型のみを採用、それと、走りながら斬撃する操法がある。戦後、陸軍の解体とともになくなったが、その技術は、現存している。
 今年の9月、新作能「水軍女王」を演ずるにあたって、その基本的な型を学んだ(まこちゃん先生、ありがとうございました)。
 軍服にブーツ、なので、ジャージにブーツをはいて、夜の公園で稽古をした。
 本当に近代的、いや現代的だ。
 その公演も無事終了。

 そして、今、能の仕舞「船弁慶」をおさらい中。しかし、三畳のアパートで稽古は出来ない。ウィンド・ブレーカーを着て、再びブーツをはいて、夜の公園に赴き、扇を広げ、船弁慶を舞う。
 能は摺り足、ということで、公園の土に、仕舞の軌道線がくっきりと残される。
 
 軍服でブーツが近代居合術なら、ウィンド・ブレーカーにブーツは、現代能?
 ん〜、新しい作品が出来そうだ!

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2009年4月27日 (月)

南の国の物語(ベトナムの神話より)

 むか〜し、むかし、南の国に、「アン・ズォン」という王さまがいました。海のように広がる池のふもとで、「人々が平和に暮らせるにはどうしたらよいのだろう?」と祈り、瞑想をしていると、亀の姿をした神「キム・クイ」が池の中から現れました。
 「この池のふもとから螺旋の階段を持つ城を建てなさい」
 そこで、アン・ズォン王は、そのとおりに城を建てると、とても誰にも攻め入ることのできない「コーロア城」が出来上がりました。

 王は、人々と手を取合ってよろこびました。

 アン・ズォン王は、コーロア城の完成を感謝して、螺旋階段を降り、池のふもとで、祈りを捧げ、瞑想をしていると、再びキム・クイ神が池の中から現れました。
 「私の爪から弓を作りなさい。その弓は、一矢で千人を倒すことができるだろう。」
 キム・クイ神は、自分の亀の足の爪をアン・ズォン王に与えました。そこでアン・ズォン王は、そのとおりに弓を作ると、とても強い弓ができました。
 
 人々は、その国で、田を耕し、仕事が終わると、歌を歌い、そして踊り、楽しく、平和に日々を暮らしていました。
 
 ある日、南の国よりもはるかに大きな力を持った北の国が攻めにきました。
 しかし、固いコーロア城は崩れず、キム・クイの爪から作った弓で、一度に千人の兵士が倒れてゆくのを見て、攻め入った北の国の「チョー・ダ」王は、アン・ズン王に休戦を申し込みました。

 そこで、チョー・ダ王の息子「チュン・トォイ」は、アン・ズォン王の娘「ミィ・チャウ」と結婚することになり、チュン・トォイがコーロア城にやって来ました。
 華やかな結婚式が、行われ、人々は踊り、歌い、ふたりを祝福しました。

 ふたりは、仲良く暮らしました。

 ある日、父のアン・ズォン王が狩りに行っている間に、チュン・トォイは、妻のミィ・チャウから弓のある場所を教えてもらい、それを自分の弓とすり替えてしまいました。

 お彼岸の日、チュン・トイは、祖先の供養をするために、北の国に帰らなければならないにと妻のミイ・チャウに言いました。
 「もし、万が一、戦いにでもなったら、どうやってお前を探せばいいのだろうか?」
 「戦いが始まったら、私は鷲鳥の羽で作った着物を来て、その羽をひとつずつ落としてゆきます。それを探して私を見つけ出して下さい。」

 チュン・トイが帰ってほどなく、北の国は、再び戦いを仕掛けてきました。
 娘は夫の裏切りを悲しみました。
 アン・ズォン王が敵に弓を引いても、敵は一人しか倒せません。じわじわと、北の国に攻め入られてゆきます。
 その夜、亀の姿をしたキム・クイ神が再びアン・ズォン王の前に現れ、「おまえの娘が、弓のありかを敵の王の息子に教えたからだ」と告げました。

 王は、娘の裏切りに怒り、娘を斬り殺しました。
 そして、娘を殺したことを嘆き、自殺しました。

 チュン・トイは、誰よりも先に城に入り、鷲の羽を追ってゆきました。しかし、そこで見たものは、無惨に殺された妻の姿でした。

 チュン・トイは妻を抱いて、池の中に入り、自らの命を終えました。
 
 その戦いの後、池から続く海には、真珠がたくさん採れるようになり、人々は、ミィ・チャウは真珠になったと言うようになりました。
 その真珠をかつてのコーロア城のふもとの池で洗うと輝きが増すと言われ、池のふもとの人々は、海で採った真珠を村に持ち帰り、真珠の首飾りをつくる村として、人々に知られるようになりました。

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2009年1月10日 (土)

ガザより

東エルサレム在住、NGOパレスチナ子どものキャンペーンの川越東弥(かわごえやよい)さんより、ガザの現状の報告と日本のみなさまへのご理解と御協力のお願いが来ました。ご賛同できる方は、以下に掲載します報告を是非、一読頂き、御協力、支援をお願いしいます。

NGOパレスチナ子どものキャンペーンのホームページで情報発信をしています。
お時間あるときに覗いてみてください:
http://ccp-ngo.jp/

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パレスチナ子どものキャンペーンです。

「ガザの声をあなたが伝えてくれることで、多くの人の命が助かるかもしれない」とガザからモハンマドさんは言っています。

ぜひ、モハンマドさんの声を多くの人に伝えてください。イスラエル軍が占領しているジャバリアにいた彼とは、その後連絡が取れていないので、現在の安否は不明です。

エルサレムにいるパレスチナ子どものキャンペーン川越駐在員よりの報告です。
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ついに恐れていた地上戦が始まりました。

攻撃が始まった4日の夜10時過ぎに携帯電話にメールが届きました。

「電力や電話線が破壊されたため、携帯電話がいつまで使えるかわからなくなりました。携帯電話は私たちが外の世界とつながっている唯一の通信手段です。

電気も水も物資も完全に閉ざされた、寒い冬のガザでは、かろうじて自分の家や地元にいる人でさえ、孤立化することになります。

イスラエル軍の戦車が攻撃し、家や建物を壊し始め、何一つ残らなかったらどうしたらよいのでしょう。

負傷者がいても、どうやって救急車や助けを呼ぶことができるでしょう。

家族や友人、知人が亡くなっても、どうやって知らせたらよいでしょうか。どうやって知ることができるでしょうか。

現在唯一の通信手段である電話が使えなくなったら…。
そのような最悪のシナリオを考え続けて、頭が痛くなります。

今の自分にできることは少ないですが、この私の声を届けることで、あなたが行動し、攻撃に異を唱え、ガザの人々を助けられるかもしれません。」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

このメールを送ってくれたのは、ガザに住むモハンマドさんという青年です。
日本のジャーナリストの通訳をしていたので昨年知り合ったのです。
急いで彼の携帯に電話しました。

モハンマドさんは次のように話してくれました。

「いま私は、ガザ北部ジャバリアにある赤新月社の病院にいます。

私の家は、ハン・ユニス中心部から更に離れた場所に位置する村にありますが、いてもたってもいられず、病院にきてボランティアをしています。

元々NGOなどのボランティアをしていたので、こういう事態にこそ何かしたいと思い、駆けつけました。

(電話の向こうからゴーっという重苦しい音が聞こえる)

地上戦が始まって、北部は更にひどい状況になっています。
今も空ではイスラエル空軍が活動していて、いつ空から攻撃されるかわからない状態です。

今まで生きてきた中で、何度も辛いことがありましたが、今が一番ひどい状況です。

今のところ家族はみな無事ですが、電話が使えなくなったらどうやって安否を確認できるかわかりません。

ガザの外にいる人に、少しでも現地の声を届けられればと思いメールを送りました。電話をくれて、ありがとう。

次に会うときは、平和なガザで会いましょう。」

※パレスチナ子どものキャンペーンの川越駐在員は、いまエルサレムにいて、国連や各国のNGO関係者と、ガザに物資を入れるための協議や努力を続けています。

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ぜひ、皆様もできることでご協力ください。

こんなことがすぐにできます。

1.このメールを知っている人に転送する。
参加しているメーリングリストに送る。

2.停戦を求めるピースパレード(1月10日)に参加する。
http://ccpnews.blog57.fc2.com/blog-entry-11.html

3.封鎖解除の署名をする。
http://www.shomei.tv/project-433.html

4.緊急募金をする。
http://ccp-ngo.jp/bokin.html

5.ボランティアをする。
ccp@bd.mbn.or.jp にご連絡ください。
ピースパレード当日のボランティアも受け付けています。

6.その他なんでも

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★新着情報のお知らせ

ガザ現地からの市民の声は、当会のホームページで逐次ご紹介しています。

掲載 「ガザ攻撃の背景と今後」 ウリ・アブネリ

イスラエル平和運動の長老であるウリ・アブネリさんの分析の翻訳を載せています。現在起きていることの歴史的な意味を理解することができますので、長文ですがじっくりとお読みください。以下はその抜粋です。

「バラク(現国防相)とリブニ(外相)の二人は、昔ながらのトリックに頼ろうとしている。世論調査によると、今回のガザ侵攻48時間以内に、バラクの率いる労働党の支持率はクネセット(イスラエル国会)の議席5つ分増えたと言う。

1議席あたりパレスチナ人の死体80人分に相当するというわけだ。だが、積まれた死体の山の上を歩くのはやさしいことではない。もしイスラエル国民がこの戦争を失敗だと考えたら、彼の成功は、瞬時にして霧散消失してしまう程度のものだ。例えば、ハマスのロケットが相変わらず、Beershebaの町に着弾するとか、地上侵攻がイスラエル軍側の重い人的損失を招くなどのことが起きれば。」

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特定非営利活動法人 パレスチナ子どものキャンペーン
Campaign for the Children of Palestine(CCP)
〒171-0031 東京都豊島区目白3-4-5 アビタメジロ603
Tel:03-3953-1393 Fax:03-3953-1394
Email: ccp@bd.mbn.or.jp
HP: http://ccp-ngo.jp/

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2007年4月11日 (水)

熊野古道と南朝

熊野古道を歩いて、本当にこんな道を「天皇」が歩いたのだろうか?と思った。足の踏み場もない、崖の下り坂、登り坂、何度も滑るこの坂を、「天皇」という「非弱なイメージを持つ人」が本当に歩いたのか?という疑問がつきまとう。近露王子から牛馬童子像まで、寝不王子から滝尻王子まで。その他にも、熊野古道を歩いた人は口々に、この道の「思いもよらぬ難所」を語る。
 世には「熊野古道を歩こう」「世界遺産熊野古道を歩く」など、その手の本が出回っていて、さぞかし、熊野古道のハイキングコースは、観光客でにぎわっているのかと思いきや、桜満開のこの季節でも、この道は静かだ。
 と同時に、「徳川家康」のことを思い出した。彼は、江戸幕府を開いたが、戦国時代の武将でもある。彼は本当に武将として強かった。幕府を開いた後も、何度も大々的な鷹狩りをしている。つまり、動物を殺す、「殺戮」の感性を決して忘れようとはしなかった。
 戦国の武将たちは、「本当に強い男」に敬服する。この男なら命を預けられる、という「命の銀行」「命の預け先」を探したと言う。まさに実力社会の時代。
 そのはじまりは鎌倉時代だ。男として、憧れる男、敬意を抱く強い男、「武士」が弾頭した。当時、社会は「教養」よりも「力」にあこがれ、そこに崇高さ、美学を求めた。
 それに「当時の天皇」が気づいたのだ。平安後期の花山上皇(968-1008),白河上皇(1053-1129)に始まり、鳥羽上皇(1103-1156)21回、後白河上皇(1127-1192)34回、後鳥羽上皇(1180-1239)28回と、熊野古道を歩いている。
 天皇は、時代に遅れまいと一生懸命、「強い男」を目指していたのだろうか?

 最多記録の後白河。彼こそ、幼少のころから、「今様」に狂い、「天皇のくせに今様(最新のポップソング)にうつつをぬかして、情けない」と公家社会から言われた男だ。さらに「今様のオリジナルバージョン(古流)」を知る乙前(おとまえ)という遊女を師匠として敬愛した。
 「今様」を歌い舞う白拍子。男装をし「女なのに男みたいで、かっこいい」と武士たちから絶大な支持を得たアイドル、そして彼らの武運を守護する新しいタイプの巫女。もちろん、熊野詣(もうで)に精を出したような平安末期、鎌倉初期の上皇たちも、流行に遅れまじと白拍子を召し抱えた。白拍子たちは、戦場、殺戮の場にも同行し、「従軍慰安婦」として、さらには、怨霊になることを怖れて、敵の首長の処刑の前夜に、「絶頂の夜」を与えるための「従軍慰安婦」として活躍した。
 一夜妻の潔さ。そんな美徳があったのだろうか?新宮の青年たちが話していた「村一番の娘」、古事記のころから記事として目にする「マレビト(外来者)を受け入れる巫女」そんな女性たちの記憶が熊野にある。
 そして、熊野の山に奥深く潜む逃散の人々、路地に住む人々。
 上皇と逃散の人々、「貴と賤」という構造。熊野古道を歩いて、体力の限界で見た目眩の構図だ。

 実際、彼らは「天皇」を譲り、「上皇」となった。または「院」とよばれ院政をしいた。「院」、つまり、宗教者だ。「天皇」では、通用しなくなった世に、さらにカリスマを得ようと、「院」を名乗ったのか?あまりに不用意な発言かもしれないが。
 しかし、彼らは、宗教というカリスマにすがった。そのカリスマ宗教が「天台宗」だったのだろう。
 時代が下って、後醍醐天皇の息子、護良(もりよし)親王(1308-1335)が、挙兵をしたとき、熊野の中辺路近露王子の豪族たちが、彼に従った。いわゆる「建武の新政」の始まり。そこには逃散の人々も加わったのだろう。護良親王は天台座主(天台宗の最高位)になっている。平安後期からの先人の上皇たちの熊野詣の歴史が、護良親王の挙兵を快く受け入れる下地を作っていたことだろう。天皇が権力を得ようとした最後の時代。
 健全な社会人、税金を納めていた一般庶民にとって、安全の保障先は無論、幕府だった。
 その新興権力に背き、「カリスマ」に忠義を尽くす人々は、「納税と安全保障」とは関係のない「アンタッチャブル」、つまり「逃散(非課税者)」だった。それが「南朝」と「熊野」だったのだろう。
 そんな「力」を失いつつあった南朝が、熊野の人々に求めたものこそ「力」だった。それも「悪」という力だ。「悪」とは、純粋な「力」そのもの。社会を逸脱した、一般社会では受け入れられない、または認められない「力」だ。それは「怪力」であったり、「暴力」だったりする。
 
 子どものころ、春の吉野千本桜を見に連れられて行った。そこに行けば、京都に向かって、つまり「北面」の後醍醐天皇の墓碑に出会う。個人蔵の日本最古の日章旗を見た。そこまで行けば、ついでに十津川にも足が届く。その旅路を常に黒い装甲車が付いてきたのが、なにげに恐怖の記憶として残っている。特に、十津川では、天誅組の、「ここで誰それが、斬り殺された」「ここで、誰それが殺された」という墓標のひとつひとつに、想いをこめて立ち止まっていた人たちの光景を思い出す。
 
 不思議な日本の歴史だ。しかし、「てんのーへーか、ばんざーい!」と叫ぶ日本の人々の血がここにある。
 再び新宮の青年たちのことばを思い起こすなら、「今の天皇は北朝なんだよ」。つまり熊野の人々の敬愛する天皇は、アンタッチャブルに慈悲を注いだマッチョな南朝なのだ。北朝ではない。
 そんな、北朝の皇族、現在の浩宮(ひろのみや)皇太子が、1992年、771年ぶりに、高原熊野神社を訪れたという。
 登山好きで、マッチョな太ももを持った徳仁(なるひと)親王(浩宮皇太子)。偶然とはいえ、彼は、消え去った遥かな南朝から、久々の熊野御幸をした皇族として記憶された。
 
 「南朝は消え去った」とはいうものの、日本人の心には絶大なる天皇崇拝があることを改めて思う。特に熊野詣をした上皇の「カリスマ」。その「カリスマ」は、日本人の中で、綿々として北朝の現天皇家にも注がれている。
 
 特に、第二次世界大戦後、実権を剥奪され、「国の象徴」と言われ、さんざん福祉関係の施設の訪問をする現在の天皇家の人々には、かえって南朝がもっていた、「一般社会の弱者を愛する天皇」というイメージが重なる。「福祉活動に熱心な天皇家」というイメージ。これは、「建武の新政」当時の上皇たちから学んだ姿なのだろうか?

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2007年4月10日 (火)

熊野のお土産 その2

 清姫手ぬぐい…滝尻王子にある熊野古道館でゲット。安珍・清姫で有名な清姫は中辺路出身で、中辺路の人たちは、清姫が大蛇になって安珍を焼き殺したのではなく、大蛇になって死んだ清姫とあの世で結ばれました、というお話になっています。日本手ぬぐい。なんせかわいい。200円

 金山寺味噌(うす塩味)…帰りは和歌山から夜行バスだったので、和歌山駅でゲット。丸新本家。味噌のきらいな私でも、この金山寺味噌は美味いと思う。785円
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熊野のお土産

 熊野牛王神符(くまのごおうしんぷ)…熊野本宮大社でゲット。八十八羽の烏で書かれた「カラス文字」、盗難防止、船酔い防止、病気が治る。でもこの神符の前で誓ったことを破ると、熊野の使いの烏が死んで、自らも血を吐いて死ぬという…。
 紀州中辺路の梅干し…高原熊野神社の駐車場でゲット。本当に中辺路の梅干しは美味い。500円

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滝尻王子到着!

14:43滝尻王子 着いた!雨は降るし、もう死ぬかと思った。熊野古道めちゃくちゃしんどいですよ。特に最後の寝不王子(ねずおうじ)から滝尻王子は、足の踏み場もないような急な坂だし。何度もすべった。あーもうふらふら。
 なんか社があります。
 それから、朦朧としていますが、後鳥羽上皇の歌「おもひやる かものうはけ(上毛)のいかならむ しもさへわたる やま河の」というこの字、めちゃくちゃきれいだ。
 それと、五十嵐播水の句碑「松蝉や熊野古道(ふるみち)草の中」「滝尻や夕日に鮎のまた掛かり」一応、子どものときの俳句のセンセーだったんで。

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乳岩と胎内くぐり

14:30乳岩と胎内くぐり
密教的解説をすれば、この胎内をくぐることによって、人間として生まれる前の宇宙(胎蔵界)の旅が始まる。ここからは、社会から隔絶された修行者たちの世界ですよ、という徴(しるし)。熊野本宮から来たのだから、ここからまた人間社会に戻るのです。
 大きな岩の下の石は床のような平な岩で、ここで雨露をしのぎながら、行者が瞑想をしていたのだろうか、と思う。

 中辺路についている王子の名前、または「王子」そのものについて。東京の人なら
 十丈→十条(京浜東北線)
 王子→王子(京浜東北線)
 寝不→根津(地下鉄千代田線)
 とか、思いますよね。そういう「二字熟語」って、きっとどこかにオリジン(起源)がるのでしょう。
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2007年4月 9日 (月)

大門王子→高原熊野神社

大門王子から先の池 写メールではよくわからないけれども、本当に翡翠のような緑。

 12:17高原熊野神社の集落の入り口にある庚申さま チベットの高僧の帽子みたいなのをかぶっている。
 13:00 高原熊野神社の楠木 デカイ!
 
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大坂本王子→十丈王子→大門王子

 9:24大坂本王子着!
 11:04十丈王子ちゃーく!
 なんか、石仏の頭らしきものと見受けた。
 11:44大門王子着 
 これって、梵字で「オン」って書いてあるの?
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花山院宝筺印塔(ほうきょういんとう)

牛馬童子と阿弥陀さま?の石仏の後ろに「不動明王」不動明王がこんな健全にたっているところをみると、これは新しい石仏でしょうか?
 この3体が向かって見ている位置に立っているのが、花山法皇が書いた経を収めた「花山院宝筺印塔(ほうきょういんとう)」
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近露王子→牛馬童子

4月7日(土)
 8:00am近露王子スタート!
 この「近露王子」の字は、出口王仁三郎の字。大本教弾圧の時、出口王仁三郎関係の石碑は全国津々浦々全部取り潰されました。残っているのは、これだけだそうです。

 8:35am 牛馬童子像
 左が牛、右が馬、この両方にまたがった「花山法皇」の姿だそうです。 
 その横の阿弥陀さま?右手がOKマーク、左の手のひらをみせている石仏。
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2007年4月 8日 (日)

「千年の愉楽」検証

 中上健次の「千年の愉楽」という小説がある。
 この小説に出てくる「美形の男たち」の出自はすべて「路地」。そして、凄まじく刹那で、不幸のうちに若くして死んでゆく姿が描かれる。
 中川王子から近露王子までの間に、集落ともいえない単位で、時々家が建っている。「家」と言えるのだろうか?と思える「建物」で、屋根があるからしのげると言ったようなもの。
 熊野の路の遠くにも2・3軒の建物を見つけたが、多くは熊野の路に沿って細長く建っている。カーテンがなく、外から部屋が見えるような家から、雨戸を閉め切った家まで。もう住んでいないだろうと思えるものもある。
 明らかに住んでいない放置された建物。そのそばに新たに住居が建てられている。
 見かける人たちは、おばあさんかおじいさん。みんなものすごく背が低く、小さい。一度だけ、おばあさんの娘か嫁にあたる人をみかけた。
 パイプ椅子におばあさんが腰掛け、ただ目の前にある洗濯機を眺めている。その奥に背を向けて、野菜を剥くために包丁を持っている女性(ひと)。彼女たちには、なんのことばもなく、熊野の静寂なときが流れている。
 この季節は一日中、うぐいすが鳴いている。そして、他の鳥たちの声も、その旋律もすべて「美しい」。世界は人のことばによって流れるのではなく、路地の人が聴いているであろうと得意げに鳴く鳥たちの声によって流れて行く。
 信じられない光景だった。
 若者たちは、仕事に出ているのだろうか?近露王子にたどり着く。その一帯の家は、いわゆる東京の郊外にあるような、一般的な一戸建て住宅。その住居の差は明らかで、最も立派だと思える建物は、小学校と中学校だった。
 中上の小説では、若者たちは、工事現場や炭鉱現場に出稼ぎに行ったり、街へ降りてゆく。そして街のものたちは、彼らを「路地のもの」と、すぐに見分ける。
 「路地」のものたちが、美形なのは、「高貴な血ゆえ」と小説には、書かれている。地元の人たち自身が、「天皇が来たとき、村で一番の娘を差し出すんだよ。その落し種が、おれたちなんだ」と言う。彼らの「美形」は「天皇の血」だと言うのだ。
 「王子」と呼ばれる場所は、今では、その石碑と解説の看板があるだけだが、当時は借宿でもあった。そこで落とされた「落し種」が、「熊野」を「天皇」と強く結びつけた。それも「南朝」の勢力基盤の根拠地として。
 もともとの豪族もいた。彼らは、いわゆる熊野の住み良い盆地に定住していた。
 しかし、熊野路を歩く行者や、中上の小説にも出てくる「突如現れる巫女たち」。そして山深く住むもの。古代には、田畑の税を払いきれなくなったものは、土地を捨て、逃亡、浮浪した。その同じ行為を中世、近世では、「逃散(ちょうさん)」と言った。
 その中で、「突如現れる巫女」たちは、突然、人々の前に現れ、歌い、舞い、そして赴くままに春をひさぐ。すべて収入を得るためだが、これは、白拍子の末裔でもあり、私の先輩でもある。なぜ、彼女たちは熊野に住み続けたのだろうか?
 身を隠す必要のある女性。今でもいる。罪を犯したもの。自分の子どもを殺したり、捨ててしまったもの。夫の暴力から逃げてきたもの。家庭を捨てるもの。逃散の一家。不治の病、伝染病と宣告されて村を追放されたもの。事情はさまざまだろう。中上の小説には出て来なかったが、歌い、舞えないものは、比久尼となって絵解き曼荼羅を語っていたのだろうか?
 そんな人々が熊野には住んでいた。そんな文章は、中世を研究していれば、いやというほど、目にしてきたのに、この道を歩くまでは、実感がなかったのだ。廃屋となった小屋をいいことに、逃散したひと、巫女や比久尼たちが、雨風をしのいでいたのだろうか?
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比曽原王子

そして比曽原王子へ。この先に、千手観音かな?という石仏が。熊野古道にたたずむこれらの石仏は、とても小さいです。
千手観音は、かろうじて祀られていますが、両手に五鈷杵、独鈷杵をもった石仏とか、不動明王系のような密教的な石仏は、顔が削られているし、それらしき「文言」も消されている。廃仏毀釈のときの影響でしょう。役行者からと言われている熊野古道。平安・鎌倉のころは「天台宗の行者路」だったでしょうからね。
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桜継王子

桜継王子のあたりには、ものっスゴイ大きい杉がいくつもある。社の正面の杉は、雷が落ちた後らしい、切れ目凄まじい杉が。
しかし、この熊野古道、今、桜満開です。なのに、この人の少なさは、なんでしょう。
「熊野古道を歩こう」なんて本がよく出ているので、ハイキング姿に人たちを見かけるのかと思ったらほとんど、誰もいない。全く静かな熊野古道に密かに桜が満開です。
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小広王子→中川王子

さあ、歩きますよぉ。小広王子から中川王子まで。
写真は小広峠の杉と、中川王子の跡地の石碑。
この「王子」というのは、何て言ったらいいのでしょうね。「ポイント地点」に、小さな社とそのそばに借宿(休憩小屋)みたいなものがあったらしいい。その跡地。とりあえず「王子」は熊野権現(くまのごんげん…「熊野の神様が姿を表した」という意味)の王子さま、こどもということで、祀られていたそうです。
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八咫烏(やたがらす)くん New!

熊野本宮大社を出ると、おそば屋さんがある。熊野大社の「八咫烏(やたがらす)」は有名ですが、ここのおそば屋さんのからすもかわいい。梅干しと大根の入った「詣でそば」735円
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梁塵秘抄

熊野速玉大社に行って、バスで、山を上がって熊野本宮大社へ。
入り口に梁塵秘抄
「熊野へ まゐるには 紀路と伊勢路の どれ近し 広大慈悲の 道なれば 紀路も伊勢路も 遠からず」
 紀路は、大阪方面から太平洋湾岸沿いに歩く路、伊勢路は伊勢から太平洋湾岸沿いに歩く路、いずれも新宮に至り、そこから熊野川沿いに上がっていく。
 そんなもん、どっちも遠いわい。
「熊野へ 参らむと 思へども 徒歩より参れば 道通し すぐれて 山きびし 馬にて参れば 苦行ならず 空より参らむ 羽たべ 若王子」
 どうやったら楽に熊野へ参れるだろう?歩かないとありがたさがわからない。楽をしては行にはならない。でも羽があったらね。と、「苦行マニア」なら、どうしてもチャレンジしたくなる熊野路です。
 梁塵秘抄は、とりあえず、白拍子にとって、先輩たちの残したたいせつな歌詞集ですから。この二つの歌も五七調ではなく、四八調のまざっている、古い歌のリズムがあります。
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