2009年4月27日 (月)

南の国の物語(ベトナムの神話より)

 むか〜し、むかし、南の国に、「アン・ズォン」という王さまがいました。海のように広がる池のふもとで、「人々が平和に暮らせるにはどうしたらよいのだろう?」と祈り、瞑想をしていると、亀の姿をした神「キム・クイ」が池の中から現れました。
 「この池のふもとから螺旋の階段を持つ城を建てなさい」
 そこで、アン・ズォン王は、そのとおりに城を建てると、とても誰にも攻め入ることのできない「コーロア城」が出来上がりました。

 王は、人々と手を取合ってよろこびました。

 アン・ズォン王は、コーロア城の完成を感謝して、螺旋階段を降り、池のふもとで、祈りを捧げ、瞑想をしていると、再びキム・クイ神が池の中から現れました。
 「私の爪から弓を作りなさい。その弓は、一矢で千人を倒すことができるだろう。」
 キム・クイ神は、自分の亀の足の爪をアン・ズォン王に与えました。そこでアン・ズォン王は、そのとおりに弓を作ると、とても強い弓ができました。
 
 人々は、その国で、田を耕し、仕事が終わると、歌を歌い、そして踊り、楽しく、平和に日々を暮らしていました。
 
 ある日、南の国よりもはるかに大きな力を持った北の国が攻めにきました。
 しかし、固いコーロア城は崩れず、キム・クイの爪から作った弓で、一度に千人の兵士が倒れてゆくのを見て、攻め入った北の国の「チョー・ダ」王は、アン・ズン王に休戦を申し込みました。

 そこで、チョー・ダ王の息子「チュン・トォイ」は、アン・ズォン王の娘「ミィ・チャウ」と結婚することになり、チュン・トォイがコーロア城にやって来ました。
 華やかな結婚式が、行われ、人々は踊り、歌い、ふたりを祝福しました。

 ふたりは、仲良く暮らしました。

 ある日、父のアン・ズォン王が狩りに行っている間に、チュン・トォイは、妻のミィ・チャウから弓のある場所を教えてもらい、それを自分の弓とすり替えてしまいました。

 お彼岸の日、チュン・トイは、祖先の供養をするために、北の国に帰らなければならないにと妻のミイ・チャウに言いました。
 「もし、万が一、戦いにでもなったら、どうやってお前を探せばいいのだろうか?」
 「戦いが始まったら、私は鷲鳥の羽で作った着物を来て、その羽をひとつずつ落としてゆきます。それを探して私を見つけ出して下さい。」

 チュン・トイが帰ってほどなく、北の国は、再び戦いを仕掛けてきました。
 娘は夫の裏切りを悲しみました。
 アン・ズォン王が敵に弓を引いても、敵は一人しか倒せません。じわじわと、北の国に攻め入られてゆきます。
 その夜、亀の姿をしたキム・クイ神が再びアン・ズォン王の前に現れ、「おまえの娘が、弓のありかを敵の王の息子に教えたからだ」と告げました。

 王は、娘の裏切りに怒り、娘を斬り殺しました。
 そして、娘を殺したことを嘆き、自殺しました。

 チュン・トイは、誰よりも先に城に入り、鷲の羽を追ってゆきました。しかし、そこで見たものは、無惨に殺された妻の姿でした。

 チュン・トイは妻を抱いて、池の中に入り、自らの命を終えました。
 
 その戦いの後、池から続く海には、真珠がたくさん採れるようになり、人々は、ミィ・チャウは真珠になったと言うようになりました。
 その真珠をかつてのコーロア城のふもとの池で洗うと輝きが増すと言われ、池のふもとの人々は、海で採った真珠を村に持ち帰り、真珠の首飾りをつくる村として、人々に知られるようになりました。

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2009年1月29日 (木)

スモーキーベアの経文

不動明王

1億5000万年前、ジュラ紀のころ、果てしない宇宙の片すみで、大日如来は、そこに集まる万物万象に、優れた説法をしていた。立ったり歩いたり飛んだり座ったりしているものたちに…種子から生まれた130億もの草たちさえも、そこに集まっていた。それは、「地球の悟り」についての説法だった。

南無阿弥陀仏

 「後の世に、アメリカと呼ばれる大陸が現れるだろう。そこには、ピラミッド湖、ワォールデン池、レーニア山、ビッグサー、エヴァーグレーズなどと呼ばれる大いなる力の源が現れて、その力を伝えるコロンビア川、ミシシッピ川、グランドキャニオンという水脈、峡谷が現れるだろう。その時代の人類は、ありとあらゆる苦境に陥り、優れた聡明な仏性にもかかわらず、実際には、すべてを破壊するだろう。」

南無大師遍照金剛

 「大いなる山々の曲がりくねった地層、大いなる火山の脈動は、地球深くに燃える私の愛である。私の頑強なる慈悲は、片岩、玄武岩、花崗岩であり。やがて山となり、やがて雨を地上に降らす。」

南無阿弥陀仏

「後世、アメリカの時代、私は新たな姿でそこに入ってゆくだろう。絶望的な飢えをかかえて探し求める愛なき知識、いくら食べても満たされない思慮なき憤怒の世界を治療するために。」

 そして、彼は真実の姿を現した。

スモーキー・ザ・ベア
スモーキー・ザ・ベア
スモーキー・ザ・ベア

 ハンサムな、燻(いぶ)し色、茶色の熊。彼は、後ろ足で立ち、油断ない様子で立ち現れた、

 右手の「シャベル」は、表層の下に隠された真実を掘り起こし、無用な執着を根こそぎ切り落とし、貪欲と争いの火に濡れた砂を投げ込む。

 友情の徴(しる)である印契(ムードラ)を結ぶ彼の左手は、すべての生物が、与えられた領域で生きる権利を持つことを示し、鹿、うさぎ、シマリス、蛇、タンポポ、とかげのすべてが、仏の教え(ダルマ)に治められた世に生きることを示す。

 彼が身に着けているのは、奴隷、労働者の象徴である青いオーバーオールの作業着。それを着た数えきれない人々が、「救済する」などと言っては、実はただ破壊を繰り返す文明社会に虐げられてきた。

 頭にかぶっているのは、西部の広いつばのある帽子「ウェスタン・ハット」。荒野を守る力の象徴。この荒野こそ、仏の教え(ダルマ)に治められた本来のアメリカ、地球上の人間の真実の道。

すべての真実の道は、山々を通りゆけて行く。

 その背後には、煙と炎の光輪、末世の山火事だ。「物事を手に入れることも失うこともできる」と考える人々の愚行が引き起こした火災だ。実際には、「一心」に集められた青い空、緑の地球に、すべてが広大無限に包有されているというのに。

 彼の思いやりに満ちた性格を示す丸いお腹は、偉大なる地球が、地球を愛し、信じるすべてのものに、充分な食べ物を与えることを示している。

 不経済な高速道路、必要のない郊外を踏みつけ、資本主義と全体主義の虫けらどもを握りつぶす。

 そして信者に課題を示す。車、家、缶詰、大学、靴からから解放され、自己の身体、言葉、心という三つの神秘を修得し、この「アメリカ」という国の腐った木々を思い切って切り倒し、病気になった枝葉を剪定し、切り取ったそれらの屑(くず)を燃やすという課題を。

 激怒することなく静かに、厳格ではなくひょうきんに、スモーキーベアは、彼を助ける人々を照らし出す。しかし、彼の邪魔をしたり、悪口を言う人々に対して、

彼は、怒るぞ
彼は、怒るぞ
彼は、怒るぞ
彼は、怒るぞ
彼は、怒るぞ

 したがって、彼の大いなる真言は、このように。

 「ナマ・サマンタ・ヴァジュラナム・チャンドラ・マハロシャナ・スファタヤ・フム・トゥラカ・ハム・マン」
 「私は、あまねく金剛に帰依します。憤怒なる金剛よ。破壊せよ。」

 そして彼は、森や川を愛するものたちを守るだろう。神々、動物、浮浪者、気違い、囚人、病人、音楽家、陽気な女たち、そして希望あふれる子どもたちを。

 そして、もし誰が、宣伝広告、空気汚染、テレビ、警察に脅かされたら、彼らは、スモーキーベアの戦いの呪文を唱えるといい。

この野郎、溺れて死んじゃえ
この野郎、ぺしゃんこにしちまえ
この野郎、溺れて死んじゃえ
この野郎、ぺしゃんこにしちまえ
×(くりかえし)3回


 そうすればスモーキー・ベアは
 そうすればスモーキー・ベアは
 そうすればスモーキー・ベアは
 必ず「金剛シャベル」を持って、敵を追い出すために現れる。

南無大師遍照金剛

 さて、この経文を朗唱し、日々それを行う人々は、アリゾナ、ネバダの砂漠の砂粒ほど無数の数えきれない功徳を積むだろう。

 水面に浮く油の流出から地球を救う手助けをするだろう。
 人類と自然の調和の時代に入って行くだろう。
 男、女、野獣たちの優しい愛と抱擁を勝ち取るだろう。
 いつも、食べるための熟れたブラックベリーがあり、松の木の下には、座るのに適した日当りのよい場所があるだろう。

 そして最後に、彼らは、至高の完全なる悟りを得るだろう。

このようして私たちは集まっていた。

テキスト:ゲーリー・スナイダー
訳:桜井真樹子

「紫燈護摩(さいとうごま)」と「スモーキー・ザベア・スートラ(ピーター・ガーランド作曲 世界初演)」
月日:2月1日(日)
時間:15:00〜16:00紫燈護摩
   17:00より「スモーキー・ザ・ベア・スートラ」
場所:大徳寺本堂1階 (川口市道合1221)http://www.daitokuji.or.jp/
出演者:桜井真樹子、藤木友美(声明)、井川仁水、斉藤説成(法螺貝)、神田佳子(テンプル・ベル)、加藤亜依(チューブラ・ベル)、篠田浩美(バス・ドラム、ウッド・テンプル・ブロック)、亀井博子(バス・マリンバ)
紫燈護摩:円蔵院流修験道の会
料金:「紫燈護摩お札祈祷料・ごま木」と「スモーキー・ザ・ベア・スートラ」 5,500円
   「スモーキー・ザ・ベア・スートラ」のみ 当日2,000円 前売り1,800円
その他:「スモーキー・_ザ・ベア・スートラ」のみの方も紫燈護摩見学できます。
    紫燈護摩「火渡り」も、一般参加出来ます。
    車でご来場の方は、問い合わせ先(大徳寺)までご連絡下さい。 
問い合わせ先:jitie@alo.com 048-283-9310 (大徳寺)
主催・企画:スモーキー・ザ・ベア・スートラの会

「柴燈護摩」は、今回のガザ侵攻によって亡くなられたすべての人々の慰霊のために行われます。

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2009年1月25日 (日)

スモーキー・ザ・ベア・スートラ

 1994年、この年ACC(アジア文化交流基金)の奨学金を得て渡米したのは私、そして来日したのは、ピーター・ガーランドだった。
  私が渡米する1週間前にガーランドは来日した。彼は当時、ニューメキシコに住んでいた。「アメリカに行ったらどこに行って、何をするんだ?」「アリゾナに行き、ナバホ自治国でナバホ語を学び、ナバホの音楽を聴こうと思っている。」「いつナバホへ?」「7月から」すると彼はおもむろに紙とペンを出し、「7月1日○○で、○○の祭り」「7月2日○○で○○の祭り」と、サウス・ウエストに住む、それぞれのネイティブ・アメリカンの「部族の祭りと行事」を克明に書き出した。つまり、彼は、ニューメキシコに20年近く住んでいる間に、ありとあらゆるネイティブ・アメリカンの芸能を見て来たわけだ。
 彼は、私をこのように讃えた「アメリカ、と言うと人々は、現代音楽だ、コンピューター音楽だとニューヨーク、サンフランシスコへと赴き、誰ひとり、ネイティブ・アメリカンの音楽を聴こうとはしない。あなたは、私が会った初めてのネイティブ・アメリカンの文化、音楽に興味を持ったアジア人だ」
 それは、彼にとって、ことのほか、奇妙なことであっただろう。私たち日本人は、あらゆる面で、ネイティブ・アメリカンとつながった神話を持つ、「古い兄弟」であるのに、そのことに誰一人振り向こうとしなかったのだから。 
 彼は、アメリカにおいても、意識的に都会に住むことに抵抗してきたアーティストだ。
「なぜ、アーティストが都会に住むのか?それは、作品を作る目的が、「都会で成功すること!」であり、音楽を愛する行為ではないからだ。」
「『成功するための音楽?』を作曲することほど、志の低い芸術活動があるだろうか?」
「どこに住むか?それがどのような作曲をするのか?ということだ」
「マジョリティーのための音楽を作りたければ、都会に住むがいい。もしマイノリティーの音楽を表現したければ、マイノリティーの場所に住まなければならない。」
 彼の目指す、芸術的姿勢は、まさしくポール・ボウルズ(1910〜1999)だった。
彼は、来日しても東京を嫌い、すぐさま北へと向かった、佐渡島から、再び本州の日本海側を西に下り、最後に京都、そして奈良にたどり着いた。彼がちょうど奈良に着いた時、そこでは東大寺のお水取りが行われていた。ガーランドは、そこで吹かれる「法螺貝」に、いたく感銘を受けたようだ。「いつか法螺貝の曲が書きたい」彼の日本からのはがきにそう書いてあった。
 それから、15年経った。幸いにもガーランドとの交流は続けられ、彼は「アメリカの声明」を作曲した。それが「スモーキー・ザ・ベア・スートラ」だ。
 法螺貝→熊、祈り→声明。そして経典は、自然派と呼ばれ、ビートニック時代の詩人、ゲーリー・スナイダーの「スモーキー・ザ・ベア・スートラ」によった。彼は、アメリカに蔓延する「仏教」の代表的イメージである「禅」から「密教」へとスライドさせることにより、アメリカ大陸のアニミズムをロッキー山脈の「熊」に託した。
 彼の作曲のスタイルは、一般には「ポスト・ミニマリズム」と言われる。しかし、その中に、アメリカのサウス・ウェスト(西南)の荒涼とした砂漠、しかし、人影のようにおどけて見せるサボテン、遠くから聴こえるコヨーテは、決して私たちから遠い存在ではない。峡谷に日が暮れるのを眺めながら、そこに空いた住居穴からフルートを吹くアナサジの人々で出てくるかもしれない。そんな音が風となって、私の顔をかすめて吹いてくる。それこそ、彼のライフ・スタイルが音となって現れる。彼は作曲家として、彼の思想を音として表現することに、人生をかけて成功した人だ。

「紫燈護摩(さいとうごま)」と「スモーキー・ザベア・スートラ(ピーター・ガーランド作曲 世界初演)」
月日:2月1日(日)
時間:15:00〜16:00紫燈護摩
   17:00より「スモーキー・ザ・ベア・スートラ」
場所:大徳寺本堂1階 (川口市道合1221)http://www.daitokuji.or.jp/
出演者:桜井真樹子、藤木友美(声明)、井川仁水、斉藤説成(法螺貝)、神田佳子(テンプル・ベル)、加藤亜依(チューブラ・ベル)、篠田浩美(バス・ドラム、ウッド・テンプル・ブロック)、亀井博子(バス・マリンバ)
紫燈護摩:円蔵院流修験道の会
料金:「紫燈護摩お札祈祷料・ごま木」と「スモーキー・ザ・ベア・スートラ」 5,500円
   「スモーキー・ザ・ベア・スートラ」のみ 当日2,000円 前売り1,800円
その他:「スモーキー・_ザ・ベア・スートラ」のみの方も紫燈護摩見学できます。
    紫燈護摩「火渡り」も、一般参加出来ます。
    車でご来場の方は、問い合わせ先(大徳寺)までご連絡下さい。 
問い合わせ先:jitie@alo.com 048-283-9310 (大徳寺)
主催・企画:スモーキー・ザ・ベア・スートラの会

「柴燈護摩」は、今回のガザ侵攻によって亡くなられたすべての人々の慰霊のために行われます。

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2009年1月14日 (水)

マフムード・ダーウィッシュの詩 2

永遠なるツァブレ※1

どこへ
ぼくを連れて行くの
お父さん?
風に向かって
息子よ…

…彼らは平地からやってくる
ナポレオンの軍隊は、土地を見渡し軍を据え
古いアコー※2の城壁は、そこに影を映し出した
父は言う、息子よ、恐れるな
弾丸が風を切る音を恐れるな!埃をつけたまま
助かるだろう!まだ助かる
北の山を登れば
私たちは戻ってくる
軍人たちが遠く、彼らの家へ帰る時に

誰が
ぼくたちのあとにこの家に住むの
お父さん?
前あったように
元に戻されるんだよ
息子よ!

家の鍵を指で触れる
自分の肢体のように指で触れると
心が落ち着く
そして鍵に言う
「彼らはいばらの垣根を横断する」。
思い出すぞ、息子よ!
ここに、ツァブレのいばらの上に
二晩、イギリス人たちは、
おまえの父親を
十字架に磔にしたことを、
彼は一度も告白したことはない、
今でも成長している息子には。
そして、彼はイギリス人の銃と
拳銃にまつわる血の物語を
相続させてを話だろう…

なぜ
馬だけを置き去りにするの
お父さん?
家が、仲間といっしょいるために、
息子よ、
ごらん
家々は住人を失って死んで行く…

夜の隊列は、遠くに、
門は、永遠に開(あ)いている。
荒野のコヨーテは、
月を恐れて遠吠えをする。
父は、息子に言う。
お前のおじいさんは強かった!
最後の樫の木の丘に私とよじ登った
思い出すぞ、息子よ。
ここに、ヤニーチャリーが戦争で
雌らばから落ちて死んだのを、
しっかりと、足場を強く掴(つか)んでいろ、
いつか家に戻るために

いつ
お父さん?
明日、もしかするとあと二日後に
息子よ!

明日だった、
長い冬の夜の日々、
背中の風をよく噛まないで考えていた。
ヨシュア・ビンヌンの軍勢が
家々の石の要塞から立ち上がった。
彼らは、
カナンへの道を、息を切らせて歩いた。
ここに
主とともにあった日々の過去がある。
水からワインが作られ
明日、それがここに
多くの愛の上に。
思い出すぞ、息子よ
明日、
十字軍の要塞を思い出す
彼らがニサン※3の月の牧草を噛み終えて、
渡り鳥の軍勢が、渡ってくるのを…

※1 「ツァブレ」砂漠に生息するサボテンの実をさす。刺に覆われていて取りにくくその刺に刺さると痛い。イスラエル、パレスチナ両人ともが自身の性格を自称して使う「外は刺々しく、攻撃的だが、中(心)は、甘く、魅力的だ」。
※2 「アコー」イスラエル北部の都市、1799年ナポレオンのエジプトからの攻撃に対して、オスマントルコの軍がアコーに城壁を築いた。
※3 「ニサン」ユダヤ暦で、西暦の 7月ごろにあたる

 

 

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2009年1月10日 (土)

マンハッタン翁

  「マンハッタン翁」は、2007年1月に初演をして以来、改訂を重ねつつ、毎年1月の元旦に再演しています。
 毎年、今回も共演して頂く地謡のエマート氏に連れられて、正月に観る最初の演目は「翁」でした。翁は、能各流は、錚々たる演者によって開かれます。最初に観たのは、喜多六平太、その次が友枝昭世、そのときは、三番叟が野村萬斎でした。歌舞伎の式三番も観ました。
 そのうちに芸能の翁を見るようになりました。ビデオで奈良豆津比古神社の「翁舞」は、子どものころに見たかすかな記憶が甦るようで、それを確認しようと奈良に赴くようになり、春日大社の翁、吉野南国栖にある浄見原神社の翁と、奈良に残る翁を見るようになりました。
 その翁の舞われる空気の中で、「老いたる人」の智慧が見えてくるように思いました。老人の表情、皺、しぐさ、その姿には、語らずとも語るもの、それは威厳というものでしょうか?さらには、その個人の歴史ではなく、その人の住む土地、人々すべての古今の物語をも語り出す。「その人」がその土地の文化であり、歴史である。その姿が美しいことに、その土地の人々は、彼に敬意を払い、誇りに思うのでしょう。
 私が、1994年、2000年とニューヨークに長期で留学、滞在することができ、その時に、「どうしてマンハッタンの高齢者は、人々の敬意を払われていないのだろう?」と、これは正直に思ったところです。
 おそらく、私はここ数年、日本の「翁」のことと、マンハッタンの老人について、同時並行で考え続けて来たのだろうと、今、振り返ることができます。
 その中で、2005年、日系2世のユザワ・ジョージ氏を紹介され、インタビューをさせて頂くことができました。ここにマンハッタンの翁に出会いました。当然、彼は、日系人がたどった歴史そのものを歩んで来た人であり、それに立ち向かった人です。戦後、食料不足の日本に、率先して何度も食料輸送をし、アメリカ社会における日本人の差別撤廃に多大な貢献をした人として日系社会で尊敬されています。ユザワ氏を知らなかった私は、つまり、日系の社会、そしてその歴史、文化を知らなかったということです。
 日本の「翁」には、日本の古い、そして、「知られざる歴史」が秘められています。それを「秘めた」のは、能を作り出した役者をはじめ、その地域の芸能者でしょう。日本の「翁」はあまりにも神聖であり、神秘です。
 その日本の「翁」の持つ力と、私が知った、マンハッタンの翁たち。ニューヨークのアフリカ系のおかあさんのところにホームステイして知り合ったおじいさん、ネイティブ・アメリカンのホピ、ナバホおじいさん、サウス・ウェストに住むおじいさん、私の知る限りの体験と知識で、新たに創造した作品、つたないものに違いないのですが、それが「マンハッタン翁」です。

 マンハッタン「翁」
 元旦 マンハッタンに三人の翁が舞い降りる
日時:2009年1月12日(月・祝) 18:30開演 19:00開場
場所:LE DECO 1(1階)
東京都渋谷区渋谷3-16-3 ルデコビル
 http://home.att.ne.jp/gamma/ledeco/map.html
前売 2,700円 当日3,000円 (学生各千円引き)
予約・問合せ:onbasarasatanba@yahoo.co.jp 080-3094-0951 [座OKINA]
出演:
 シテ(翁):桜井真樹子(声明、白拍子)
 ワキ(花の精):佐久間二郎(観世流)
 地謡:リチャード・エマート(喜多流)
 小鼓:今井尋也(能楽囃子)
 能管・龍笛:滝沢成実(一噌流)
 声明:藤木友美(声明)
 声明:手塚直子(声明)

舞台監督・美術:村信保
     能面:北澤秀太
     照明:西村聡子
     衣装:永瀬ふみ江

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2008年11月18日 (火)

ジャッファ(Jaffa)の小学校

ジャッファ(Jaffa)の小学校
テル・アビブの南、ジャッファは、イスラエルの独立以前から、あるアラブ人の街。独立戦争のころは、ジャッファのアラブ人とテル・アビブのイスラエル人との射撃線があり、独立直後、ジャッファはイスラエルの占領下に入った。その後、テル・アビブ市に合併された。
 今では、イスラエル側になるジャッファとテル・アビブを分けていた境界線には、大きなモスクがある。独立戦争前は、このモスクがアラブ人たちのジャッファの中心地だった。
 このモスクからジャッファの方に入っていくと、オスマン・トルコ時代に建てられた時計台、そして、「アラビアのロレンス」と呼ばれたトーマンス・エドワード・ロレンスが、投獄された牢獄もある。その先には、イスラエル人相手のレストラン、お菓子屋さん、骨董市場など、観光地にもなっている。
 その「観光地」のさらに奥(南)に、市民は住んでいる。素朴な家は、アラブ人、その中に新築の豪勢な住宅が現れるが、それはイスラエル人。建設中のものも多くある。その中を進んで行くと、ビル・ナバラ(Bir Nabbala)小学校が見える。
 ここで、毎週月曜日にボランティアで、合気道を教えているイスラエル人、アミール・フォーゲルマン(Amir Fogelman)がいる。彼のバイクの後部座席に乗り、それを手伝いに行った。
 午前中、2クラスを教える。最初のクラスは、10歳以下の子どもたち。「座りなさい」「並びなさい」こういうことに何分もかかる。合気道は、最初と最後に「正面に向かって」礼をする。正座をし、そして、「お辞儀」をするわけだが、彼らにとってのこの動作は、アッラーの神への礼拝以外の何ものでもない。ついつい子どもたちは「アッラー・アフバル」と口をついて出てくる。「黙って礼!」と、指導者のアミールは、日本の道場に倣(ならお)うと、黙って礼が出来るまで、何度もやり直す。
 最初と最後の礼以外は、とにかく楽しく。みんな積極的に「次、ぼく!」と手を挙げて、技を習おうとする。
 10月6日、今日は、初めて女の子が参加した。私の横を離れない。
 イスラムでは、13歳ごろを境に、男女は別々に勉強も生活も行われる。
 合気道をもちろん女性でもできる。
 「最後にみんな正座したところを写真に撮ろう!」と言うと、いつもの3倍の速さでみんな正座した。
 このボランンティアは、生徒がたった一人になっても一年は続けるとアミールは語ってくれた。

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2008年8月24日 (日)

ヨナ・ヴァラフの詩 2

<トゥフィリーン>

* トゥフィリーンTefillinとは、宗教的なユダヤ人が祈りを捧げる時に、皮の紐を手に巻き、四角くて小さな帽子のような形をしたものを頭に付けるものです。
http://www.aish.com/pathways/externallinks/videolink_tefillin.asp


私のところに来て
私は何もしないから
あなたが私にして
すべて私のためにして
すべて私の始めることだけを
私の代わりにして
私はトゥフィリ−ンを置く
そして祈る
私のためにトゥフィリーンを置きなさい
それを私の手に巻いて
私とそれで遊びなさい
それを私の身体の上で、優しく動かして
上手にそれでこすりなさい。

私の身体中を刺激して
私を失神させて
それを私のクリトリスへ動かして
早く終わるために
それと遊びなさい
私の手足を縛り
私に何でもしなさい
たとえ、私がしてほしくないことでも。
私のお腹に巻きなさい
そして、トゥフィリーンを私の口にくつわとしてはめ
私は馬になって私の上にまたがりなさい
私の頭を後ろに引っ張りなさい
痛くて金切り声を上げるまで
そして、あなたは拷問をかける

その後で、私はそれをあなたの身体の上で動かす
私は心の内にあるものを顔に隠さない。
ああ、私の顔には、どれほどの残酷さが現れているのだろう
それをあなたの身体の上で少しずつ動かす
少しずつ、少しずつ、少しずつ
一方では、それを首の周りに移し、それを首の周りに二重に回し、
もうひとつをどこか固定したところに、
特に、もしかしてとても重いものにまわして
それを結び
引っ張る、そして引っ張る
あなたの首を絞めるまで
トゥフィリーンの結末。
長いひもの祭壇は長く続けられる
ショックを受けている大衆の中で

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2008年8月11日 (月)

Mahmoud Darwishの死

 8月10日(日)、イスラエルの現地時間の21:00のニュースで、昨日9日(土)パレスチナを代表する詩人、Mahmoud Darwish http://en.wikipedia.org/wiki/Mahmoud_Darwish
がテキサスで逝去、と言っていたように思います。亡骸は、パレスチナに戻り、パレスチナの首都ラマッラ、あるいは生まれ故郷のガリラヤに埋葬の予定、と聞いたように思います。
 パレスチナでは、11日(月)から毎朝3日間、彼を偲んでサイレンが鳴り、かれの冥福を祈ることになった、と言っていたように思います。
 
 「壁の絵」の中から、Mohamad Chamzaによって、2006年、ヘブライ語に訳されたもの。

 「死」、
 私がスーツケースに詰め終わるまで待っていてくれ、
 歯ブラシ、石けん、
 ひげそり道具、アフターシェイブ、服。
 むこう側の天気は、どんなふうだろう?
 果てしなく続く白は、変わりやすいのか、
 それとも、「秋のような冬」の
 変わらない気候なのか?
 本は、一冊で充分、
 むこうではそんなに時間がない、それとも、
 図書館全部の本が必要?どんなふうにしゃべるのだろう?
 みんなで話していた言葉、それとも文字に書かれるような
 純粋なアラビア語?
 

أَيُّها الموت انتظر ! حتى أُعِدَّ
حقيبتي : فرشاةَ أسناني ، وصابوني
وماكنة الحلاقةِ ، والكولونيا ، والثيابَ .
هل المناخُ هُنَاكَ مُعْتَدِلٌ ؟ وهل
تتبدَّلُ الأحوالُ في الأبدية البيضاء ،
أم تبقى كما هِي في الخريف وفي
الشتاء ؟ وهل كتابٌ واحدٌ يكفي
لِتَسْلِيَتي مع اللاَّ وقتِ ، أمْ أَحتاجُ
مكتبةً ؟ وما لُغَةُ الحديث هناك ،
دارجةٌ لكُلِّ الناس أَم عربيّةٌ
فُصْحى/

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2008年8月 4日 (月)

ヨナ・ヴァラフの詩

<オナニー>

「オトコじゃない男」=「ミスター・ノーマン」とあなたは寝た。
彼のうつろなまなざしを愛している。
身体のない「カラダ」を抱く。

「恋人の眼」は他所(よそ)を見つめている。
ちゃんとあなたの内(うち)を見ない。
彼は若いのにそういう「苦々しい」=「オトナ」

あなたの肉体を通り抜けていった愛は
あなた肢体(からだ)と生命(いのち)に、
髪の毛の先から臓器の中まで、
熱くみなぎっている。

愛は「ミスター・ノーマン」をそこに引き止める。
彼は、「手のない手」であなたの身体を愛撫する。
感じないし、気持ちを表さないあなた。
情熱もなく愛撫するところ全部に、
そう反応しているのよ。

「若い恋人」にこの詩を見せたら
彼は怒って「最低だよ!」
「こんなの詩じゃない」と言う。
そして背を向ける。
たぶん彼は「おれはヒトじゃない」と思ったかも。

「おれはヒトじゃない」?
彼は詩を理解できないし、
あまりにもたくさんの「感じる気持ち」を求めすぎる、何時間も。
でも愛は5分でじゅうぶん。
一日中、ずっと熱くいられるためには。

「ノーマン」は、あなたの気持ちを冷たくする。
あなたの身体を冷凍する。
冷気はあなたの器官を通り抜ける。
頰(ほほ)を凍らせて、神経質に震(ふる)えを起こさせる。
頰先(ほほさき)から逆の眼に痙攣(けいれん)を走らせる。
あなたの「感じる気持ち」に、花開くことを失わせ、
食道、首のいろんな部分、背中に「苦痛の味」を送る。

あなたは「愛の時間」を「恋人」に説明する。
5分は、何時間とも同じ。
たとえ5分でも、できるときは、全部の時間を使って。
そのためのいろんなかたちの時間がある。
ほら、朝、仕事の前に3時間愛し合うことはできないでしょ、
その時間はちょっと暖めれば、それでじゅうぶん。
彼は、「わかったから」とやってみるけど、彼を失望させる。
彼には、「速すぎる時間」は素敵じゃない。
彼は、何か「たっぷりと」欲しい。
でも彼は頭がいい。彼ならできるかもしれない。
彼の短い人生、もしかしたら、こんな機会は戻ってこないかも。
考えをいくつか変えてみて、状況に合わせるべき。
けれども、彼は「自分だけ」、それから、「あなたといる」と。
そして再び、軽い朝に夜の強さを求める。

あなたは「ノーマン」に冷たい視線を送る。
そして夜、もう一度会うことを約束する、
もちろん彼は戻ってくる、彼は精神的に死んで。
彼は最も冷たい視線を向ける。
そして、あなたのそばに立って、
私たちの感じている空気を手でつかんで、
完全に空っぽにしてしまおうと待っている。

「恋人」のまなざしについて学んだこと。
くすんだ暗い瞳は、ふたつのぶどう粒。
そんなやわらかいまなざしを送れる。
今は、ぶどうの味の記憶のように、恐ろしく、まなざす
そして、それ以上には、何も見えず、神経質に。
「感じる気持ち」と「愛」のやわらかさ
「苗木」を植えることは、こんなにも危険。

彼は気が狂う、あなたは問いかける、彼は負けるだろう。
彼の顔に現れる、駆け抜けてゆく風、
その足跡を熟知してあなたは解き明かす。
あなたは、伸びをして、歓びと愉(たの)しみの声を出す。
あなたは、あなた自身の愛で、彼をあなたの中へ向ける。
彼を出してアクセサリーのようにじっと見る。
彼は、古い詩から外に出て、
彼は、彼らの英雄のひとりになる。
それは、彼の美しさでもあり、
彼は、あるすばらしい名まえの、
社会の子宮の恐怖に襲われ、滅びてゆく型(タイプ)。
彼は、怪物以上になってそこから生まれ、
新しく生まれ変わり、あなたを愛するだろう。
毎朝、できるかぎり、どこでもしなければならないように。

あなたの内に持っている売春の気質に、彼は慣れてゆき、
道理にかなった他のことは見つけられないだろう。
家庭的な尊敬に値する理解の、すべてに礼儀正しく、
「何」が「どんなふうにへ」と、「いつ」と「どこ」を分類するようには。
彼の愛は、前よりかは、「死のかたち」を着るのを少なくして、
あなたは、さらに「ミスター・ノーマン」に身体(からだ)を委ねる。

ほんのちょっと難しいとき、
気持ちよさ、悦びを求めて、いろいろと自分をやさしく愛撫するあなたの指を
彼は、凍らせるだろう。

でも、詩はただのテクニック。
人生の中で習得される。
「英雄」は、どんな詩でも
第三人称、第一人称、第二人称の形として生きるだろう。
特に、「彼」は、自分を三人称で生きている印象。
彼は自分のことを、「彼」と言って話す
「あなたが疲れているのは、彼のせい」。
「彼」と「彼のsex」を区別して話す。
彼は自分のことは「彼」、これらは「彼の感情」ではないと話す。
他人の普通のsex、それは誰かほかの人、
彼は「彼」に嫉妬し、その「彼」を怖れるだろう。
あなたは、彼のお母さん、あなたは彼を教育する。
あなたは彼の自信、彼自身の信じていることを戻してあげる。
私たちは、「ミスター・ノーマン」に会い、
「他の彼」を「他の人々」として学ぶ。
たとえ、彼がどんな性格で生きていても
あなたは、分離している彼のsexと彼自身とつながっている。
それは、私が気持ちを感じること、それは、それを肌で感じること、
私の身体、私の魂、私自身、そして、私の肉体自身。
彼は文化的になるだろう。オペラや感情を愛するだろう。
彼は、「男の性」についてよりかんたんに、一般化するだろう。
なぜなら、愛の実は、彼の短い日々。
この詩の実より短いもの。

ヨナ・ヴァラフについて
http://www.ithl.org.il/author_info.asp?id=280

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2008年7月22日 (火)

ナオミ・シェメルの詩

エカリプトゥスの林

お母さんが美しく、若いころここに来て
お父さんは、彼女のために丘の上に家を建てた
青春の日々は通り過ぎ
五十年が経った
巻き毛は、いずれ白髪に変わるのだろう

しかしヨルダンの川岸は、何もおこらなかったかのよう
静けさも、その眺めも同じよう
エカリプトゥスの林


水に漂うマルアフ(花の一種)の香りも

ヨルダンの東岸から弾丸が鳴り響いた
そして夏の終わりに平和が戻った
赤ん坊はみな大人になって
その丘にもう一度、家を建てた

しかしヨルダンの川岸は、何もおこらなかったかのよう
静けさも、その眺めも同じよう
エカリプトゥスの林


水に漂うマルアフの香りも

作詞・作曲:ナオミ・シェメルhttp://www.youtube.com/watch?v=XMDF2Xy87U8&feature=related


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2008年7月16日 (水)

ラヘルの詩 3

<私のこと、私にだけ話しましょう>

私の知っていること、私にだけ話しましょう。
狭い私の世界、それは蟻のような世界。
彼女たちのような荷を背負うのは、
私の貧弱な肩には、あまりにも重すぎる。

私の道は、木の梢に向かって登ってゆく…
苦痛な、骨を折れる道。
そこに巨人が手を伸ばす
悪意を持って。
しっかりとつかみあげ、
もてあそんだ末、
その道から放り投げる。

巨人の手の
見えない恐怖。
それは、私を泣かせた。
道から、すべてから、私ははずれて…
なぜ、奇妙な川岸は、私を呼んでいる?
遠い光よ、なぜ、嘘をつく?

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2008年7月13日 (日)

白夜(ライラ・ラバン)…眠らない夜

7月3日(木)
 イスラエルの祝日が途切れたなぁと思ったころ、テルアビブでは、「白夜」と名付けて夜通し街中でパフォーマンスが行われ、人々はまたもや、子どもから大人まで街へ繰り出す。
 7月の第一木曜日。金曜日は半ドン(日本の土曜日)で、週休二日なら休日、午前中だけ仕事があるなら、気合いで仕事をやっつける。

  シティ・ホールという街の真ん中で、モダン・ジャズのフェスティバルが夜通し行われる。
 ダニエル・ウィーバ(イギリス、ギタリスト)とオクテット(イスラエル、ダンス・グループ)のパフォーマンスを見て、テルアビブの中心を通るイブン・グビロ−ル通り(Ibn Gvirol、11世紀、スペイン系ユダヤの詩人。ヘブライ語で詩を書いた。http://en.wikipedia.org/wiki/Solomon_ibn_Gabirol)を南へ歩き出す。夜の9時。
 ザ・ファーマー・ハウス(農協)を西、つまり海よりへ。そして再び南へ。するとロスチャイルド通り(Rothschild、ロス・チャイルド・ファミリー http://ja.wikipedia.org/wiki/ロスチャイルド家)に出る。
 イスラエル人曰く、「この通りは、日本で言うと表参道じゃない?」歩行者天国ではなく、最初から車の通れない並木道(boulevard)。並木道もテルアビブの中心を南北にそして海へとつながっている。
 要所、要所で各ブランドのグランドピアノの路上パフォーマンス(という企画)が行われている。ギャラリーは夜通し開いている。
 ロスチャイルド通りが終わってアレンビー通りへ(Edmund Allenby、1861-1936, イギリス陸軍元帥、第一次世界大戦にエジプトのシナイ半島およびパレスチナを占領。その部下がトーマス・ローレンス)。
 そしてハーバート・サムエル通り(Herbert Samuel 1870-1963,イギリスの政治家。シオニズム運動を支持、イギリスのパレスチナ占領直後の高等弁務官。イスラエルを統治し、独立させる)に面した海岸に出ると、ロック・フェスティバルが開催されていた。真夜中の12時。
 そして、再び来た道を戻りシュック(市場)に来ると、レゲエバンドが路上パフォーマンス。このあたりは、アーティストが自主的に路上パフォーマンスをしているところ。ノンストップのここちよさで、みんな踊りまくっている。そこからキング・ジョージ通り(George V , 1865-1936, イギリス王 イスラエルの独立を認めた)を通って、ディジンゴフ・センターから東に向いてディジンゴフ通り(Meir Dizengoff, 1861-1936,テルアビブの初代市長。http://en.wikipedia.org/wiki/Meir_Dizengoff)へ。一番ジャンルも豊富に揃えているCDストア「ハオゼン・ハシュリシット(HaOzen HaShlishit、三つ目の耳)」の1階フロアでは、クレズマー・バンドのライブが始まった。午前2時半。
 シティ・ホールを出て、約6時間。「お人好しなガイジン」は法外なタクシー代を請求されたり、面倒が多く、ついつい歩いてしまった。
 まあ、いい。毎年、祇園祭りか天神祭りで、真夏の夜を満喫している私には、「ライラ・ラバン(白夜)」は、充分その代わりになったから。

テルアビブの地図
http://www.ddtravel-acc.com/images/tel_map.gif
http://www.auscillate.com/images/post_heads/tel_aviv_map_bombings.jpg

「DSCN0202.jpg」をダウンロード

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2008年7月 5日 (土)

ラヘルの詩 2

<庭にあなたを植える>

私の庭にあなたを植える
私の心に庭は慎ましくたたずんでいる。
枝は分かれて高く昇り
根は深く私の中に下ろす。

しかし、ある日、この庭は
夜明けから夜まで
決して静まらず、決して穏やかではなくなった。
あなたがいる、あなたが
何千もの鳥となって、歓び歌っている。


<死者の友…死者は死ぬことがない>

彼らだけが私に残された。
彼らにはもう
「鋭いナイフの死」は、突き刺せない。

道を曲がったところ、
日が夜になるとき、
彼らは
静かに私の周りを廻り、何も言わずに連れて行く。

それが私たちの真の約束、
その結び目を解くことはできない。
私が消えて無くなることこそ、
永遠(とわ)に私にあるもの。


<無題>

私を生んだ母
私の故郷
なぜあなたの景色は、
渇いて、悲しんでいるの?
継母の国の思い出は
次第に私の心の中で
消えてゆく。

丘の上のいたずらっ子のようなもみの木
平原には、樫の老人が立っている
坂を下ると見えるのは小川の岸辺。
安息の日に装う白いドレスを来た娘たちがいる

太陽の手が差し込もうとすれば、切られてしまう。
赤い槍は森の心には届かない。
松の木の息子たちは一日中
暗闇の夢の中で香り漂っている。

母なる国、その住まいは
神から屈辱を求められる…
昼の陽射しは、昔のこと
今は、香りと影に
溢れんばかり

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2008年6月30日 (月)

ラヘルの詩

<もしかすると>

もしかすると、あのことは、なかったことかも…
もしかすると
朝起きて、夜明けの庭で汗を流して働いたことは、

収穫どきの長く、暑い日々
荷車に積まれた穂束の上に立って
歌声を響かせたことは、

澄んだ水の色、静らかな、けがれのない
私のキネレット…私のキネレットは
そこあったのだろうか
いや、夢を見ていたのかも?

作曲:イェフダ・シャレット
 http://www.youtube.com/watch?v=LeBesChGIBk

<キネレット(ガリラヤ湖)>

ゴランの山 
あそこに手を伸ばして触れてごらん、
静けさに安らいで、景色も心も止まったよう。
「ヘルモンおじいさんの山」
ひとり孤高に輝いて、まどろんでいる。
白い頂(いただき)から冷たい風を吹かせて

岸辺には背の低いヤシの木の梢(こずえ)があって、
からまった髪のようなヤシの葉は
まるでいたずらな赤ん坊のよう。
その葉がキネレットの水の中にすべってゆく。
足をばたばたさせるように…
その水はゆらめいている。

キネレットの岸辺には、冬でもたくさんの花が咲いている。
赤いアネモネ、オレンジのサフラン。
ある日
野菜は七倍もの緑色になった。
空は七十倍もの青い空色になった。

私はただ生きているだけ
生きて行く糧も失い、うなだれて歩くことしかできなくても
心は、灯された火のようにまっすぐに立っている。
キネレット、
私は
あなたを裏切ることができようか?
あなたからもらった少女時代の恵みを
私は忘れることができようか?

ラヘルについて
http://www.jafi.org.il/education/moriya/tiberia/rachel.html

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2008年6月22日 (日)

キブツ・キネレット

6月8日(日)
 この日は、シャブオト(収穫祭)で、キブツ・キネレットに行った。
 「キブツ」は、集団開拓、集団農業経営をする共同体。
 「キネレット」は、ガリラヤ湖のこと。「キノール」がもとの単語で、「竪琴(たてごと)」という意味。地図でみると、ちょうどダビデの竪琴をさかさまにしたような形。
 このキブツ・キネレットは、今年で95周年目にあたる。
 最初にこの場所に、25人ぐらい来て、開拓をはじめた。何を植えようか?と思って、この中のひとりが、イラクに行き、なつめやしが育っているのをみて、これを植えようと苗を持って帰った。今では、なつめやしのドライフルーツは、イスラエル人にとって欠かせないもの。
 独立戦争前、60年より前は、キネレット周辺に住んでいた人たち、お金を持っていた人たちは、年に1,2度、キネレットの北、レバノンのベイルートまで「お買い物」に行くのが、ひとつの楽しみだったそうだ。そこで、フランス製の洋服とか、食器、それから、日本の着物とか、九谷焼、伊万里焼の食器を買ってきた人がいる。ある家を訪ねた。その家の孫娘がおばあさんに「私が結婚したらこのカップ、私にちょうだいね」と約束をした古い九谷焼がある。

 キブツが創設された当初は、食費も家賃も光熱費もランドリーも、共同シャワーも一切無償。だから「とにかく命だけイスラエルに持ってきてくれれば、決してお金は貯まらないけど、生きて行けます」という方針を掲げたので、世界中のユダヤの人々は、キブツに来て、共に働いた。親と子どもは別々に暮らす。夜、寝るときも親の家には帰らず、そのまま、「幼稚園合宿〜高校生合宿」が続く。50年前ぐらいから、親子で住むようになった。高校生になると、週に一度は、キブツの仕事を手伝う。そのときに、何の仕事に就くかを考える。農業、酪農、工場、その他いろいろ。
 けれども、今は、その人の労働に応じて、キブツから月給が出て、すべては、お金を支払うシステム、いわゆる、一般的な社会とほぼ同じ経済のシステムで運営されている。現在の方針は、「働かざるもの食うべからず」

 このキブツ・キネレットは、二人の女性アーティストを生み出した。
 ナオミ・シェメルhttp://www.jewishvirtuallibrary.org/jsource/biography/shemer.html と、ラヘル。
 ナオミ・シェメルは、「イスラエル唱歌」の作詞・作曲家とも言えようか。滝廉太郎と東くめをいっしょにしたような人。イスラエル人は、ナオミ・シェメルの歌を小学校で歌う。キブツ・キネレットの小学校の建物の壁には、ナオミ・シェメルの「アル・コール・エレ(すべてのものは)」の五線譜が書かれている。
ラヘルは、詩人。ヘブライ語の響きに魅了されてイスラエルに来て、ヘブライ語を修得したが、若くして結核で亡くなった。そういう意味では、23歳で肺結核で亡くなった瀧廉太郎と似ている。ナオミ・シェメルが大衆的路線だとすれば、ラヘルはもう少し、繊細かつ深いイスラエルの人々の心に響く詩を書いた人だろう。
 
 シャブオット(収穫祭)のイベントは、夕方6時ごろから始まった。まず、収穫にあたって使っているトラクターなどの運搬機械の行進。それからステージ場で、幼稚園、小学校、大人たちの、日頃練習した踊りをご披露。頭に花輪をつけて、みんな大地に遊ぶ妖精に扮する。植物の実りを妖精たちと人々がと主に喜ぶ祝祭。「草花化身」である。
 そして、実ったものをみんなの前でご披露。祭壇ができる。特に人気は、はちみつ。みんな寄ってたかって、なめている。キブツ・キネレットはハチミツの製造としても有名。特に、なつめやしの花で養蜂したハチミツは、代表的特産物。

 そのあとは、プールサイドでみんな持ち寄って、いっしょにごはん。シャブオットの期間は、みんな乳製品を作って食べる。
 儀礼と直会(なおらい)が、フランクに、堅苦しさなしに行われる。
 歴史からいうと、キブツは、見ず知らずの人たちが、突然共同生活をするところだ。何代も前からお付き合いをしている古い町の人々ではない。ひとりひとりが、直ちに共同体の自治に参加している自覚を持つ必要がある。
 私は、児童自立支援施設で14年間働いたが、雰囲気はまことに「施設」の感じがする。そこでも、「作業学習」という名のもとに生徒と一緒に農作業をして、とうもろこし、きゅうり、トマトの収穫期に合わせて、夏のお盆のころに「納涼会」が、催される。みんなでカレーやかき氷を食べ、スイカ割り、金魚すくいをして、花火大会で締めくくる。
 
 次の日にキネレット(ガリラヤ湖)に行く。キネレットから南へヨルダン川となって流れる。その終着点が死海。
 昔は週末に、泳ぎにくるのは、キブツ・キネレットの人たちだけだった。しかし、今は、ここ5,6年前からは、彼ら自身が、宿泊施設、キャンプ場を作って、観光地として経営を始めている。
 キネレットの浜辺には、貝をたくさん見つけることができる。ユダヤ人は「コシェル」http://ja.wikipedia.org/wiki/カシュルート という食事の戒律を守っている人が多く、貝を食べる習慣はない。だから、あさり、しじみの天国。かれらは、石に巣作り、死ぬと、その石からはがれる。いわゆる「穴あき石」、平田篤胤のいうところの「石笛(いわぶえ)」が、大量にころがっている。
 キネレットの岸辺には、キブツ・キネレットで亡くなった人たちのお墓がある。ナオミ・シェメルもラヘルの墓もある。
 

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2008年6月 7日 (土)

パレスチナの学生集会

6月2日(月)
 テルアビブ大学の正門前に、オレンジ色のTシャツを来た学生たちが、机を出してビラを配っている。見ると、あっ、ウードを持った、サズを持った人の写真が…。
「これ、今日、大学で聴けるんですか?」
「ええ、6時半から」
「行ってもいいんですか?」
「ええ。もちろん、私たちの文化に興味を持っているなら…」
「あ、行きます。ありがとうございます」
学生の着ているオレンジ色のTシャツにも、このビラの説明にも(A3のサイズで2枚分)にも英語はもちろん、ヘブライ語もいっさい書かれていない。
 アラビア語のわからないイスラエル人にとって、このビラはどこか「いぶかしげ」
 この集会の名前は、わからない。ホールに行くと、学生が演説している。アラビア語は、私には全くわからない。残念ながら何を言っているのかわからない。何かひとくされの文章が終わるごとに熱い拍手がおこる。みんな感動している。
 そのあとでパレスチアナ人代表の国会議員のひとりの演説。さほど学生たちは感動していないようだ。しかし、声がデカイ。それもだんだん熱が入ってから30分以上、早口でデカイ声でまくしたてている。しゃべっている間、上着を脱ぎ、袖をまくり…暑そうだ。演説が終わり、学生たちの拍手で終わった。

 日本人というか東洋人は私だけ。集会のホールに入って、座ってもとがめられない。
 「あの、何言っているのか、わかってるんですか?」
 「いえ、あの、わからないんです」
 「えっ?じゃぁ、つまんないでしょ?なぜ来たの?」
 「なんか、音楽家の演奏があると聴いて…」
 「ああ、もうすぐですよ、たぶん8時ぐらいから」
 しかし、実際に演説が終わったのは9時過ぎ。

 そして、写真にあったサズをもった人たちが出て来た。男性2人組の彼らは、最初に寸劇をやった。一幕目は、彼らがおじいさんとおばあさんになって、何かちょっと、世間からズレたようなことを言って、笑わせる。翁(おきな)と媼(おうな)、こういう文化って、どこにでもあるんですねぇ。そして、次は、パレスチナ人とガードマンのお笑い。ガードマンに要求されて、パレスチナ人がIDカードを見せたり、ボディチェックをしたり…日頃のストレスのたまる茶飯事を笑いに変える。学生たちは大笑い。これは、笑いの基本だと思った。
 これと似た感覚が自分の中でよみがえってきた。昔、大阪の在日朝鮮人の友達に連れられて、演説と寸劇と学生によるサムルノリを見に行ったことがある。そのときも、ある伝統的なお笑いの演劇をハングル語でやっていた。日本人の私にはわからない。でもそのハングル語に回りの人たちは、大笑い。そして、これらのテイストは、吉本新喜劇の「吉本劇場」の寸劇にもある。いわゆる「大阪ユーモア」とでも言おうか。
 私は、ひさびさに大阪お笑い演劇を見たような気分になった。内容はわからないが、私なりに、懐かしく、とても楽しい気分に浸っていた。
 そしてサズと歌。でも、これもお笑いをとる歌だった。1番2番とわかる歌の繰り返しで、どんどん笑いをとっていく。サズって、こういう風にも使われるんだ…。
 さて、トリは、ウードとダルブッカとバイオリン。ひさびさにマカーム(旋法)のちゃんと聴き分けられる気持ちのいい歌。バイオリンもマカームに合わせて演奏される。3曲目ほど、演奏されると、オレンジ色のTシャツを着た学生たちが、手拍子を取って歌い出す。すると、その歌のリクエストに答えて演奏家たちが、その曲を始める。そうすると、聴衆者たちも盛り上がって、スタンディング・オベイション。これが何度となく繰り返される。輪になってアカペラ(無伴奏)で歌う学生たち。またまた私の中でよみがえるものがあった。弱小阪神タイガースが久々に勝つと、誰ともなくフェンズの向こう側で、みんなが「六甲おろし」を歌い、手拍子をとり、見知らぬものもかまわず、みんなで手をとりあって狂喜乱舞する。あー、六甲おろしだ。久々に心が晴れて、久々に楽しい、これがパレスチナの学生集会なんだ。そしてさらに、手拍子をとり、浮かれて踊る学生たちをみて、神奈川の奄美大島県人会、宮古島人頭税廃絶記念日に島唄で踊り出す人々を思い出した。これらの、私の言い方は、私が今まで経験した中の、私の記憶の中で、似たような情感を思えばである。
 しかし、歌わずにはいられない、踊らずには、いられない。そうやって、歌い踊っている人々を見ていると心に熱いものがこみ上げてくる。そのことに変わりはない。

 演奏会、ではなく集会が終わると、「記念品をどうぞ」とあまった記念品をオレンジ色のTシャツを着た学生からもらった。「え、いいんですか?」「ええ、今日の記念に是非」

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2008年5月25日 (日)

ラグ・バ・オメル

 5月22日(木)の夜から21日(金)の夕方までが、「イヤールの18日目」にあたる。この日は、「ラグ・バ・オメルの日」。その週のはじめごろから、こどもたちがスーパー・マーケットのカーゴをごろごろ引っ張っては、家々を回って木を集めているなぁ、と思っていたが、これは、「ラグ・バ・オメルの日」の焚火の木を集めていたわけだ。
 子どもたちは、近所の家を一件、一件「ラグ・バ・オメルの日の焚火の木を集めているんですけど」と尋ね回って、いらない木をもらう。大人たちは、人によっては、その日をあてこんで、いらなくなった古い家財道具を道に出したりしている。それを子どもたちが拾っていく。子どもは木を集めることに集中すると、必要な木も「いらない木」と見なして取っていく。建てかけの家の木材は、格好の材料だ。ラグ・バ・オメルの10日前ぐらいから、建設途中の家の前には、警備員が立っている。
 ラグ・バ・オメルは、過ぎ越しの祭りから数えて33日目。過ぎ越しの祭りから収穫祭(シャブオット)の祭りがある日まで、この49日間は、結婚式は挙げてはならない。が、この33日目のラグ・バ・オメルの日だけは、結婚式を挙げてもいい。
 この日は、三つの記念日だと言われている。 
 1)ラビ・アキバ・ベン・ヨセフ(50〜135年)の弟子たちの伝染病による死者が治まった日。
 2)バル・コフバの反乱(133〜135年、バル・コフバ「星の子」と名付けたのは、ラビ・アキバ)で勝利を収め狼煙(のろし)をあげた日(135年にはローマ軍に敗北、これよりユダヤ人の離散が始まった)。
 3)ラビ・アキバの弟子、ラビ・シモン・ヨハイが亡くなった日。
 何らかの形で「ラビ・アキバ」が関与している記念日のようだ。
 決してめでたくない気もするが、ラビ・アキバさんに免じて、カップルと子どもたちにとって喜ぶべき日のようだ。
 イスラエルの日没は、8時過ぎ。このころから、ほぼ全イスラエルで子どもたちの焚火というか、「火遊び」が始まる。空き地を見つけては、どんどん勝手に火を燃やす。誰もとがめない。したがって、全イスラエルが煙に包まれる。喉がいがらっぽくなるほどだ。焚火の中には、じゃがいもが入っているようだ。
 幼稚園から小学生ぐらいの子どもたちで作る焚火には、両親は同伴。小学生の子どもが2人も3人もいる親は、たいへんだ。イスラエル独立記念日の同じく夜中の12時になっても子どもたちは、帰る様子はない。「昨日は、2時までラグ・バ・オメルにつきあったんだよ」と翌日、ぐったりしている親もいる。
 親同士は集まって、その火でバーベキューをしたりする。
 中学生、高校生になると、彼らだけで、火遊びを楽しむ。日本の子どものことを考えると、イスラエルの子どもたちは、子ども同士でよく遊ぶなぁと思う。
 能力が国家を支えることのみを考える日本。だから個人の能力が高いことがのぞまれる。イスラエルは、団結して戦わなければならないし、個人の能力もさることながら、コミュニティーの団結もまだまだリアルに必要なわけだ。
 昔は、日本も集落、村落の団結は不可欠で、祭りは、リアルにお互いを結びつけた。神輿をみんなでかつぐ。山車をみんなで引く。
「子どもたち」は「大人たち」になる。

 子どもたちが、木を集めるのを見て、埼玉県の秩父市の(旧吉田町)で行われる「塚越の花祭り」を思い出した。子どもたちが、家々を訪ねて、その家に咲いている花をもらったり、山々で花を積んで、5月4日の花祭りの日のために冷蔵室に花びらをためていく。みんなで甘茶をつくり、花祭りの前日は、子どもたちだけで、米山薬師堂でおこもりをする。花祭りの当日には、熊野神社から米山薬師堂まで、「唯我独尊(ゆいがどくそん)」と天を指差す子どものお釈迦様を担いで、その前に立って、2週間ためて集めて花を撒いて行く。日本の中でも屈指の美しく、幻想的な祭りだ。

 子どもだから、許される「見知らぬ家への訪問」。
 
 折口信夫の「沖縄の翁」によると、ある踊り場に、長者(家族の亡くなった祖霊)の一行が舞台に来る。そして、家の家長の挙げる扇に招かれて、海の彼方の富みの国から、神が来て、穀物の種を与へて去ってゆく。その神の名は儀来(ニライ)の大主(ウフヌシ)、長者の名は長者の大主(ウフヌシ)、家長の名は親雲上(ペイチン)と言う。この祭りを童満祭(ワラビミチ)と言う。
 
 子どもたちのさわぎ声が、アパートや家に反響して、夜中の空に響き渡る。10月までは、まったく雨の降らないイスラエル。しかし、焚火の煙で、夜空には、煙が雲のようになって、たゆとう。
 子どもたちの楽しそうな声は、予祝のごとく、雲のない土地に雲があがり、雨を降らすがごとくに見える。
 過ぎ越しの祭りから49日目が、収穫祭(シャブオット)。あと16日後だ。

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2008年5月21日 (水)

テルアビブ大学祭

 5月15日(木)は、全国のイスラエルの大学で学園祭が行われる日となっているようだ。
 テルアビブ大学でも、ロック・バンドなどのライブ・ステージがある。
 しかし、学生による学園祭ではなく、コンドーム(青いかつらをかぶったおねえさんの写真)、ビール(写真はハイネケン、他にもいろいろ)、タバコ、ガムなど「大人の嗜好品」の大手メーカー会社の出資によるもの。そこに、ピザ・ハット、ケンタッキー(写真には、「気が狂いそうなほど旨い」と書かれている)、アイスクリーム、ホットドッグなどが出店している。一応「大学の学園祭」なので、Apple(マッキン・トッシュ)も。学生は、学生証を見せるとタダで入れる。だから多くの学生が、遊びにくる。ビールを飲み、ピザを食べる。大きなビジネスだ。
 ステージは、二箇所。「ハ・ィエフディーム(Ha Yehudim,「ユダヤ人」という意味)」、「エフラッド・グーシュ(efrat gush)」「モニカ・セックス(monica sex)」などは、イスラエルで有名なバンドだそうだ。イスラエルのポピュラーソングは、「大衆的」。みんなで歌える、これが基本。実際にヒット曲は、ヴォーカリストよりもみんなが歌っている感じ。個人的には「ハ・シュルリヨット」というスカバンドで、モロッコ系のヴォーカルが入る感じがいいと思ったが、そういう「オツなもの」は受けない。
 では、学生による学生組合とか、学生協会的な問題意識を持った学生はどこに?
 そういう、学生は、大学の正門の前で「今日は、5月15日,多くのパレスチナ人が故郷を追われた日、第一次中東戦争の始まった日です。学園祭に入らないで下さい」と書いた紙を持って、黒い風船を上げ、パレスチナのスカーフをし、キャンドルを路上に並べていた。太陽暦では、5月14日がイスラエルの独立記念日。翌日の15日が、第一次中東戦争が始まった日。
 http://news.tbs.co.jp/20080515/newseye/tbs_newseye3852850.html

 ごめんなさい、夜に灯されたキャンドルはきれいでしたが、気がつくのが遅くて、写真を撮るチャンスを逃してしまいました。3
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2008年5月12日 (月)

悲しむ心、喜ぶ心

悲しむ心、喜ぶ心
 4月30日(水)の夜8時から5月1日(木)の夕方まで、「ホロコースト記念日」。30日の夜の8時と1日(木)の11時にサイレンが鳴り、黙祷をする。ヨーロッパ系のユダヤ人なら、その家系の半分以上は、ホロコーストで亡くなっている。テレビ番組は、一日中、ホロコーストのさまざまな番組をやっている。ホームステイの家族のおばあさんは、「今日は何の日が知っているか?今日はホロコースト記念日だ。家でじっとしてなさい。」でも、食料を買いにスーパーに行ってもいいと言ってくれた。
 次の週、5月6日(火)の夜から、7日(水)の夜まで「戦没者記念日」。この日も夜の8時と次の日の朝11時にサイレンが鳴って、自動車に乗っていても、車を止めて、外に出て、立って黙祷をする。同じくテレビ番組では、一日中戦没者を取材した特別番組がある。徴兵は、男子が18歳から3年間、女子は、18歳から2年間。母親や父親が、子どもを亡くす、あるいは、女性が若くして夫を亡くす、ということが多い。6日(火)の夜は、エルサレムの「嘆きの壁」の前で、「戦没者慰霊記念式典」が行われ、戦没者のための祈りを軍人が歌っていた。式典が終わると、イスラエルの国民的大衆歌謡の歌手が、次々と出て来て、バラード調のイスラエルの歌謡曲を歌っていた。テレビのニュースでは、同じ日にパレスチナの人々の戦没者の慰霊のための集会が放映されていた。ハマスの代表者の演説(みたいな?)に、男の人たちは、こぶしを挙げていた。何を言っているのかはわからなかった。また8日以降に、パレスチナ人の一部は、イスラエル建国当時、故郷を追われたナクバ(大惨事)に対するデモ行進などの抗議行動を計画しているという。
 イスラエル人の方は、7日(水)の日は、国家による戦没者のための墓地に遺族はお墓参りをして、お祈りをする。テロで亡くなった戦没者も多い。
 夜7時ごろになると、今度は、「イスラエル国家独立記念式典」がエルサレム西部のヘルツェル山国立墓地で行われた。独立宣言が読み上げられた5月14日は、太陰暦によるユダヤ暦では、「イヤールの5日目」。従って、前日の「戦没者記念日」は、「イヤール4日」。そのユダヤ暦によると、今年の独立記念日は、5月7日(水)の夜から始まるわけだ。今年は、建国60周年。「独立記念日」つまり日本でいうと「建国記念日」。戦って独立を得、今日まで戦って国を守ってきたのだから、その主人公は、どうしても「戦った人々」だ。昨日が、戦って亡くなった人々の記念日。今日は、今、生きて戦っている人たちによって行われる記念式典。そう見えるのは、その国の人、イスラエル人ではない、私だからだろう。国旗の掲揚、国家斉唱、ユダヤ教の聖典の朗読、そしてお祈り、ユダヤ十二族に基づいた12本の聖火の点火。これは「紀元2600年祭」のように見えてきた。日本人なら、吐き気がしそうな、チープな軍歌、軍人たちは、その二拍子にみんな同時に動く、この連続によるパフォーマンス。統制と団結の表現。さらに、この式典を演出しているのは、イスラエル国営放送局。要するにNHKが紅白歌合戦とかで、ダンサーたちを使って振付けをして、舞台を飾るように、80年代ぐらいのモダンバレーをちょっともじったような振付けで、歌手の歌に合わせて北朝鮮の子どもたちよろしく(あんなに強制感はないけど…)、子どもたちが踊り、式典を盛り上げる。60周年は子どもをテーマとした記念式典を企画した。
 イスラエル議会の議長(女性)が、「建国当時最も最年少の戦死者は10歳の子どもで、メッセンジャーとして場所から場所へと走っていた」そして「子どもが平和に暮らせる国を」と話す。オルメルト首相も、「パレスチナとの平和を目指したい」という。今まで、会ってきたイスラエル人の多くは、この考え方には賛成のようだ。世界中、人として、自覚して「悪い人」にはなりたくない、「平和を願う」と言いたい。そういう教育、そういう人間性は、あるものだと思う。
 この記念式典が終わると、花火が上がる。そして、またまたイスラエルの国民的大衆歌謡の歌手たちの歌、今度は、にぎやかな歌が次々に歌われる。
 たいがいのイスラエル人は、この記念式典のテレビの花火を見て、街へ繰り出す。どこの街でも花火が上がる。ちょっと小高い丘、ビルの屋上に上がると、いろんなところから、時間を隔てて、あちこちで花火が上がるのを見ることができる。
 そして、日本でも「○○市本町」と、名前がつくような街の中心、商店街の広場にステージが作られ、ロックバンドとか、大衆歌謡の歌手とかが、出て来て歌う。そして、そのステージの後ろから打ち上げ花火が百発ぐらい打ち上げられる。
 子どもが両親に連れられてくる。父親に肩車されて、ステージを見ている子どもの姿が目につく。
 夜中になるほど、大物歌手が出てくる。そして、メディタレニアン(「地中海的」という意味だけど、アラブ音楽も含む”Mediterranen”)のバンドが出てくると、ご存知「マイム・マイム」のように、手をつないで、輪になって踊り出す。みんな、歌って、踊ってさわぐ。綿菓子もアイスクリームもカフェも開いている。
 夜中の12時になっても、終わる気配はない。3つや、4つの子ども、小学生も中学生もまったく家に帰る気配はない。イスラエルの国旗をマントにしたり、「国旗柄」のビニール製トンカチとか「国旗グッズ」を持ったり。明日は休み。つまり、「独立記念日は、7日の夜から8日の夕方まで続く。
 建国当時から時が経ち、30年前、40年前は、まさしく「紀元2600年祭」、「日露戦争戦勝祝賀」の提灯行列状態で、それこそ、両親は子どもの両手を握って「離れてはいけませんよ!」というぐらい、人々は街に繰り出して、独立記念日を祝ったそうだ。この60年間にイスラエルに帰ってきたユダヤ人は、数えきれないほどいる。初めてイスラエルに帰ってきて、この「独立記念日」の夜、街へ繰り出す人々を見たとき、「えっ、みんな、ユダヤ人?ここに集まった人たちはみんなユダヤ人?信じられない!」という感慨を思い出す人もいる。家さえなかったユダヤ人が、こんなに集まって、一つの街を作り、その商店街の広場に集まって、みんなで歌い、踊っている…信じられない光景だと。
 今は、街へ繰り出す人々も少なくなって来たそうだ。まだまだ日本の地方の盆踊りが「保存会」の人たちだけによって踊られる時代が来るには、軽く500年かかかるかもしれないけど。彼らは、まだ踊り始めて60年目だ。
 
 実際に4月30日(水)の「ホロコースト記念日」も含めて、この5月7日の「戦没者記念日」は、相当重たい気分になるものだ。親友、同級生、軍部の同期、更には、夫、子どもという「一等親」の死。お互いに知り合いには、必ず身近に亡くなった人がいる。おばあさんに言われなくても、その日にどこかへ遊びに行こうなんて言えないものだ。墓参りする人が、いなくても、とにかく家にいようという気になる。テレビ局は、一日中特集番組を放映し、まさに「マインド」は、皆が戦没者を偲ぶ気持ちになる。一日中を通して、人々は悲しみ、弔う。
 そして、その気持ちから、もう一度、立ち直らなければならない。生きている者は、これからも生きていくために、もう一度、元気を取り戻さなくてはならない。だから、歌い、踊るのだ。
 日本でも、「初盆」は、その年に亡くなった者がいる家族が迎えるものだ。しかし、日本人の私が知っている「死」は、その人が病に倒れたり、病床に着き、「この人の死は近い」と心の準備があって、その死に出会う。あるいは「不慮の事故」であったとしても、以前に心の準備ができたあの時、周りの人々のように、その人の死に対する「諦め」とか「けじめ」を持つ努力をしようと思う。しかし、「戦死」というのは、どうしても人のせい、国家、政治のせいにしか思えない。過失のない本人の不本意の念が、伝わってくる。しかし、そこから、とにかく「諦め」の気持ちを持てた方が「心が安らぐ」。その気持ちにたどり着いてみよう、努力してみよう、と思っている人たちがいる。
 死者を憶い、そのあとに、夜を通して、歌い、踊る。肩車された子どもたち、両親に促されて踊っている子どもたちの「生命」が、子どもの身体から浮き出て見えてくるように思えた。この若い生命は、身内を亡くした者の心を最も慰めるものに見える。
 もちろん、私の過ごした時間、場所はユダヤ人が暮らしている場所であり、パレスチナ人のこと、「ナクバ(1948年の大惨事)」を思うことが出来ない不平等さがあることを前提とした、「戦没者記念日」と「イスラエル国家独立記念日」の出来事である。
 その「ユダヤ人の過ごした」2日間に、日本人である私は「リアルな盆」を体験したような気がした。

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2008年4月29日 (火)

ユダヤ人の結婚

 <法則 その1>
 もし、母親がユダヤ人の場合は、父親が誰であろうとその子どもは、100パーセントユダヤ人である。
 <法則 その2>
 子どもは100パーセント母親が何人かによる。

 <法律 その1>
 ユダヤ教のコンサーバティブ(正統派)のラビ(司祭)の前で結婚をし、市役所で婚姻届けを出して、結婚が認められる。 
 ユダヤ教の結婚をしないで、市役所に婚姻届けを出しても、結婚が認められる。しかし、だ。

 現在、ユダヤ教には、3つの派閥がある。
 1.オーソドックス(orthodox 正統派)
 2.コンサーバティブ(conservative 保守派)
 3.リフォーム(reform 改革派)
 イスラエルのユダヤ教会のほとんどは、オーソドックス。
 コンサーバティブとリフォームは、アメリカのユダヤ教会に多い。
 イスラエルには「宗教法」があり、その「宗教」とは、ユダヤ教のそれもオーソドックスに限られている。つまり、「イスラエル人=オーソドック(正統派)」なのだ。

<法律 その2>
 オーソドックスのラビ(司祭)の前で結婚した夫婦子どもは、イスラエル人と結婚できる。彼らは、コンサーバティブともリフォームの家庭の子どもとも結婚できる。しかしオーソドックスの結婚式をあげなかった子どもは、イスラエル人とは結婚できない。
 コンサーバティブのラビ(司祭)の前で結婚した夫婦の子どもは、イスラエル人とは、結婚できない。彼らは、コンサーバティブ、リフォームの家庭の子どもと結婚できる。
 リフォームのラビ(司祭)の前で結婚した夫婦の子どもは、イスラエル人とも、コンサーバティブの家庭の子どもとも結婚できない。
 
 もし、イスラエルで「結婚てきない状況なのに結婚したい」場合は、イスラエルの宗教法の治外法権、つまり外国で結婚しなければならない。あるいは、子ども自身が、オーソドックスのユダヤ教徒に改宗することもある。
 
 「もし、オーソドックスの家庭の子どもとして、あなた(つまり、わたし、日本人である白拍子静)がユダヤ人として結婚して子どもを育てたい場合は、簡単なオーソドックスの試験を受ければ、あなたはすぐにオーソドックスになれるし、オーソドックスの家庭を築ける」
 「子どものことを考えたら、普段は宗教的でない生活を送っているイスラエル人も、一応オーソドックスのラビ(司祭)の前で結婚するんだよ。」

 「子どものことを思うと、子どもが成人するまで離婚出来ない」これは、日本人夫婦がよく言うセリフですね。
 これと同じものが、イスラエル人の中には、「子どものことを思うと、オーソドックスのラビ(司祭)の前で結婚する」ことのようだ。

 で、もし、日本人の白拍子静が、断じて、ユダヤ教徒にならず、オーソドックスのラビ(司祭)の前で結婚しなければ…?
 再び、ユダヤ人の<法則 その1、その2>に戻ってみましょう。
 
 “もし、母親がユダヤ人の場合は、父親が誰であろうとその子どもは、100パーセントユダヤ人である。子どもは100パーセント母親が何人かによる!”

 そうです。父親がユダヤ人であろうが、オーソドックスであろうがなかろうが、母親が、断じて日本人であることを捨てなければ、その子どもは100パーセント日本人です。

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2008年4月26日 (土)

シャバット"sabbat"

 シャバット(安息日)は、金曜日の夜から土曜日の夜まで、この一日が休みの日になる。イスラエルでは、日曜日が「第一日目」で、みんな仕事を始め、学校に行く。
 「7」を区切りとして考えることが多い。
 農業も、昔は6年間耕したら、次の7年目は、1年間土地を休める。何もしない。そうしないと土地がやせてしまうからだ。
 今でも、宗教的な家庭の庭では、7年目に入ると、庭の手入れは一切しない。木が枯れない最低の水だけ時々やる。その年に実った果実は、誰が勝手に取って食べてもいいそうだ。
 主人と奴隷の関係もそう。奴隷は、6年間ユダヤ人の下で働いたら、7年目には、自由になる。主人から解放されるのだ。しかし、もし奴隷が「私は、これから先もずっとあなたの下で働きたい」と願うと、主人は、その奴隷の片耳を半分切らなければならない。耳が半分しかない奴隷を見たら「あれは、ユダヤ人のもとで6年以上働いている奴隷だ」とわかるように。主人は、そんな残酷なことをしたくない。だから、奴隷が、経済的な事情であれ、なんであれ、これから先も働きたい、という申し出をなんとか説得して、自由になることを勧める。
 この考え方から、サバティカル”sabbatical”が生まれる。6年間大学の教務に携わった者は、7年目に有給で、休暇を与えられる。休養するのもよし、研者、創作家なら、その一年で、まとまった研究や創作に専念する。そうしないと、才能が枯れてしまう。
 再び新たな1日、1年目を始めるために。シャバトン(全き休息)が必要なわけだ。
 今日は、シャバット、この日の夕食は、家族がみんな集まって、お母さんの手作りのディナーコースを食べる。ケーキもアイスクリームもコカカーラもシャバットの日だけ。毎日アイスクリームはナシなわけだ。
 「全き休息」を楽しむために、まじめで慎ましやかな6日間がある、という彼らの生活の知恵だ。

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2008年4月21日 (月)

「過ぎ越しの祭り」の夜

過ぎ越しの祭を家庭で過ごすとき、その主役は、子どもたち。お父さんは、子どもたちに、過ぎ越しの祭りについてひとつずつ説明をしながら、祈りと儀式を進めていく。
 しかし、この過ぎ越しの祭が始まるのは、シャバットが終わってから。つまり、空に三つの星を見て、次の日(つまり、ペサハの日)が始まる。シャバットが終わるまで、ペサハの準備は、出来ない。シャバットが終わって、ペサハの食事の準備を始める。すると、過ぎ越しの祭の祈りが始まるのが、だいたい8時頃。そして、だいたい食べ始めるのが10時、全部の祈りが終わるのが12時過ぎ。子どもの起きている時間ではありません。
 そこで、「お楽しみ」を作る。
 ペサハ(過ぎ越しの祭り)では、その夜の祈りのために、マツォットを3枚用意する。ひとつは、コーヘンさん(という姓=かばね、物部氏、大伴氏、占部氏、中臣氏みたいな氏族のなまえのひとつ)のため、ひとつは、レビさんのため、もうひとつは、他のイスラエルの人々のために。その3枚の真ん中にあたるレビさんのマツォットを半分に割って、その半分を子どもたちが、お父さんの目を盗んで隠す。するとお父さんは、わざと「あれ、レビさんのマツッォトの半分がない。これがないと儀式が終わらない」と慌てる。子どもたちは、「マツォットは隠したよ。出してほしい?」、お父さん「何でも買ってやるから、レビさんのマツォットを返しておくれ」、子どもたち「じゃぁ、ゲームソフト買って」。これで取引成立。このために、今日だけは、子どもはがんばって起きて、過ぎ越しの祭りの夜を過ごす。しかし、12時ごろになると、子どもたちは、椅子には座っているものの、まぶたは閉じているようだ。私のいた家庭では、終わったのは夜中の2時。私がニューヨークのシュロモ・カルリバッハのところで、過ぎ越しの祭りを過ごしたときは、朝まで続いた(出エジプト記12章42節)。
 この祈りのための3枚のマツォットは、手作りで、さすがにまずい。市販のものは、それなりに塩味がついていて、食べやすくなっていたことを改めて知る。
 マツォット、わさび…まずいもの、苦いものを食べて、エジプトでユダヤ人が奴隷だったころの苦々しい歴史を心に留める。
 では、「過ぎ越しの祭り」とは?
 お父さん、というかこの儀式のための「祈り本」いわく「ユダヤ人がエジプトの王ファラオの奴隷から、脱出したとき、海は二つに割れ、川は逆流して、山は笑った。ユダヤ人が自由を求めた歴史的な瞬間だ。しかし、これは、ただ単なる歴史ではない。今、あなたにとってのエジプト(奴隷である場所)から、自分自身を解き放ちなさい」。
 そうやって、アイデンティティを子どもに伝える。
 
 翌朝、ユダヤ教会(ベイト・ハクネセット)では、出エジプト記10〜12章が唱えられる。ペサハは、ユダヤ人にとって最も大きなまつり。多くの人々が集まる。出エジプト記の朗唱が終わると、これから秋の大きな祭り、スコットの日まで、どうか、この半年(夏期間)、私たちに、朝露の「露=水」を下さい、という「露の求める祈り」に入る。その祈りが延々と歌われる。今年の冬の雨は少なかった。彼らは、真に心から、露が草に降りてくるのを願って祈る。
 第二の大きな祭り、スコット。この日は、ユダヤ聖典の朗唱の後、ペサハの日まで雨を降らせて下さいと、「雨の求める祈り」をする。
 露と雨、二つの水を神に求めること、これは、重要です。祈りのリアル(現実性)を感じる。

 ペサハの夜は満月です。イスラエルは春の空気が済んでいて、仲秋の名月のように月は美しい。祝日は、終わった。よ〜し、みんなでメシ食いに行こうぜ!と言って、レストランに行く。でも、このペサハから一週間、レストランでも、ハメッツ(酵母菌のない料理)は、守られていて、パンは出て来ない。
 
 

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2008年4月19日 (土)

過ぎ越しの祭(ペサハ)

4月19日(土)の日没からペサハ(過ぎ越しの祭)が始まります。この祭は、出エジプト記の12章に基づいています。「この歴史を忘れるな」っていうことで、とにかくユダヤ人は、「食べ物」の習慣に変化を与えることで、その記憶を留めることが多いです。ペサハ(過ぎ越しの祭)もいろいろありますが、何と言っても「マツォット(酵母なしパン=味なしクラッカー)」をこれから一週間食べ続けなければなりません。昨日買い物にいっても、ペサハのために、パンもピタ(アラブのパン)もケーキも、酵母やベーキングパウダーでふんわりしたものは、姿を消した。パンがない、パンが。
宗教的な雰囲気の嫌いな人たちの住むテルアビブでもそうです。んで「正直言うと、マツォットはまずい、サイテー」と宗教的でない若い子たちは言う。それでも、ビスケットを食べる。パンじゃない。
で、マツォットはまずいか?というと、日本人の私にとっては、味のないクラッカー、つまり、白いご飯と役割は一緒なので、結構いける、と思いました。ちょうど白いご飯ぐらい味がなくて、おかずと一緒に食べるといった感じ。
「へぇ、ユダヤ人でもないのに、マツォットおいしんだ〜」と人々の不思議な目が向けられます。
彼らは、宗教を守るつもりはないけど、何となく気が引けて、そういう人たちの前では、みんな我慢、がまん。もちろん、全く関係ない人たちばかりになると、そんなこと考えなくてもいい。
ケーキがない、ってことは、マツォットでケーキを作る。チョコレートとトゥヒナ(ごまペースト)を混ぜて、平べったいマツォットの上に塗って、またマツォットを重ねて、またその上にチョコレートを塗って、レンガ作りのようにして、ひとつのケーキみたいにする。つまり、「ミルフィーユ」みたいなお菓子になります。これを、一週間かけて、食べます。
ペサハもシャバットみたいに、絶対に仕事をしてはならない、しかし、食事の用意はしてもいい。
写真は、マツォットとレタスのサラダ。
もちろん、シャバットもペサハも祝日に写真撮ってはいけません。今、家に誰もいないから、そのスキに、カシャッ(すみません!)
ハグ・ハメア(祝日おめでとうございます)!

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2008年4月17日 (木)

グーシュ・ハラブ

 4月12日、土曜日ということは、シャバット(安息日)。みんなそろって仕事をしないので、正々堂々とみんなそろって休みを過ごす。そこで、近所の人が、グーシュ・ハラフに連れていってくれた。レバノンが、「そこ」に見える。「2年前は、そこで、戦争してたよ」。そこで、会った人は、アラブのクリスチャンの人たち。オリーブ、アーモンド、ナッツ、りんご、もも、さくらんぼの農園をイスラエル人と共同で経営している。
 今は、全部、緑色の堅い実をつけている。ナッツやアーモンド、オリーブは、その緑色の実をオリーブと塩とつけて食べる。今のうちなら種もいっしょに食べれる。「青い実」の独特の渋みもまたいいもんだ。慣れないイスラエル人は、やっぱり渋くで食べられないと言っている。
 新鮮な油の実、といった感じ。

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2008年4月 6日 (日)

イスラエル

ウィーンで勉強したのは、26年前、イスラエルに行ったのが20年前、まさしく人生の復習をしているような日々。
初めての留学先のホームステイの家族のお父さんが病気で、イスラエルに行くなら、その前に是非ウィーンに寄ってほしいと言われ、それを真に受けてウィーンで途中下車(途中着陸?)。ところが、その後、心臓病の問題は誤診だとわかり、気も晴れたのか、お父さんは元気。当時、あまりにも若く無知だった私は、ホームステイのお父さんは、チェコから亡命した人とは知りませんでした。何か兄弟としゃべっているときは、ドイツ語じゃないなぁ〜みたいな。今は、オーストリアにいても、チェコで車で2時間で、彼の故郷ブルーノに行ける。そこで、ブルーノでドボルザークのオペラ、rusalka(ルサルカ)を聴いた。彼らは言った。「20年前、まさか、故郷に2時間で車で帰れるなんて、信じられないことだった。こんな日が来るまで生きていてよかった。」
最後の日は、ワインケラーへ。
オーストリアは、ドイツと同盟国だったので、イスラエルと聞くと、複雑な心境がある。私が、言うべきことか、どうか。しかし、心底、根深いユダヤ人への差別を感じざるを得ない。彼らは努力していて、もしイスラエルに対する差別的な言動を取ると、刑罰を受けると言っている。でも、「ユダヤ人」という単語だけで、差別的な笑いがこみ上げてくる。何を言っても冗談になってしまう。差別とは、そういうものでしょう。
そういう意味では、イスラエルに来てほっとする。
彼らは、喧嘩は強いし、自己中だが、差別に対しては、自由だ。
つまり、どうしようもない差別心を持っている人は、その心から離れられないでいる。
差別心のない人間は、真の友人になれる。それでも、イスラエル人のパレスチナに対する姿勢は世界的に悪評だ。
シャバットの日、家族のお母さん(つまりおばあさん)の家にいった。初めてイディッシュ語(ドイツ語文法によるヘブライ単語を使った言語)を聴いた。ほとんどドイツ語だ。
ドイツ人とユダヤ人が身近にいた時代に思いを馳せる。


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2008年3月21日 (金)

森に消えた子どもたち

 「足の凍ったおじいさん」に続く作品。
 「最北の国の人々」は、やがて大和に滅ぼされることを知っていた。大和の闘いで、最北の国の武人たちは、みな死んでいった。今や残されたのは、老人、女、子どもたち。彼らは、戦うことを知らない。ただ、行き先もわからず、その場を逃げるしか、生きる術を知らない。

 もし、征服されたら、人々は、朝廷に年貢を収め、その国の歌を献上しなければならない。
 今でも、宮内庁楽部には「催馬楽(さいばら)」という管絃付き歌謡が残されている。「山城」「葛城」「美作」「美濃山」「飛鳥井」「走井」「伊勢海」など、各地の名がつく歌は、おそらくその土地となんらかの関係がある曲であろう。
 他の国の歌を、歌う。そこには、自分の暮らす国の風情とは、異なる趣があり、その土地に、思いを寄せてみたりする…エキゾチック(異国情緒)…これは、貴族の趣味。今では、そこに何の琴線を感じなければならないのか、と言うのかもしれない。
 しかし、「ことば」や、そのことばから生まれた「歌」は、そのことばを話す人々の宝だ。それを、「中央」からみた演奏方法で歌うことこそ、征服の象徴だった。
 アメリカの中部で、日本人が一人で歩いていると、中国語とも、何語ともつかぬ、彼らなりの解釈で、それらしきイントネーションをつけた「罵声」を、ハイスクールのグループが、車で通りすぎる瞬間に、「私」に吐いてゆく。その行為に、被差別と屈辱を感じるのは、彼らが「日本のことば=私の宝」を恥辱したからだ。
 「アンビエント・ミュージック」がそうだ。イギリスの植民地だった国の音楽、歌に、ヨーロッパの音楽用語のひとつである「コード(和声)」を乗せて、イギリス人に理解のできる音楽として、解釈を加える。「コード」によって噛み砕かれたその歌は、イギリス人のための歌へと変わっていった。
 もともとの国の人々が歌に込めた魂、メッセージ、伝えたいことばは、その(イギリス)人には、必要ではない。いや、反対にそのようなものが、その歌になるならば、それは「コード」のよって薄めてゆかなければならない。
 ひと昔前の、音楽家なら経験したことがあるだろう。他の国の音楽や舞踊を学ぶとき、そこでは、録音や録画は、許される行為ではなかった。学ぶなら、私たちの「言語」を理解しろ、自分の身に沁みるまで、自分がその国の人となるまで通いつめろと。
 それが、「足の凍ったおじいさん」「森に消えた子どもたち」の共通のテーマだ。
 反対に言うなら、今問題のパレスチナ問題。イスラエル人(=ユダヤ人)は、多くのパレスチナ人の土地を奪い、そこに既成事実を作りあげ、イスラエル国家を存続させている。彼らは、国を欲した。それが「諸悪の根源」だ。かれらは、1900年前からのディアスポラ(離散)を、現在も永遠にすべきだろうか?
 なぜ、1900年前にディアスポラし、様々な混血を繰り返しても、今でも彼らは「私はユダヤ人だ」と言うのか?それは、「ユダヤ人だ」と言う人が、ユダヤの言葉(ヘブライ語)を失わなかったからだ。正確に言うなら、彼らの聖典に書かれた文字を、歌うことによって受け継いできたからだ。彼らがユダヤ人であることを鮮明に記憶していなければ、シオニズム(故郷の再建運動)を実現するエネルギーは生まれなかっただろう。彼らのシオニズムの力を失わせたければ、彼らからその言葉、歌を取り上げることだ。
 文化を取り上げること、それを、人は人にできるだろうか。

 人は、自分のことばを失うことは、できるのだろうか?
 以前、神職をしている者に「日本人はなぜ殉教しないのか?」と聞いたことがある。彼は「なぜなら命は大切だからです」と答えた。
 1)大切な命を守るために、人は征服者に服従するのだろうか?
 2)命を守るために言葉を、歌を捨てることはできるのだろうか?
 3)平和のために、人は、言葉を、歌を捨てなければならないのだろうか?

 言葉を捨てなくても、滅びてゆく人々もいるだろう。しかし、服従し、平和に滅びるのではなく、服従しなかったが、敗北して滅びる。これが、人類の滅亡の道のりのように思える。
 あるいは、「服従せずに滅びた風景」は、実は滅び、種となって地上に撒かれ、新たなる命を与える。
 それは、多くのイスラエルの預言者が歌ったことばだ。
 「雨も雪も、ひとたび天から降れば、むなしく天に戻ることはない。それは、大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ 種撒く人には種を与え 食べる人には糧を与える。
 そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ わたしが与えた使命を必ず果たす。」(イザヤ書55章10,11節)

「3月の語り物+映画」
 
日時:2008年3月21日(金) 19:00開演
 チャージ:1,500円(ドリンク付き)
 
場所:江古田フライングティーポット TEL:03-5999-79971
 練馬区栄町27-7 榎本ビル B1F
 
プログラム
  
「茗荷谷純情アパート」姉妹ユニット「橋本ヘイデロゥ」(壽山美科 壽山華月)
 映画「理想の幻日」2007年(荒井満耶監督) 出 演:賃貸人格ほか、
 
「森に消えたこどもたち」桜井真樹子+徳久ウィ リアム幸太郎

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2007年12月23日 (日)

往馬神社

伊古麻都比売(いこまつひめ)神
伊古麻都比古(いこまつひこ)神
生駒山の麓の神社。上溝桜(うわみずざくら)と言って、朝廷の大嘗祭の斎田点占(さいでんてんてい)の儀に使用される木。亀の甲羅をかんかんに火で熱くして、この木を水に漬けて甲羅に振り掛けると甲羅に亀裂が入る。その亀裂の入った方角の水田の米を大嘗祭に献上する。
総じて火の神。
こんなところで、こどものころ遊んでたんだ。
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2007年12月20日 (木)

伴天連の夜の喜捨

「伴天連の夜の喜捨」
 日時:2007年12月24日(月・祝)
     19:00 開場 19:30 開演
 場所:LADY JANE 世田谷区代沢5-31-14 
 TEL:03-3412-3947

出演:桜井真樹子(白拍子・語り)、今井尋也(小鼓・語り)、山田路子(能管・篠笛・語り)、宮澤民子(語り)、平瀬結以(語り)

一部 〜語りの世界〜
 「迎え月」
 江戸初期のお話。バテレンが追放されて、カゴから放された「ハチ鳥のはっつぁん」が結んだふたり、オタク系で歌舞の優等生「おはなちゃん」と、「薮そば」で有名な「森のクマさん」の心中物語。
 クリスマス・イヴに何ですが、山田路子の笛、今井尋也の小鼓が炸裂します。

二部 〜古代ヘブライ語の歌うた〜
 「雅歌」旧約聖書の愛の讃歌。
 2章7節「若者の歌」
 「エルサレムのおとめたちよ 野のかもしか、雌鹿にかけて誓ってください 愛がそれを望むまでは 愛をよびさまさないと。」
 4章16節「おとめの歌」
 「北風よ、目覚めよ、南風よ、吹け。わたしの園を吹き抜けて 香りを振りまいておくれ。恋しい人がこの園をわがものとして みごとな実を食べてくださるように。」
 古代の男女の歌垣。歌を読み交わし、舞踏して遊び、求愛した。男女の愛が、野の花を咲かせ、よい風が吹き、鳥も動物たちも悦び歌った。雅歌には、今でも「古代の愛の力」が、息づいている。

 「エレミヤ書」31章31節〜37節
 31.見よ、イスラエルの人の家、ユダヤの人の家が新たに創造され、承認される日が来る、と主は言われる。
 32.ずっと以前、エジプトの国を抜け出すため、私が彼らの神となった日に、あなた方の祖先が結んだ契約のことではない。彼らは、私が彼らの主人であるという契約を破った、と主は言われる。
 33.イスラエルの家が承認される契約は、その昔の日のあとのこと、これからである、と主は言われる。主の律法、掟は、内臓の真ん中に授けられ、心臓に記される。私は、彼らの神となり、彼らこそ、私の民となる。
 34.だから、友人どうし、隣人どうし、そして、兄弟どうし、主の知性、賢明さを語り、さらに学ぶことはない。幼い者から年老いた者まで、すべての者が私を知るだろう、と主は言われた。そして、彼らの願いを許し、犯した罪を赦し、二度と彼らの罪を、主は語られないだろう。
 35.主はこう言われる。昼に太陽の光を置き、夜に月と星の光を定めるならば、海は静まり、波は暖かくなる。主は、「天の軍」という名を持っている。
 36.これらの定め(規則)が、私の前になるならば、イスラエルの子孫は、そこに、永遠に、私の民として、住まう。
 37.主はまたこう言われる。天から測られて、地から調べられた国ならば、私は、イスラエルのすべて子孫をそこに組織する。そして、彼らのすべての上に幸福を作る、と主は言われる。

 35節、37節で言われていること。太陽と月と星、これが光として正しく運行するとき、宇宙、自然、世界は調和する。そのとき、子孫に幸福が与えられると。古今東西、賢人の智慧のことばのひとつと言えるでしょう。

「イザヤ書」9章1ー6節
1.闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。
2.あなたは深い喜びと、大きな楽しみをお与えになり、人々は御前に喜び祝った。刈り入れの時を祝うように、戦利品を分け合って楽しむように。
3.彼らの負う軛、肩を打つ杖、虐げる者の鞭を、あなたはミデイアンの日のように、折ってくださった。
4.地を踏み鳴らした兵士の靴、血にまみれた軍服はことごとく、火に投げ込まれ、焼き尽くされた。
5.ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」と唱えられる。
6.ダビデの王座とその王国に権威は増し 平和は絶えることがない。王国は、正義の恵の業によって 今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。

 これは、本当にクリスマス・ソングです。毎年、カトリックのクリスマス・ミサに、必ず朗読される旧約聖書の箇所。紀元前8世紀、イスラエルのガリラヤ地方が、アッシリア帝国に支配され、エルサムから切り離された彼らイスラエル人に、イザヤは、「イスラエルを救う『みどり子』が生まれる」と預言をし、励ました。キリスト教では、この「みどり子」をキリストとしている。

 「イザヤ書9章」は、キリストの誕生を喜ぶ歌。
 「雅歌」は、クリスマス・イヴを、カップルと一緒に過ごす愛の歌。

 ですから、クリスマス・ライブなわけです。

 チャージ:¥2,700+Drink Fee
  問い合わせ:ビグトリィ  TEL:03-3419-6261
 Email: bigtory@mba.ocn.ne.jp
 URL:http://www21.ocn.ne.jp/~bigtory/live/live0712.html

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2007年12月 8日 (土)

「写すこと」—彫刻、絵についてー

ー”Tzelem(ツェレム)”と”Fesel(フェセル)”—
 「写真をとる」という動詞が”Tzilem(ツィレム)”. “Tzelem(ツェレム)”はその名詞形で「姿、形」。写し取ったような「姿、形」ということ。
 “Elohim(エロヒーム)”は「神」。”Tzelem Elohim(ツェレム エロヒーム)”で「神の似姿」ひいては「(神の性質に似た)憐れみ深さ、親切」となる。
 創世記1章27節、
 「主なる神は、人を自身の姿に、神の姿と同じに創造した。それらと同じに男と女を創造した。」(直訳)
 「創造」は”Baraa(バラー)”
 これはいい意味での「姿、形」”Tzelem(ツェレム)”

 ダニエル書3章5節
 「ネブカドネツァル王の建てられた金の像の前で、角笛、横笛、奏でる絃などあらゆる楽器による『うた』を楽しんで聴きなさい。」(直訳)
 このときの”Tzelem(ツェレム)”は、ネブカドネツァルを生き写した金の像。すなわち「偶像」。
 
 “Fesel(フェセル)”は彫刻する。
出エジプト記20章4節
 「あなたがたは像、そしてどんな絵も造ってはならない。天の上に、また地の下にある水(地下水)にあるであろうものを」
 Fesel(フェセル)=像と、Tumunah(トゥムナー)=絵が、並列して「してはならない」と。「あなたがた」と言われた者たちは、現実の地上の形を、写し取って彫ったり描いたりするのではなく、「あなたがた」は、見たことのない世界、天の上、地の下、地下水にある「想像の形」を、彫ったり描いたりして、それをあがめてはならない、と言っている。
 これは、有名な「十戒」の3番目の言葉(戒)。神は「私が神、あなたの神だ」とそのあとで言っている。

申命記4章15節
 「男や女の姿のいかなるシンボルを象(かたど)って絵にして、そして堕落しないように。」
 ここでは、Fesel Tumunah(フェセル トゥムナー)と、「象(かたど)って絵にする」となっている。
 この15節の前には、「神が語ったとき、何か見えましたか?何も見えなかったでしょ?」と言い、15節のあとで、「あなたがたの目には、惑わされるものが写る」とも言っている。「惑わされるものが、神ではない」と。

 ちなみに、ダニエル書3章5節の「奏でる絃」は、Pusanterin Sumphoniyah(プサンテリン スムフォニヤー)。現代ヘブライ語で「プサンテール」は、ピアノ。古代、絃によって響く楽器は竪琴だった。新共同訳の「聖書」には、「六絃琴、竪琴、十三絃琴、風琴」と丁寧に書かれている。「風琴」はハーディーガーディのことだろうか?竪琴の絃は十絃。最近手に入れた楽器でもある。
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2007年11月18日 (日)

中世初期イタリア料理のディナー

左からエルサレムの魚料理真ん中のお皿は、詰め物をした卵と、異教徒のスフォルマート(タルト)。その右、ごった煮スープ、その上、貢ぎ物牛尾料理と中世の無花果(イチジク)料理。真ん中の上が薔のムース。
すごい!うまい!味付けは塩のみ。私、実は、化学調味料のない料理が大好きで、これは、感激でした。しかし、化学調味料の味に慣れている人には、全くダメなんだそうです。
ディナーのテーマは「女教皇ヨアンナ」女であることを隠し、学問を究め、遂に教皇になった女性。バチカンから抹殺された中世の女教皇。でもタロットには残されたカードのひとつ。このディナーショーに相応しく、男の僧侶しか歌わない天台声明と、エレミヤ書と雅歌をヘブライ語で。ヨハンナ、人ごとではありませんから。歌っている時、新潟は雷が鳴っていました。
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2007年10月28日 (日)

ユダヤ演劇論「仮面」

ユダヤの聖典には、偶像崇拝と仮面を付けることを禁じているとのことです。
 仮面をつけることを禁じたが故に、仮面劇はユダヤ文化の中にはない、と言われています。
 旧約聖書でも「偶像崇拝を禁ずる」という箇所は、よく知られているが「仮面」という文字に出会ったことはありませんでした。

 「仮面」はヘブライ語で”MaSeCHaH”(マセハー)、この4文字から想像できることは、ギリシャ語のMeTaPHoR(メタファー)、MeTaMorPHose(メタモルフォース)の語源であり、英語のMaSK(仮面)へ繋がっていくようです。ちなみにMetamorphoseは「変態、変容、変形」を意味します。

 以下、旧約聖書の出典は新共同訳。
 出エジプト記32章4節
  「彼はそれを受け取ると、のみで型を作り、若い雄牛の鋳造を造った。すると彼らは「イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き昇ったあなたの神々だ」と言った。」
 さらに32章8節
 「早くもわたしが命じた道からそれて、若い雄牛の鋳造を造り、それにひれ伏し、いけにえをささげて、『イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上った神々だ』と叫んでいる。」

 新共同訳では「鋳造」と訳されていますが、これはMaSeChaH(マセハー)と書かれています。
 4節の前半の文章は、「早くもわたしが命じた道からそれて、若い雄牛の鋳造を造り」は、「そして、それを手から受け取り、創作した。若い雄牛の仮面を刻み、Do(作る)」と直訳できます。「鋳造」ではなく、もし「偶像」と訳したければ、ELiL(エリール)あるは、TseLeM(ツェレム)となるはずです。
 
 もうひとつ出エジプト記34章17節
 「あなたは鋳造の神々を造ってはならない」
 この「鋳造」もMaSeChaH(マセハー)。


レビ記 19章4節では、ELiL(偶像)とMaSeCHa(マセハー)が並列して書かれています。
 「偶像を仰いではならない。神々の偶像を鋳造してはならない。わたしはあなたたちの神、主である。」
 これも文章にならないけど、直訳すれば。
 「神々の偶像(つまり偶像の複数形)、また神々のような仮面に振り向くことは、あなたがたにDo(されては)ならない。わたしは、あなたがたの唯一の神」
  
 申命記9章12節
 「そのとき、主はわたしに言われた。『すぐに立って、ここから下りなさい。あなたがエジプトから導き出した民は堕落し、早くもわたしが命じた道からそれて、鋳造を造った。』」
 これも出エジプト記32章と同じくMaSeChah(マセハー)と書かれています。

 これらの出典はすべて「モーセ五書」と言われる旧約聖書の最初の部分、創世記、モーセの関するユダヤ人にとって重要な書物からです。

 “Do”というのが、どうも気になります。決して、「演じる」とか、「被る」という動詞ではない。もしかしたら、飾るための礼拝が、モーセ以前のユダヤ人の風習にあったのかもしれません(というと、まちがいなく今のユダヤ人におこられます)。でも、そう想像したくなります。

 日本では原始的な仮面は、被るためのものでは、なかったようです。
 日本では、生け贄にされた動物の頭(かしら)が、奉納されます。そこから残忍性を逃れるために、「生きていたときの表情を失った顔」として、血塗りの「仮面」が飾られました。さらに、それをもう一度、人が被り、立ち上がり、踊る。「若い雄牛の仮面」とは、「わたしたちに糧を与えた神」、と仰いではならないとユダヤの神は言った。動物は、神ではない。「人間と神(アドナイ)」の関係が、モーセ五書から始まったようです。

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2007年10月26日 (金)

道成寺

 はい、「道成寺」、白拍子さんが行ったところですね。行きましたよ。
 清姫という女性のところに泊まった安珍が、清姫に言いよられたのを断るために「必ず熊野詣から帰ってきたらあなたの所に戻ってきます」と行って、清姫のところに戻らず、逃げて帰ってきて、それに逆上した清姫が、60キロの道のりをストーカーして、安珍は道成寺の鐘の中に隠れ…云々という。一夜の契りで逃げていった男に未練を残したり、泣いたり…こんな目にあった女の人は、五万といるでしょう。よくある話だ。しかし、よくもこんな女を馬鹿にした話が、日本では、能、歌舞伎、文楽と、ことあるごとに取り上げられ、名作として知られているという。女である私は、ちっともおかしくもおもしろくもない。
 さて、この寺を開いたのは、藤原不比等の養女になった地元の宮子姫。藤原の養女になり、文武の妃のひとりとなり、その財をもって大宝元(701)年に建設。
 法相宗だった。つまり藤原氏の庇護した興福寺の同じ宗派であり、不比等は興福寺の建設(710年)よりも前に建てている。
 藤原氏は、巫女を庇護し、その能力にたよっている。彼らは、もとは神託をする中臣氏でもある。
 その女性の力を大いに尊重した寺が、後に真言宗、江戸時代に天台宗となる。両者とも平安時代に始まった「男の宗教」、平安の当時は、尼僧を排斥した宗派だ。
 「なんとか前時代のイメージを払拭しなければ」と物語は、始まったという「清姫擁護説」がここに浮かんだ。
 熊野街道にあるこの道成寺。山伏たちのビジネス・ホテルとして利用されたことだろう。この男たちの世界で、「一夜の情事」を都合のいいストーカー・ウーマンの話に増長し、それを楽しげに語らう「道成寺ロビー」を想像してみたくなるのだ!
 千手観音、これは男の顔、きっと文武なのだろう。以前は、この千手観音に手を合わせたのは、多くの女の人たち、尼僧たち、だったのだろうか?
 道成寺から1キロほどはなれた日高川。こんなのどかな、ゆるやかな川を見て、自殺する女がいるか?自殺っていうのはね、もっと激しい濁流、深い底なし沼、波荒い海峡に、魂が持っていかれそうになってするものですよ。

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2007年10月19日 (金)

青い比久尼の物語

 大阪市平野区に「長宝寺」という尼寺がある。開山(寺を開いた人)は坂上田村麻呂の娘、坂上春子(さかのうえはるこ)(慈心大姉)と言われており、父親、田村麻呂によって大同年間(806-810年)によって建てられた。春子は生前の空海に出会って、帰依しており、この寺は高野山真言宗。そして、現在に至るまで、坂上家の流れを汲む七名家の姓をもつ女子が住職にあたる。
 本尊は、十一面観音と閻魔王。
 この寺には、「よみがえり草紙」という物語が残されている。
 永享11(1439)年、当時の住職である慶心坊尼(けいしんぼうに)が、頓死(突然亡くなること)した。慶心坊尼は、そこで、閻魔大王に会い、「もし仏道の修行をなまけると、このような地獄に落ちる」と、地獄のさまを、慶心坊尼に見聞させた。また「閻魔大王の証判を持つ者は地獄に落ちない」と、慶心坊尼に証判を与え、頓死から三日後、慶心坊尼は、蘇生した。
 慶心坊尼は、人々に「逆修(ぎゃくしゅ…生きている間に、死後の菩提(ぼだい…煩悩をから解放されて悟りを開くこと)を願う)」を勧めた。嘉吉元(1441)年、読経中の慶心坊尼に、青い蜘蛛がやって来て、その糸をつかむと、慶心坊尼の手の中に仏舎利に変わったという。
 翌年、嘉吉2(1442)年、慶心坊尼が逆修供養を行ったとき、ある僧が尼寺を訪れ、閻魔大王の木像を刻んで姿を消した。
 以上が「よみがえりの草紙」である。

 長宝寺には、今でも「青蜘蛛の舎利」、「閻魔大王実判」、「閻魔大王木像」、が伝わり、残されている。
 平野は、戦国時代より自治権を掌握し、環濠を廻らせて自衛にあたり、堺と並ぶ自治行政を行う都市として知られていた。政所(まんどころ)では、民衆によって議会が開かれ、裁判が行われ、福祉政策が決議され、丁稚(でっち)のための経営塾「含翠堂(がんすいどう)」には、著名な学者たちによる講義が学費無償で経営されていた。大名を置かない平野では、権力者に税金を払うことがなかった。
 しかし、その自衛のための経費と、自衛力の維持には、常に大きな比重が置かれていたこともたしかだった。女性たちの仏教への帰依には、現在でも厚いものがある。祈ることも、権力者から一族を、自治権を守ることだったのだ。
「よみがえりの草紙」がこと細かく残されているのは、このように平野が自治行政地区であったことによる。幕府体制側についていた放浪芸能集団「御伽衆(おとぎしゅう)」は、町々の言い伝えを聞かせてくれと民衆に近寄り、その町の動勢をこと細かく調べ集め、体制側に情報提供していたからだ。
 御伽衆たちは、物語を教えてくれたお礼として、他の遠い地方に伝わる言い伝えや物語を話して聞かせる、という語り部集団として、活躍していた。
 御伽衆の最も古い作品は、京丹後に伝わる「竹取物語」。そして、平野を始め、自治権を持つ都市、宗教活動に熱心な町などに伝わる物語が、彼らによって、多く残されていったのだ。
 
 大阪には、大阪湾沿いに「熊野街道」がある。文字通り和歌山の熊野権現大社に続く道である。別名「小栗街道」とも呼ばれる。
 毒酒の飲まされてあの世にいった小栗が、閻魔大王の裁きを受けてふたたびこの世によみがえった。しかし、それは、毒酒に体を蝕まれ、人に姿をさらすことも、自ら歩くこともできず、「お慈悲を頂けるのならこの車を引いて下さい」と張り紙をした「土車」に乗せられた者としてである。小栗はいつか、この土車が「熊野の湯」にたどり着き、この体が癒されるのをひたすら待ち望んだのだった。
 「熊野街道」は、一本の道ではなく、いくつもの分れ道がある。ある言い伝えでは、「穢(え)の道」と言われ、あるところでは「小栗道」と言われる。
 「熊野みち」は、海よりの家並みを抜けてゆく道。もう一つは、山側にそって、そこを歩くものが、鈴を鳴らしながら行き来する道。日中でも陽射しのあたらない暗闇の道。かれらは、ときに、「ささら(108枚の木片と両端のグリップを紐で結びつけた形状をした楽器)」を鳴らし、道ばたに筵(むしろ)を敷いて、この「小栗判官」の物語を語った。中世期末から近世初頭にかけて延々と語り継がれたこれらの芸能を「説経」と言う。これが、浄瑠璃へとつながっていった。
 宮本常一の「忘れられた日本人」には、伊予の小松から土佐の寺川を越える途中に出会った老婆の話がある。「その原生林の中で、一人の老婆に逢いました。髪はあるかないか、手には指らしいものがないのです。細い道一本です、よけようもありませんでした。『婆さんはどこから来た』ときくと、阿波から来たといいます。『こういう業病で、人の歩くまともな道はあるけず、人里も通ることはできないのでこうした山道ばかりを歩いて来たのだ』」
 日本を廻ると、細く長く続く道があることに気がつく。はるか遠い土地を目指して、山に林に抜ける道が、網の目のように広がっている。今は、鉄道、自動車道と、日本人は歩く旅を捨てた。巡礼の道を捨てたのだ。なぜ、何十年もかけて、あるいは生涯をかけて、かれらは、ただ「道」を歩いたのか?
 そこに「無縁」があった。「有縁=社会」から切り離された人々の世界が、道にはあった。「さすらい人」と呼ばれる人がいた。生涯、「巡礼」という信仰生活を送った彼らによって、「説経」は生まれた。今では、それを語る人々の存在はない。しかし、もし日本を歩けば、今でも、誰も歩くことのなくなった、「説経」の歌の聴こえた「巡礼の道」に出会うことがあるかもしれない。

「月に捧ぐ声」
日時:10月23日18:00開場18:30開演
場所:国立音楽院B1KMAスタジオ
http://www.kma.co.jp/info/map.shtml
料金:無料
曲目:八丈太鼓 箏曲「夕顔」 小鼓セッション 筑前琵琶「文覚発心」沖縄三線「月ぬ美しゃ」声明「青い比久尼の物語」  
アーティスト:桜井真樹子(国立音楽院講師)今井尋也(国立音楽院講師)高峯香風(琵琶奏者)他
問い合わせ:onbasarasatanba@yahoo.co.jp

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2007年8月25日 (土)

かぐや姫ノート 2

「かぐや姫」に出てくる神女は、大和の王の遠征を知り、無血革命を決意し、宮津の海に入水自殺をします。
 女神について。丹「波」道主王(たんばのみちのぬしのおう)には五人の娘がいました。五人とも垂仁天皇(第十代)の愛人となったということですが、五番目の娘は、返されました。その娘の名まえが「竹野比売(たけのひめ)」でした。国に返される道、そのことを恥じて、水に身投げをした、と言われています。ここから「竹野比売」は「水の神女」の始めの女性(ひと)と、されたと言われています。中国では、舜の皇帝が亡くなったあと、二人の妃があとを追って入水自殺をし、女神となった、ありますが、入水や水に身投げをして自殺をする女性は「女神」とされるのです。

 さて、この求婚者の中で、私は最も「かぐや姫」を愛した男のことを見つけました。それは、最初に立候補した「伊根の首長」です。
  丹後の人々は、真名井の神女たちが、宮津湾に入水自殺した事件を、心に留めようと、3,6kmの砂の道を人工的に造り、巫女の一人一人を女松として、植えていきます。天橋立の伝説では、この砂の道を作るのに、千年かかったとか。なぜ、それほどの月日をかけてでも完成させようとしたのでしょうか?
 伊根の首長は、この事件の後、浜辺で、子どもたちにいじめられている亀をみたとき、神女のことを思い出したのかもしれません。…彼はその夜、その亀は、実は入水自殺をした「かぐや姫」だったことを語ります。彼は、久々に出会えた「かぐや姫」と共にいる夢が、一生覚めないようにと願い、徐福の「不死の薬」を飲み、夢の中で永遠の命を得ようとします。しかし、その薬も切れて、目が覚める時が来ました。そのとき「かぐや姫」は、「我らが宮津の海に、身を沈めていった姿を、天に掛ける橋として、松の道に留めてくれるなら、伊根に人々の繁栄を約束しよう」と彼に告げます。伊根の首長は、目が覚めると自らは、すっかり老人となり、「かぐや姫」との約束を人々に伝え、ほどなく命の火を消していきました。…もし、彼がそんな人生を送ったならば、その時間の長さが、「かぐや姫」を思う最も多くの時間を過ごした男だといえるのではないか?と思ったのです。以前に書いたように、伊根には最古の浦嶋伝説が残っています。もちろん、それは、私が述べたものとは違いますが。
 
  もうひとつ、あらためて「かぐや」という名について、考えてみました。「かく」とは「掛く」とも解釈できます。これは上代(奈良時代)語で、「つなぐ」とか「掛ける」という意味です。つまり、入水自殺をした神女たちを、天橋立の「股のぞき」のように、天へ登っていく姿として、この砂の道を作ったのであれば、神女たちの魂が、天にかかりますように、かかりますように、と丹後の人々の祈りのことばが、姫の名になったと、この劇の最後で歌います。

 この作品の最後に、万葉集の第3245番とその反歌(かえしうた)3246番を歌います。

 3245番
  天橋も 長くもがも 高山も 高くもがも 月夜見の 持てるをち水 い取り来て 君に奉り手て をち得てしかも
  (天に上るはしごも もっと長ければ、天に上る高山も もっと高ければ、そうであれば、そこに上り、月の神が持っている「若返りの水」、その水を取って来て、君に差し上げれば、少しは若返るであろうに)
 3246番
  天(あめ)なるや 月日のごとく 我(あ)が思へる 君が日に異(け)に 老ゆらく惜しも
  (天上で、輝いている月や日のようだと思っていた君が、日ましに変わり果てた姿となって、老いてゆかれるのは、何とも惜しい)
  
 上代では、ある一定の老いに達したとき、たとえば現代の感覚ならば「還暦」と言った区切りの年齢を迎えた老人である当時者が、まず老いを嘆く、そして周りの人々がそれを惜しむ、という歌を歌う習慣があったのではないか、と言われています。あるいは、それが転じて、老いの確認を「笑う」ことで、老いに付く邪気を、吹き飛ばそうとしたのではないか、とも言われています。

 ここでは、「天橋立伝説のうた」を、真名井の神女たちが、翁が老いることを笑い、それを歌にして、自らの命を海に沈めていったという光景にしました。

あらすじ
 丹後の国造りの御子が産まれるにあたって、それを取り上げて、産盥で洗う「御子の神女」を翁が探す。翁は、真名井の神山の中で、ひとりの女の子を光る竹の中に見つける。
 女の子は巫(こうなぎ)となり、御子をとりあげたが、御子が巫(こうなぎ)と婚する12歳を目の前にして亡くなる。
 巫(こうなぎ)の神託(神のお告げ)を沙庭(通訳)する男、そしてこの斎宮を守る武士(もののふ)を失って、翁は、巫(こうなぎ)に、御子の代わりとなる男を見つけろと言う。それを知った3人の男たちが、巫(こうなぎ)を訪ね、自らの誇りとする宝を貢ぎ物として携えて求婚に来る。しかし、巫(こうなぎ)は、決して斎宮の門を開けようとはしなかった。

 そこで、最後に奈良の都から大和の王が来ると、翁は言う。翁は、この王は大国を治める者だから、巫(こうなぎ)は、王の愛人になり、斎宮を神女から王の庇護下に置いて、丹後を治めるしかない、と言う。
 巫(こうなぎ)は、斎宮は、ここに滅びたと思った。巫(こうなぎ)の心は、今だに御子にある。それ以外の男に、自らが託された神の声を沙庭をすることはできない。御子以外の男と婚することは、婚することによる征服にしかない。征服され、男の妾になるならば、我ら巫(こうなぎ)たちは、地上の斎宮を捨て、海に斎宮を造り、そこを「龍宮」と名付ける、と無血革命を決断する。
 そして、巫(こうなぎ)たちは、常世の国を目指し、ひとりひとりと海に沈んでゆくのだった。

創作能「かぐや姫」 プンダリーカ・ライブ val.11
出演:桜井真樹子(シテ・ワキ・龍笛・原作・脚本)、今井尋也(小鼓)、佐久間二郎(地謡)
    面制作(北澤秀太)、照明(浅川環)、衣装(永瀬ふみ江)
日時:2007年8月25日(土)
    二回公演 ①14:30開場 15:00開演、②18:30開場 19:00開演
場所:経王寺本堂 東京都新宿区原町1-14  http://www.kyoouji.gr.jp
料金:前売り2,000円 当日2,500円
お申し込み・お問い合わせ:03-3341-13148(経王寺)
主催:経王寺プンダリーカ・ライブ実行委員会
協力:特定非営利活動法人 アーユス仏教交際協力ネットワーク
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2007年8月24日 (金)

かぐや姫ノート

「かぐや姫」の舞台は、日本海に面した京都北部、丹後地方です。
 「丹」という名のごとく、ここは、鉱物資源の豊かな土地でもあります。

 今、伝えられている「かぐや姫」の伝説は、
1. 竹を取るおじいさんが竹の中から女の子を見つけた。
2. 美しい姫に成長したが、年頃になっても婿がいない。
3. 五人の大臣が立候補する。しかし「かぐや姫」は、五人とも断った。
4. ついに帝が、訪れた。
5. その帝を断るときに、自分は「月の国から来た者」だと告白する。
6. 帝は、月に帰らせまいと、軍を従えて姫を護衛するが、その甲斐もなく、姫は月へと帰ってゆく。
7. そのときに、おじいさんと帝に「不老不死の薬」を与え、若くあることを願う。
8. 「かぐや姫」のいない世に未練はないと、帝は、その薬を最も高い山に捨て、その山を「不死の山(富士山)」と名づけた。
とあります。
 
 2006年の夏、実際には、どこが「かぐや姫」のいたところとも知らずに、「かぐや姫の旅」を始めました。まず、京丹後市(きょうたんごし)丹後町間人(はしうど)にある「竹野(たかの)神社」を訪ねました。そこは「斎院(さいいん)」でした。「斎院」とは、もともとは、おそらく未婚を「汚れ なき女性」と拝し、そして感性の鋭い、「天の声を聞く」巫女のような女性がいるところだったのだと思います。
 竹野神社では、藁を二つに折って、その折ったところをくるくるとさらに藁でしばって「てるてる坊主」みたいなものが、宮の表(おもて)の軒下にいくつかぶら下がっています。10月10日の祭礼の時には、子どもたちが「テンキテンキ」と歌い踊って、それを奉納します。おそらく「天の気」が、私たちにもたらされますようにと。そして「よい天気」がもたらされると「ハレ」になるということなのでしょう。
 この「竹野神社」という名まえを聞いて、ここは「かぐや姫」の伝説を持っている土地ではないだろうか?と最初に考えました。
 よく言われている説では、この竹野神社の神女に「竹野比売(たけのひめ)」という人がいて、「かぐや姫」のひいおばあさんにあたる人だそうです。開化天皇(第九代)の愛人のひとりのようだ、ということです。また、彼女の父親は丹波の大県主(おおあがたぬし)のユゴリ(鋳型)、つまり、鋳型で鋳物を作る国の首長(おさ)だったようです。
 
 竹野神社のある間人(はしうど)という集落の人々は、その名のとおり、日本人と大陸人の間の人、つまり言ってみれば「国際人」というか「バイリンガルな人」だったようです。大陸の人たちは、ここに船を着ければ、彼らがどんなことばでも日本語に通訳してくれると信頼し、間人の港は、外交の玄関として栄えました。聖徳太子の母、穴穂部(あなほべの)間人(はしうど)皇后(第三十一代用明天皇の妃)は、この間人の出身者です。聖徳太子が「10人の人々の請願を聞いた」という伝説から、彼の別名を「豊聡耳(とよさとみみ)」と呼ばれているのは、おそらく「10カ国語に通じていたんだ」と、ここの里の人たちは理解し、それを私に話してくれました。

 ここから、北近畿タンゴ鉄道の「あみの」駅から観光で有名な天橋立のある宮津市まで行き、「あまのはしだて」駅で降りました。
  網野町で泊まったときの民宿の人も、天橋立ユースホステルの人も、私が「どこがいいところ?」と尋ねると「伊根」と答えてくれるのでした。それならば、と「伊根湾めぐり遊覧船」に乗りました。伊根は、「あまのはしだて」駅からさらに海沿いに北へ23kmほどいったところです。ここは「伊根の舟屋」と言って、1階は舟着場、2階が居住区になっている建築が、伊根浦沿い5kmに渡って約230軒並んでいます。
  その1階の舟のそばで、おじいさんが網の修繕をしていました。この円周5kmの浦に鯨が迷ってきたりすると、この230軒の男たちは、一斉に舟を漕ぎ、浦の入り口を塞ぎ、鯨をしとめるのだそうです。そういう漁民たちの強い団結の生きている村です。この村のもっとも精悍(せいかん)でたくましい青年も「かぐや姫」の求婚者のひとりとしました。それが伊根の首長(おさ)です。子安貝とは、星の形の模様が入っている貝としては非常に貴重なものです。それが漁民たちにとっての「宝」であることは、想像に固くないでしょう。

 この伊根町には、日本最古の浦嶋伝説が伝わる「浦嶋神社」があります。伝説では、淳和天皇(第53代 786〜840年)の天長2(825)年に建てられたとか。さらに、なんと紀元前219年、秦の始皇帝の命を受け、不老不死の薬を求めて船出をし、ここ伊根の「新井崎」に漂流した人、「徐福」を祀った「新井崎神社」がありました。伊根の人びとは、彼の知識と教養を敬ったと言われています。除福は、中国に帰らず、この土地で生涯を終えました。伝えられるところによると「不老不死の薬」とは、水銀を調合する薬だとか。水銀は、以前は「ヨウドチンキ」といって、消毒薬に使われていました。それが「腐敗をふせぐ」つまり、「酸化防止剤」のような作用をするところから、「不老不死」の可能性を想像させたのでしょう。しかし、人が水銀を接種すると水銀中毒となって、数々の身体への障害が見られることは、みなさんご存知のことだと思います。丹後の「丹(あか)」は水銀のことだと言われています。この土地は水銀が取れるところでした。

 天橋立から笠松公園行きのケーブルに乗って、山頂へと行きました。そこから天橋立を全望します。有名な「股のぞき」と言って、自分の股から天橋立を覗くと、天地がひっくり返って見えて、海にまたがった天橋立が、地上から天に登っていくように見えるという観光名地のひとつです。
 そこから、ふたたび、ケーブルでおり、天橋立を南から北へ45分ほど歩きました。約3,6kmの砂の道に8,000本の黒松があると言われています。そこには「晶子の松」「蕪村の松」「夫婦松」「羽衣の松」など、松の形を人になぞらえて名付けられた松が何本もありました。

 最後に、私の泊まった「天橋立ユースホステル」は、「真名井神社」の敷地内にあるかのように隣接したところにありました。この真名井神社を訪れると、「真名井神社」の名と共に「枹宮大神宮」という石塔が建っています。
 ここは、「真名井の井戸」と呼ばれる源泉があります。そして、「産盥(うぶたらい)」という石で作った盥があるのです。さらに、奥には、「鹽土老翁(しおつちおいのおきな)」と表記された石塔の横にある大きな石が、神として祀られていました。
 集落を守る神女ならば、その集落の人々の生命に、最も関わりの深い「水」を、自らが押さえなければいけないはずです。ですから、よい源泉のある場所に宮を建て、聖域としたのでしょう。
 そして、国造りの御子が出産した時には、その源泉の水で、洗い清めたのだと考えました。この御子と取り上げた神女は、婚することになっていた、という説もあります。聖域は、「性」すなわち「生(生み出すこと)(生まれること)」に関わっている場所です。ですから、「ホウ」は「ホウ(ひさご)」ではなく、本来はおそらく「胞(えな)」だったのでしょう。
 真名井神社の社殿の後ろには、二つの小さな石を集めて固めて作った人間の背丈ほどの山があります。その上に松が植えられていました。左はスフィンクスのように、右膝を石山につけて左の膝を立てたような姿を何本かの松で、作られているように見えました。そして、右は、まっすぐに二本の足で立っているような姿が松で表されているようにも思えました。この左には「天照大神小宮霊時」そして右には「天御中主大神霊時」と表記された石塔が立っています。つまり左は女性、右は男性、このふたりのカップルの姿が二つの石山に立っているのです。
 ふ〜ん、なんだかすごいところだ、と思って顔を上げると、その先の鳥居の先には、なんと「竹の山」が、広がっているではありませんか?そこに「真名井の神山」と表札が立っています。
 
 実際のところ、「かぐや姫」の舞台がここだと、聞いて来たわけではありません。しかし、これらのすべてが今回の「新説かぐや姫」の物語をすべて私に授けてくれた旅の出来事でした。

 三人の求婚者の順番は、一般に知られている「かぐや姫」と、この真名井神社を中心として、権力の大きさの小さい若者から、大きい権力を持つ王、地位の高い皇子へと、並べられます。
 ここにまとめて、書きます。
1. 伊根の首長(おさ)…子安貝を持ってくる。 
 2.藤原不比等…蓬?玉枝(ほうらいのぎょくし)…銀の根、金の枝、真珠の実)を持ってくる。
 3.石作皇子(いしつくりのみこ)…釈尊(シャカ)が使ったと言われる石の器を持ってくる。

 最後に、大和朝廷の王がやって来ます。ここで、はたと、私の出身地の奈良の二月堂の「お水取り」の行事を思い出しました。奈良の東大寺の大仏を作っていた当時(聖武天皇第45代、8世紀始め)、大仏は、全身を金で塗られることになりました。金を塗り付ける方法は、金に水銀を混ぜ、それを大仏に塗る。そして、火であぶって、水銀を溶かして、金だけを定着させる、というものでした。その作業のために、大量の水銀が土に染み込み、東大寺一帯の井戸は水銀で汚染されてしまったそうです。大和朝廷は、人々の恐慌(パニック)を鎮静するために、「二月堂の井戸は若狭の水につながっている。ここの水は、大丈夫だ。若狭に行って木の札を流し、それがこの井戸まで流れ着けばそれが本当であると信じるだろう」と言って、実際に実行した、というのが「お水取り」の言い伝えです。
 この「かぐや姫」の物語では、そこからヒントを得て、丹後の征服を日頃から考えていた大和朝廷は、「今、奈良の都の水が汚されたのは、丹後の巫女たちのせいだ。彼女たちは、丹後の『丹(あか)の水』を若狭の井戸から垂らし、その水脈が二月堂の井戸につながっているので、汚されたのだ。これから大和は軍を率いて、丹後の国を滅ぼしに行く。そして、斎宮を征服し、勝ったときには、若狭の井戸から木の札を流す。それ以降は、この水の汚染はなくなるだろう」
 それが、大和の王のやって来る真の目的だ、と思いました。

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2007年8月23日 (木)

そして「念仏衆」

 念仏衆の人たちは「念仏発弘聖者空也光勝上人尊霊」「極重悪人無他方便 其佛本眼力 聞名欲往生」「皆因念仏三昧 当得成佛」と後ろに書いている「ハッピ」みたいなのを着る。
 「空也上人の念仏」ということだが、「音」は追分節。しかし、普段追分節よりもオルティンドーを聴いている者にとっては、「念仏オルティンド−」に聴こえてくる。こんな念仏もあるんだ。
 「極重悪人無他方便…」そう書いて、人々の理解を乞う。「こんな極悪の悪人は、佛さまのお力を願うこと、その名を聞いて、往生を欲すること、これ以外に救われる道はありません。」「それ故、念仏三昧をして、成仏を得たいのです。」…つまり「自分たちに念仏を唱えさせて下さい。それ以外、私の救われる道はないのです」と言って、行く先々で念仏を唱える人たち。一件で約45分ぐらいの念仏だったそうだ。
 商売をやっているお店では、「喰物一切(くいものいっさい)」という念仏を唱える。
 このいえ(家)にふく(福)もあつまる うが(宇賀)のかみ(神)
 いえ(家)にさこ(栄)うる にせ(店)はあんらく(安楽)
 
 お寺では、お寺の念仏を唱え、家に上がらせてもらって、なすとキュウリのつけもの、お菓子、お茶を頂く。
 その念仏衆の到着地点が山寺の奥の院。大仏を前に一晩過ごす。
 はるか遠くから、巡礼をする念仏衆のミニチュア版は一晩で体験するような感じ。
 「東京オリンピック」前は、何人もの男女が奥の院まできた。そして、たくさんのカップルが生まれたとか。
 この行事は「東京オリンピック」以後、激減していった。

 この念仏衆の中の古い人は、とてもおしゃべりがうまい。ただの世間話だが、その人がしゃべると、家の雰囲気が明るくなる。その「福」をもたらす人に、家の人たちもとても楽しそうだ。
 昔は、さらに遠方の珍しい出来事、天候、農作物の出来、不出来、畑を荒らしに、今年は熊が何匹出たとか、それを殺して食べたとか、いのししが豆を喰ったとか、猿の子どもが多くでたとか、今でも近い話をしていたが、そんな話を、とても楽しく語る。
 話のはずむ家には「福」が来る…そんな縁起も担がれたのではなかろうか?
 その人、皆を笑わせ、コミュニケーションの大王みたいな人だった。「空気の読めないヤツ(称してKY)」」、増えて来たというが、そういう文化がなくなったからねぇ。
 
 それが、「東京オリンピック」以後、遠方の情報はすべて「テレビ」で知ることとなる。さらには海外の話題まで。念仏衆はお役御免となったわけだ。でもアナウンサーはあなたに語っているわけではないけれども。
 今でも、その語り部のような人の語り口に、とても心地のよさを感じたのは、あまりにもコミュニケーションがうまくいかなくなった今だからこそ、そう思えたのかもしれない。
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2007年8月21日 (火)

夜行念仏

 山形県の「山寺」という寺町があります。
 その寺は「山寺」と言います。天台宗。
 この周辺の人は、亡くなった人の歯を、この山寺のそびえ立つ山の崖に収めに行きます。山の一番奥、「奥の院」には、たくさんの歯が埋められています。
 そして、「ムカサリ(冥界婚)」亡くなった人が独身で、男の人の場合は、架空場の花嫁さんを、女の人の場合には、架空のお婿さんを横に描いて、結婚写真のような絵をお寺に奉納する。このままいけば、私も、ムカサリされる。
 亡くなった人の歯や骨を埋めたところに風車を立てる。これは、恐山もそうでした。そして、その風車は同じ業者が作ったものと思われる。同じ経済圏だ。
 その奥の院を目指して、「念仏衆」が夜を通して、歩きます。
 
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2007年8月16日 (木)

奈具(なぐ)神社

 比沼麻奈為(ひぬまない)神社にいた巫女から、この土地の人は、稲作、養蚕、機織り、酒造り、を教わった。比沼麻奈為のふもとには、日本で初めての棚田「月の輪田」が作られた。養蚕をし、ここには「丹後ちりめん」が栄えた。米から酒を作った。
 そうやって、技術を教わったのち、この巫女を「御用済み」と追放した。
 巫女は、泣きながら行くあてもなくさまよった。比沼麻奈為神社から北、竹野川のふもとで、行き倒れになっているのを拾われたのがこの「奈具神社」。巫女はこの土地の人々に今まで以上に恩恵を授けた。奈具岡遺跡からは、大量の水晶・緑色凝灰岩でできた「勾玉(まがたま)」が出土している。その勾玉に穴をあける鉄針も。弥生中期ごろ。
 明智光秀の娘、細川ガラシャが羽柴秀吉に父親が討たれたあと、隠遁していたのが、奈具神社の東、金剛童子山の麓「味土野」。小野小町が都を逃れて隠遁したのが、さらに南の高尾山の麓、「五十河」。竹野川の下流には斎宮の竹野神社。そのすぐ北には、聖徳太子の母、間人皇后が、やはり大和政権の争乱から聖徳太子と共に身を隠したところ。その海岸線を西に下ると白拍子静の生誕地が。想像するに、ここ丹後、特に山側は、「男人禁制」の巫女の土地。女が世間から身を隠せるところだったのかもしれない。
 
 白拍子の奉納が無事に終わり、バーベキューではしゃいで、京丹後を出発する翌朝、ひどい二日酔いで全く起きれなかった。あ〜、ここで行き倒れて、奈具神社だ。でも奇跡的に出発の30分前に起き上がれて電車に乗ってしまった…。乗った方がよかったのか…。
 でもいつかは、巫女の土地に帰ろ。死ぬときもこういう田舎の方がいい。
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2007年8月 7日 (火)

比沼麻奈為(ひぬまない)神社

「いさなご山」の麓の池で7人の天女さまが水浴びをしていて、その一人がサンネモに捕まった。天女さまは、そこで、農業、養蚕、機織り、酒造りを村の人々に教えた。その天女さまをまつったのが「乙女神社」。
そのちょうど西の向かいには、「ひさつぐ岳」がそびえ立っている。ここは、亀の甲を干して、亀甲占をやっていたところ。その麓に「比沼麻奈為(ひぬまない)神社」がある。
ここは、天女さまとサンネモの間にできた長女をまつっていると言う。
白い玉砂利。伊勢スタイルの社は結界が張られ、砂山がある。
ここで日々祈りを捧げた天女さまの娘は巫女だったのでしょうか?誰も近寄ることを許さず、「マツリゴト」をしていたのかもしれません。
誰も来ない清貧で静なところです。
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2007年8月 4日 (土)

羽衣伝説 2007

乙女神社
 いさなご山に舞い降りた八人の天女さまたちが、その麓の池で水浴びをしていました。
 それを見た狩人のサンネモが一人の天女さまの衣を取って…という、いわゆる有名な羽衣伝説。丹後風土記に記され、「最古の羽衣伝説」とされている。また、この土地には、丹後風土記とは、すこし違う伝説も伝わっているとか。
 http://kammuri.com/s1/densyou/01-otome/01.htm
 狩人は、山に入り、獲物が取れるまで、幾夜も一人で寝るんですよ。だから、天女さまに会ったが百年目、だったんでしょう。
 この乙女神社は、サンネモに羽衣を取られた天女さまを祀った神社。

 静神社の近くに「静の湯」という温泉が、500円で、入れます。
 そこで、温泉に入って、さあ、上がって着替えようとすると、ロッカーが開かない!指が赤くなろうが、鍵をどうひねってもロッカーは開かなく、このまま裸では、どこにも行けない、どうすることもできない。あーこれが、羽衣伝説かと思いました。
 見かねた、周りの人たちが、いろいろ手伝ってくれて、遂にロッカーは開きましたが。
 網野町の女湯に入っておられた方々、ありがとうございました。
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2007年8月 3日 (金)

白拍子の奉納

7月29日(日)
京丹後の網野神社で白拍子の奉納をしました。
網野神社は、日下部族の守る神が祀ってあります。それと浦嶋子さん(水江浦嶋子神=みずえのうら しまこのかみ)もここに住んでいました。そして白拍子静の故郷。静は、網野の磯という漁村で生まれたと、その生誕地の碑が立っています。そして、その生誕地の家の下の海辺のことを「尼さんの下」というそうです。

京丹後の方々いろいろとお世話になりました。
本当にありがとうございました。
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2007年7月 7日 (土)

月に行く友

洛中に知る人もなく
故郷も知らず 仮庵(かりほ)に眠る
歌へども心あらず
友みな月に向かふ
寂寞たる眼 光なく
幾許の財 暗鬼を生ず
夏至の陽昇り 友みな月に向かふ
一日は昔年のごと 人みな過客となり
庭園の清浄に足を向け 台に木を植へる
口は甘味に酔ひしれ 腕は箸を動かすのみ
人みな月に向かひ
月は人を迎へん
人みな月に消へ
我ひとり残り
人みな月に失せ
誰ひとり残らず

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2007年7月 6日 (金)

天の川コンサート

 200「7」年「7」月「7」日
 なんですね。今年の七夕は、それで、普段逢うことのできない今井和雄さんとライブをします。

 七夕(しっせき)といえば、和漢朗詠集の「二星(じせい)」、つまり「牽牛(けんぎゅう)」と「織女(しょくじょ)」のこと。

 二星(じせい)たまたま逢へり 
 いまだ別緒(べっしょ)依々(いい)の恨みを叙(の)べざるに
 五夜(ごや)まさに明けなんとす 
 頻(しきり)に涼風颯々(さつさつ)の声に驚く

 [恋人同士の二つの星が年に一度逢って、まだ、去年別れて以来のつらさをのべない終わらないうちに、もう夜明けの時刻になりました。朝の涼しい風がさわさわとしきりにそよぎ出して、はや夜明けと驚くのです。]

 五夜は、一夜を五等分したもの。したがって「五夜」は夜の時間すべてということ。
 作者は小野美材(おののよしき)。
 これは、「朗詠」として残っているので歌います。

 もうひとつ「七夕」には、乞巧奠(きっこうでん)といって、中国では、二星に芸が上達するように乞い祈る行事がある。五色の糸(願いの糸)を竿の先にかけ、針に糸を通し、梶の葉などに願いごとを書きつけ、くだものを供えて祈る。

 憶(おも)ひ得たり少年にして長く乞巧(きっこう)せしことを
 竹竿(ちくかん)の頭上(とうしょう)に願糸(がんし)多し

[七夕の宵に、竹ざおの上の方に五色の願いの糸をどっさりかけて、少年少女が学問できるように、裁縫が上手になるようにと祈るのをみるにつけ、自分も少年時代に乞巧奠を営んだことを思い出します。]
 これは、李白。

では、これは何でしょう?

洛中に知る人もなく
故郷も知らず仮家(かりや)に眠る
歌へども心あらず
友みな月に消えにけり

寂寞(せきばく)たる眼に光なく
幾許(いくばく)の財に疑心の生まる
夏至に陽の昇りて
友はみな月に向かひたり

一日(いちじつ)は昔年(せきねん)のごとく
人みな過客となり

庭園の清浄に足を向け 台に木を植える
口は甘味に酔ひしれ
腕は箸を動かせるのみ

人はみな月に消へ
人はみな向かいたり
人みな月に迎へられ
人みな向かひたり
われいかにせん
人はみな月へ去り
誰ひとり残らず
人はみな月に消へにけり

これは、”Everyone’s gone to the moon”です。
http://www.sing365.com/music/Lyric.nsf/Everyone's-Gone-To-the-Moon-lyrics-Nina-Simone/0BB6F447D7C45780482569A10029F0D4

 
「七夕/天の川コンサート」


出演:桜井真樹子(声明、白拍子、オルゴール)、今井和雄(アコースティック・ギター)


日時:2007年7月7日(土) 開場14:30/開演15:00


会場:UPLINK FACTORY
 (Tel.03-6825-5502/東京都渋谷区宇田川町37-18 トツネビル1階)


料金:予約\2,300(予約方法は下記をご参照ください)
当日\2,500(1ドリンク別)
 

※予約を希望される方は、下記要項を明記の上、件名を「七夕コンサート」とし、指定のアドレスまでメールにてお申し込み下さい。
 予約要項: 1.お名前 2.予約人数 3.電話番号4.住所
 予約先:factory@uplink.co.jp


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2007年7月 5日 (木)

節談説教布教大会

 行ってきました。
 なぜか、廣陵兼純先生と親しくさせて頂いています。
 「節のルーツ」という公演で、同じ舞台に立たせて頂きました。あのとき、小沢昭一先生が、私の声明を聴いて「眠い、眠い。眠たい声明」と言っていらしたのがよくわかるほど、節談説教はおもしろいわけです。
 2年連続、6月11日、節談説教を聴きに、廣陵先生の満覚寺に行った。今年は、6月10日の夜分遅く、満覚寺を訪れ、廣陵先生にコンビニ弁当をごちそうになって、弁当を食べたら、輪島のペンションまで道案内をして下さった。これのどこが、「お見舞い」か?能登半島の地震で、お寺の柱は、きれいに全部約20℃北に傾いているのに、本当にいつも世話になりっぱなし。

 今日の午前中のお説教「如来ひとり共なりき」。あの廣陵先生の声が聴こえたとたん「仏さまの世界」になってしまった。先生、そんなにうまかったですか?
 声が聴こえたとたんに、ありがたくて感動してしまった。これは、声明です。声明というのは、戦後の名称で、以前は「梵音」。「梵=宇宙」の音。そういう、非日常の世界をその場に実現できる人を宗教者という。

 2年前に節談説教を聴きに行ったとき、説教者たちのお説教は、世間話がほとんどだった。京都から能登まで8時間もかかり、結構疲れているせいもあって、説教師の世間話が始まると、爆睡をしていた。
 
 それにしても、親鸞の教え「正信偈(しょうしんげ)」の世界を、廣陵先生が節をつけて語って下さると、そこには「仏の世界」が広がっている。そもそも「仏」の世界は美しい。そして、その美しい世界を感動した親鸞。なぜ親鸞は、それに感動をしたか?という彼のそれまでの人生がある。
 その熱い感動が、廣陵先生の「声」によって、今ここに甦る。
 宗教体験とは、そういうものだと、思える瞬間だった。
 
 キリスト教のミサは、毎週日曜日にキリストが最後のディナー(シャバットの夕べ)を弟子たちと共に過ごしたこと。それを神父が演じる。そのとき、そこに、キリストがやってくる。つまり神父はキリストを演じきらなくてはならない。神父は、そこにキリストの世界を顕現しなくっちゃならない。それでこそ、宗教者だ。
 密教の曼荼羅供養しかり、導師が如来と一体となり、曼荼羅法要の行われている場所に、神々が降りて来て、「今、宴をやって歓喜で盛り上がっている」という歌、「声明=梵音」をそこに顕現しなければならない。

 節談説教は、落語のルーツ、語りのルーツ、浪曲と張り合った時代があった、ということで、聴いてきたけれども。今日の廣陵先生のお説教は、この「宗教観」と並ぶものとして聴こえた。親鸞の熱い慈悲。これは、厳しい雪国の能登に住む人たちの、タフな慈悲の心と重なる。心を尽くして人をもてなす人たち。そうやって、親鸞の時代も彼の新しい仏教の教えを受け入れたのだろうか?

 私の住んでいた神戸のカトリック教会の神父は、フランスのブルターニュ出身の人だった。ブルターニュは、荒涼とした土地で、世界でもっともカトリックの神父を排出するところ。彼も5人兄弟で、4人の姉たちは、すべてシスターとなり、彼自身も神父になった。この片田舎の神戸のはずれに教会を建てるために、ブルターニュの土地を全部売ってしまった。ブルターニュはケルト文化でもある。パリ・ミッションは、長崎や函館の隠れキリシタンを探しに安政時代に来た一派で、彼はその神父でもあった。このブルターニュ出身の神父の説教も凄まじかった。「神は、光だった。そしてそれが言葉として、私たちの前に現れたのだ!」これ、キリスト教かぁ?でも、この人は、そういう神秘体験をしているのだろう。いつもこんな調子だった。でも、それこそ、そのミサこそ、神の顕現する時間だった。

 荒涼たる土地ブルターニュ。「廣陵」とは「コウリョウ」とも読めるこの廣陵先生。まったく違う宗教なのだろうが、この人たちは、同じ宗教観にたどり着いたのだろう。

 午後のお説教は、「立撮即行」。廣陵先生のお説教にもあったが、仏さまのお教えとは、こうこうこうで、こうだから、こうなんだ、という説明で、わかった、ということではありません。あんたの心に、入ってくるんや。それが、「南無阿弥陀仏」。「南無」と感動する我、無量である「仏さま」、それが一緒になったこの六文字。そういう体験、あなたにも訪れることを、それをご開山聖人さま(親鸞)は願っていますよ。
 たしかに、この日は、ほとんど語りはなし。「節」を唸りっぱなしの廣陵先生でした。しかし、この熱い、熱い、廣陵兼純先生のお説教。これは、芸ではありません。宗教です。

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2007年7月 1日 (日)

「虎が雨」ライブ

今日のライブは楽しかったです。「楽しかった」と言えるライブは、普段はしていません。「楽しかった」と、それしか言葉になりませんね。 
常味さんは「チュニジアのウード奏者」として知れ渡っているのかもしれませんが、私にとって、常味さんは「江戸っ子」です。
常味さんとの最初のリハーサルで開口一番、「関西の人間は、東京の人間を冷たいと言う」。
そうですよ。というか、関西の人間には「そう思える」と言うことでしょうか?
本当に、実際、東京の大学に来て、最初に受けたカルチャーショックが「東京の人間は冷たい」でした。
常味さんは、そう言われたんですね。

さて、コテコテの関西人、桜井真樹子は今日、江戸小紋の浴衣を着て、関西出身なのに、「江戸っ子みたいだなぁ」と思ってしまいました。
そこで、思い出しました。一応関西出身ですが、私のひいおじいちゃんと、ひいおばあちゃんは、江戸の小石川でオフィスラブをして結婚しました。
さらに、ひいおばあちゃんとおばあちゃんは長唄の三味線をしている。そういうこと、普段は忘れているんですが、思い出しました。
特に、おばあちゃんは、「三味線みたいな『不良』が弾く楽器をやめないなら、学校を退学しろ」と言われたのに、やめなかったと、言われています。当時は、「吉原の芸者のような音楽を好んでする」ことが、不良という「イメージ」だったのでしょう。
だから、遠い先祖の血が、私に江戸小紋を着させて、「常味さんにアラブの三味線弾いてもらいなさい」と言ってくれたのでしょう。

男前の浴衣で「水の白拍子」を舞ったのも今回初でしたが、「ある王女の旅立ち」を語り、その横にウードを弾く常味さんがいて、これは「女流義太夫だなあ」と思いました。

そこで、思い出した竹本越孝さんとの出会い。彼女は、おそらく女流義太夫の実力ナンバー・ワンでしょう。しかし、2004年、竹本越孝さんの義太夫を初めて聴いたとき、東京の発音で、大阪弁の文章を読んでいる。それも、感情の込め方はまぎれもなく江戸情緒。「これは何なんだろう?」と関西出身の者としては、まことに不思議なものを聴いた思いがしました。しかし、竹本越孝という一人の女性が、一生をかけて義太夫を唸ってきた心の重みもそこにはある。そのとき初めて、自分がかつてイスラエルに行ったこと、そして誰に話すことなく、6年間もヘブライ語教室に通い続けたこと。ヘブライ語は、他国の人の文化だから、ちょっと知っているからと言って、それを「利用」するようなことはしない、と思ってきたことが、「やっていいんだ」と、タカが揺るんだ瞬間でした。イスラエル人と日本人は、水と油のように意を違え、心を通じ合わせることは、全く不可能だと思った。グローバルな意味での「東京と関西の人」みたいなものです。
でも、イスラエルから帰って15年。そうか、15年目か。もうやってもいいだろう。それは、ヘブライ語を「利用」したという作品にはならないだろう、という自負もあった。

そうやって、イザヤ書から手を付け始めたのが、今日のライブのMCでも言った2004年のクリスマス・ミサ。クリスマスには、必ず、「イザヤ書9章1-5節」が朗読されます。おそらく竹本越孝さんの義太夫を聴いた1,2週間後が、そのクリスマス・イブだったのです。その日本語を聞いたとき、すでに無意識の中で、この曲が生まれていたのかもしれません。

それからは、湯水のように次々とイザヤ書の歌を作りました。
そして、今回はエレミヤ書。これも、なんと実は、ナフム・イドというイスラエル国営放送局の人が朗読をしたテープを持っていたんです。それを持っていたこと自体、18年たった今、初めて気づいたのです。

ヘブライ語の作曲は非常に楽しい。次から次へと、フレーズが生まれます。水を得た魚、ヘブライ語を得た桜井真樹子。

そして、「ある王女の旅立ち」という、これも夢で見た物語をそのまま文章にしたまでの作品ですが、中近東の文化の中での「裁く」「審判」という、日本人にとって大嫌いな感性とやっと対峙できるような気がした。その人が、「運命」をたどっていくことこそが「裁かれた」結果であるという。イスラエルでの辛いことばかりの生活が、自分にとって何のためのものだったか、そのことにも初めて対峙できたということかもしれません。時間が、異文化を受け入れさせてくれたのか、すでにイスラエルは「思い出」となったからなのか…。

それを、伴奏してくれるという人がいたという幸運に感謝しなければなりません。常味さんの演奏を「伴奏」と言ってしまったのは、常味さんが自分を殺して、今日は伴奏に徹して下さったからです。
そんな人を、二代江戸っ子、ひいおばあちゃん、おばあちゃんが、引き合わせてくれたのかなぁ。

今日は、本当に「思い」が果たされたような気がしました。
楽しいライブでした。

そして、今日きて下さったお客さんは4人。「伝説のライブ」を体験して下さった方々。私の分まで長生きして、思いでを楽しんで下さい。どうもありがとう。

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2007年6月27日 (水)

青い比久尼の物語

 ある女の人がいました。夫は浮気をし、家に帰らなくなりました。子どもも仕事を見つけてさっさと家を出て行ってしまいました。
 この女の人は、占い師、祈祷師、僧侶、神父と、悩みを打ち明けては、占ってもらい、祈ってもらいましたが、夫も子どもも帰ってきませんでした。
 女の人は、占い料、祈祷料、布施、献金のために、もっていたお金をすべて失ってしまいました。
 住む家も失って、女の人は売春宿に住むようになりました。
 ある日、女の人は、「青い比久尼」の夢を見ます。比久尼は「占い師のところに行ってはなりません」と言います。そして、次に「祈祷師のもとに行ってはなりません」と言います…。
 女の人の夢の中に現れる「青い比久尼」のことばに耳を傾けてゆきます。
 女の人は、遂に何も願わなくなって、占い師、祈祷師、僧侶、神父のもとへも二度と行かなくなりました。
 女の人は、売春宿を出て、熊野の道を歩く「歩き巫女」になります。
 女の人は、苦しみの中から、「祈りの道」を歩み出します…。

 桜井真樹子(原作、脚本、語り)
 青い比久尼念仏衆:大塚惇平、手塚直子、尾野美枝、古橋良人、山崎晃一

「えこだのこえ エコーNIGHT 2007 #06」
日時:2007年6月29日(金) open 18:00, start 18:30
出演
 1.TASKE etc.
 2.しばてつ
 3.紅ジョースターズ from 静岡
 4.桜井真樹子 with 青い比久尼念仏衆
 5.ときめき☆バキュウムローズ(TASKE&冨桃)


場所:江古田フライングティーポット
Tel: 03-5999-7971
東京都練馬区栄町27-7-B1F
(西武池袋線江古田駅北口より徒歩3分)


入場料 \2000(1ドリンク込)



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2007年6月22日 (金)

マンハッタン翁

明日、再び「マンハッタン翁—アフリカ系の老人—」上演します。

キャンドル・ナイト・イベント
「マンハッタン翁—アフリカ系の老人—」
日時:6月22日(金) 18:50から19:20
場所:武蔵野大学 三鷹、武蔵野校舎 5号館 グリーン・ホール(1階)
http://www.musashino-u.ac.jp/accessmap/
出演:桜井真樹子(原作・脚本、翁)
 リチャード・エマート(能管、謡)
 今井尋也(小鼓、打楽器)
 北澤秀太(能面作)
料金:無料

 キャンドルの灯の中で、上演します。
 孤独な人を描写するのは、なんでこんなに得意なのかと、改めて思う今日この頃です。
 今年の敬老の日に、「マンハッタン翁 ヒスパニック、日系、アフリカ系」の三部作を完成させて上演したいと思っています。
 ふさわしい場所、もしご存知でしたら、教えて下さい。070131_1150

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2007年6月19日 (火)

百合の精  再演

「百合の精」をこんなに早く再演できるとは思いもよらないことでした。
 今回は、美術のドリスさんが加わります。蜜蝋のローソクを灯します。シュライヤー(蚊帳のような薄い白い布」で三つの部屋を作ります。「現世」「三途の川」「来世(むこうの国)」
 蚊帳を吊るしてのパフォーマンスはよくやっていたのですが、今回は、手作りの蚊帳で、それが大きな作品になっています。
 舞台のちょうど反対側は全面鏡で、さらに「向こうの世界」が見えているように見えます。
 私が右手を揚げると鏡は左手を揚げる。左手を揚げると右手をあげる。ビデオ撮影をしてスクリーンに映した場合、右手をあげるとスクリーンの私は右手を揚げています。
 しかし、上は上、下は下で映っています。上下は対称ではありません。
 「鏡」という世界は、左右対称の虚像でなく、「表裏」対称の虚像を作る不思議な世界です。
 つまり、本当なら私が鏡に向かったとき、「表裏」が対称でなく、同様であれば、鏡の中の私は、私に向かって背を向けて、右手を揚げれば、右手を揚げなければならないのです。しかし、鏡の中の私は、私と向き合わなければ、私が右手を揚げたことを認識しないのです。
 わかりますか?
 つまり、鏡には、「私の前」がない。したがって、「鏡」の世界は、実は、「未来」を表現せず、絶えず、私の後ろ、「過去」を映し出しているのです。
 
 「百合の精」
〜男と女の情念を超えた愛の神聖〜
オイリュトミー+白拍子+蜜蝋造形 ライブコラボレーション

出演:オイリュトミー&パフォーマンス 松山 由紀
白拍子(歌、鴟尾琴、舞)桜井 真樹子
蜜蝋造形 ドリス

日時:2007年 6月19日(火)19:00開場19:30開演

場所:玉川学園文化センター2Fホール
小田急線「玉川学園前」駅 下車徒歩1分
(改札を出て左側の階段降りて、信号を渡ってすぐの階段を登ります。)

料金:予約2500円当日 3000円

お申込み:Tur@point0.jp
FAX 042-788-0337
(FAX受付時間:午前10:00〜午後9: 00まで)

※公演が始まってからの入場は他のお客さまのご迷惑となりますので
 なるべく開演30分前にお越しくださいますようお願いいたします。

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2007年6月17日 (日)

グレゴリー・ベイトソン

「グレゴリー・ベイトソンの精神の生態学と芸術の心性」
という講演を娘のメリー・キャサリン・ベイトソンさんがします。
グレゴリー・ベイトソン(1904〜1980)、お父さんは、遺伝学者のウィリアム・ベイトソンだが、彼は、生物学から文化人類学、社会学、言語学へと興味を移していった。

 こんな実験をしたそうです。
 イルカたちに芸を仕込ませて、その芸が出来たら魚をやる。これは、水族館のイルカショーでよくみる光景ですよね。
 ところが、今度は、今まで教えた芸以外のことをしたら魚をやる、とイルカのインストラクターが、決めた。
 イルカたちは、今までのように芸をするのに、インストラクターは突然、魚をくれなくなった。「どうしたのだろう?」ととまどい、何度か、芸を繰り返し、さらには上手に、丁寧にいやってみせたりする。しかし、魚をくれない。イルカたちに、ストレスが溜まり、ついに、鬱になってゆく。
 そのとき!
 あるメスのイルカが、やけくそで、なんだかわけのわからない芸をやってみせた。すると、インストラクターが魚をくれたのだ!
 そうか!
 それで、他のイルカたちも、こぞって、いろんなオリジナルの芸を生み出して、見せ出した。ジャンプして沖に上がる芸など、今までのイルカ芸を歴史を塗り替えるオリジナルが一斉に生み出された。
 つまり、
 「創造(クリエイト)とは、あるストレス、鬱を乗り越えるために、生み出されるものである。」鬱を吐き出し、ふたたびエネルギーが循環し始めたとき、そこに現れるものが「創造(クリエイト)」であり、それは生態系(ecological)に流れている根源的な力(エネルギー)である、と。
 ほんとかー?
 
 でも、そのベイトソン思想に関係するパフォーマンスをやります。
 ベイトソンは、「モノ」よりも「カタチ」がオーラ(aura)を放つ、それが根源なのだと。「モノ」が集まって、形態が機能し始めると、そこに再現能力が発揮され、そこに原初の根源の正体を見ることができるのだと。
 イルカの実験のとは、違う観点になってしまいますが、古代に遡りたいというあこがれは、形骸化し、意味不明になった「モノ」が、明らかになり、とりもなおさず私の前でそれが生き返るさまを見るからでしょう。
 微風が舞い始めるということ。
 声明の音高の組み合わせが旋律型を作り、その「カタチ」を舞うことにより、「音」はどのように空中に舞い、その空間にどのような微風が吹き始めるのでしょうか?そして、その中に、神々が舞い降りてくるのが、「マンダラ(神々が舞い降る神殿)」であるならば、「音」そのものが、「神を呼ぶ声」であったということでしょう。あるいは「梵音(宇宙エネルギーの声)」であると。音の根源をヒトの声帯が出す。それにヒトは法悦を感じる。あるいは、ヒトは、法悦を「声」に出すのだ、ということでしょうか?

慶應義塾大学アートセンター「トランス文化の位相」研究会主催

「グレゴリー・ベイトソンの精神の生態学と芸術の心性」
   
ーM.C.Bateson教授を囲んでー

日時:2007年6月18日(月) 13:30〜17:00

会場 :慶應義塾大学 三田キャンパス 東館6階 G-SEC LAB
アクセス地図 http://www.keio.ac.jp/access.html

イベントHP http://www.art-c.keio.ac.jp/event/log/284.html

内容:
〔基調講演〕
●グレゴリー・ベイソンのバリ関係等の映像人類学作品などの一部の上映
●ベイトソン思想に関係するパフォーマンス   アーティス ト 桜井真樹子
●M.C.Bateson教授を囲み、人類学・美学・哲学・文学・臨床研究者のコメントと討議
 コメンテーターとして佐藤良明氏(ベイトソン著作翻訳・前東京大学教授)ほか。
 司会/宮坂敬造(慶應義塾大学アート・センター所員:グレゴリー・ベイトソン研究者)
Mary C. Bateson (人類学者・George Mason )
大学名誉教授、 ニューヨークthe Institute for Intercultural Studies 所長、 ハーヴァード大学客員教授、the Center on Aging & Work/Workplace Flexibility at Boston College客員研究員
邦訳書に『娘の目から——マーガレット・ミードとグレゴリー・ベイトソンの私的メモワール』(佐藤・保坂訳)国文社、
『天使のおそれ——聖なるもののエピステモロジー』(星川訳:父のG.Batesonとの共同作業) 青土社、
『女性として人間として』 (桜内訳)TBSブリタニカ)がある。



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2007年6月15日 (金)

輪島のうまいもん

能登輪島「御白髪素麺」(おんしらがそうめん)
 朝市で働いている人たちお薦め。半生の麺。鋏で輪を切ってゆで時間は「きっかり3分!」とアドバイスされました。製造者 蕨国子 輪島市河井町二部70-5 (朝市通り)0768-22-1140

大吟醸金瓢「白駒」(しらこま)
 これです。輪島の料理屋さんお薦め。甘口。どこの酒蔵も地震で樽が、潰れたようです。でもこの「白駒」は手に入ります。酒粕も美味い。大吟醸、純米、本醸造と分類されて販売しています。
 製造者 日吉酒造店 輪島市河井町二部27-1(朝市通り)0768-22-0130

輪島塩煎餅
 輪島市役所の副市長お薦め。甘くない。ほのかな、うすい塩味。「でもこれが、やめられんのですよ。」前の日記に写真載せました。
 製造者 瀬戸千恵蔵 輪島市河井町二十三部1-1 0768-22-0437

是非、お試しあれ!
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2007年6月13日 (水)

輪島市役所にいってきました。

能登半島地震被災復興のためのコンサートでは、11万1000円の義援金が集めることができました。
それを6月11日(月)、輪島市役所に届けてきました。
そこで出会った商工業課の橋爪さんが、「まつおか」というおいしい食堂をご紹介くださり、大満足。

写真は、輪島市の朝市が立つまん中にたっている市杵姫社の祀られている塔?
臼みたいな、あるいは杵?みたいなのに塔がたっている。
これと全く同じものが夕市の立つ住吉神社にあります。住吉神社は「まつおか」を紹介してくださった橋爪さんの実家。住吉神社と重藏神社を間に朝市が立ちます。

副市長曰く、職務時間など、度外視して働いた約20名の市役所の職員、これは、どこか他のところで地震があれば、実践力として飛んで行って働けますよ、と。まだまだ、輪島市自身が大変な状態なのに、そうやって、自分たちは役に立ちます、と言っている市役所職員。
それは、かつて地震を経験した新潟をはじめ北陸の市職員の人たちが今回の能登半島の地震のとき、現地にかけつけ、輪島市の迅速な対応の実戦力になってくれた、だから自分たちも、将来そういう役に立てるスタッフになりたいから、とのこと。

もっとも被害の多かった門前町の廣陵先生のお寺には、夜遅くお邪魔し、お寺の柱も傾いて、後ろは全壊して大変な状況なのに、コンビニでお弁当を買ってきて下さり、ご飯をたべさせてもらいました。
さらに輪島では、塩煎餅を頂き、「まつおか」でおいしいご飯を食べ、まったく、役に立つどころか、すっかりお世話になってしまいました。
毎度のことながら、どこに行ってもお世話になってしまいます。
輪島のみなさま、ありがとうございました。
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2007年5月25日 (金)

能登半島地震被災地復興祈念チャリティー・コンサート

影絵芝居「−水の女神−」
■カンボジアのバンテアイスレイの「デヴァダー像」が、「水の女神」となって夢で語った。女神に出会った僧、吟遊詩人の物語。密林の人々と帝国の栄枯盛衰を千数百年もの間見つめる!
日時:2007年6月2日(土) 15:00から20:00 (出入り自由)
場所:川口文化幼稚園講堂 川口市幸町3-5-33 (JR川口駅徒歩5分)
http://www.bunkagakuen.ed.jp/youchien/p1.html
※駐車場はありません。
入場無料

 さる3月25日(日)に石川県の七尾市、輪島市、穴水市を中心に震度6強の地震があり、一帯は大きな災害に見舞われました。多くの方々が負傷し、また家屋の倒壊等多くの被害が出ていると報道されています。そこでチャリティー・コンサートを考えました。被災支援の御協力を頂ければ幸いです。

出演:桜井真樹子(声明、白拍子)、今井尋也(小鼓)、井川仁水(法螺貝)、
「水の女神部隊」小谷野哲郎(バリ・ガムラン)皆川厚一(バリ・ガムラン)、徳久ウィリアム(節談説教)、山岸天平 ほか、
「青い比久尼念仏衆」大塚淳平、藤木友美、手塚直子、尾野美枝、山崎晃一、松山由紀、古橋良文 ほか

企画・主催・コンサートに関するお問い合わせ:桜井真樹子 onbasarasatanba@yahoo.co.jp
協賛:渡辺山修、佐々木茂、川畑泰、小川順一郎 協力:川口文化幼稚園、浅沼良臣、かわぐち塾
募金は、6月11日(月)に企画・主催者の桜井が責任をもって輪島市役所に持参致します。

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2007年5月12日 (土)

さらに青墓 その3

今度は、照手姫が水を汲んだという「井戸」。墓はいいだろう。しかし、井戸まで「照手姫」を絡めるかぁ。でも、この井戸で、この宿は栄えたんでしょうから大切な井戸です。
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あこがれの青墓 その2

青墓は、もと宿場町、というか遊女のいる宿として中山道に残っている。
その青墓の宿の一番西に、照手姫のお墓があります。
なぜ?よくわからん。照手姫は「小栗判官(おぐりはんがん)」に出てくる悲劇のヒロイン。小栗判官という都会の男に、操を奪われ、身を捧げ、もてあそばれて、堅実な女(第一夫人)の将来も、両親からも見捨てられ、青墓の飯炊き女(宿の炊事場で働き、夜は売春をする)として、売られた。その日々を送る照手姫の前を、ハンセン氏病となって、「熊野にこの車を引いて下さい」と札を貼って、「非人」として小栗判官が、箱車で現れる。箱車に乗った者の姿は外からは見えない。それを、照手姫は、哀れと思い、かつての小栗判官とは知らずに、青墓の宿の西出口まで引いていきました。と、語られています。
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2007年5月 9日 (水)

あこがれの青墓

遊女の里、青墓。遊女の子孫として、ここに行くのは、メッカの巡礼のようなもです。梁塵秘抄の歌詞を後白河に教えた乙前の故郷。ちなみに遊女とは「歌い手」ということ。「ディーバ(歌姫)」です。芸能をすることを遊ぶと言った。
「青墓町2丁目」の標識。
青墓の宿を営んでいたような家。
中山道を一歩はずれると田んぼ。
21世紀の今でも、本当にまだあったことにカンドー!
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芭蕉と歌を詠む

「奥の細道」はこの大垣の船町で、書き終わっている。「蛤のふたみに別れ…」という、最後の歌を歌ったところ。そのすぐそばのお寺の「古池」で、「蛙(かわず)が井戸に飛び込んだ」みたい。
秋の暮れ行く先々は苫屋かな   木因
萩にねようか荻にねようか    芭蕉
霧晴ぬ暫ク岸に立給え      如行
蛤のふたみへ別行秋ぞ      芭蕉
と、大垣の町を歩きながら、ひとりひとりが、歌を詠んで、それを受けてまた歌を詠む。そうやって、景色を愛でる。芭蕉のような上手い人と、歩いていると、ライムがおのずと、軽やかにはずむ。
いい旅だなぁ。
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ミイラのいる寺

横蔵寺(よこくらじ)。天台宗。ミイラになった方は、妙心法師。1817年。
水のきれいなお寺。紅葉のころはすごいでしょう。

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2007年5月 7日 (月)

尺八を吹く比久尼

有名な絵でもなんでもありません。ただ、肩に荷物を背負って、尺八を吹く比久尼が門付(かどづけ)をしている不思議な絵。この絵の左側が門付けをした家の門と、門の外の黒い犬とが描かれています。
だいたい尺八を吹いている女性なんて見たことなかった。
髪の毛が肩までしかないから、比久尼。
二人組は白拍子のツアー(巡業)形態と同じです。
尺八は、とても宗教的な曲奏をもち、虚無僧が吹いていたといわれています。だから、この画家は、尺八を吹く女性なら比久尼だ、と思ったんでしょうね。 
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2007年5月 6日 (日)

今井町河合家

酒蔵で栄えた家。今でもやっています。瓦が恵比寿さんとか、いろいろと凝っている。「出世男」聞いたことありますか?今は、無濾過生純米吟醸酒「しぼりたて」が出たばかりです。
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奈良県橿原市今井町

石山本願寺の称念寺を中心に栄えた城塞都市。奈良の古い町並みが残っているから行っておいで、と言われました。
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2007年5月 1日 (火)

いしぶた〜い

蘇我馬子のお墓だったとか。
だからこうやって、あばいて見せたのね。宮内庁管轄の古墳は、樹々で生い茂っているというのに。
死者の祖霊と繋がるために、この石の上で巫女が踊った?
聖徳太子の命日(4月22日)に、「聖霊会(しょうりょうえ)」という法要で声明、雅楽、舞楽が演奏される場所も「石舞台」と呼ばれる。
奈良県の小学生たちが、ひっきりなしに「石舞台」の前で、写真撮影。奈良県民のアルバムを覗けば、かならずこの写真がある。そして、奈良県民ならば、どの王よりも、馬子さんのお墓お参りしている、というわけです。
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りゅーがいじ

龍蓋寺。別称「岡寺」。石楠花(シャクナゲ)で有名。4月26日(木)は、シャクナゲが満開。
シャクナゲの前に立っている人は、空海。
お墓は、岡寺を開山した義淵。出家して、さっきの元興寺に入って、唯識と法相を修めた。弟子に行基(子どものころ住んでいた、伊丹市千僧作った人)と良弁(東大寺建てた人)がいる。
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じゅーりんいん

十輪院
鎌倉時代の不動明王
合掌観音、これも鎌倉時代。この人、すごいきれい。
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がんこーじ

「元興寺焼きもち」の元興寺の塔史跡跡です。
鬼瓦落雁は、「厄よけ」とかって節分期間限定で、鶴屋徳満で売っていたなぁ。
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2007年4月29日 (日)

神社仏閣と「もち」の関係

 神社、寺へお参りする。これは、平安中期ごろからの、特に女性の楽しみ、娯楽です。清少納言にも書いてありますが、「あそこのお寺のあのお坊さんはイケメンだ」など。

 それまでは、「神」は、村(共同体=コミュニティ)を鎮守するものであり、部外者に知られるべきものではありませんでした。
 それが、仏教、神道いずれにせよ「国家的宗教」として浸透してゆき、どの寺、神社も、「釈迦如来」「阿弥陀如来」とか「大国主神」「須佐之男命」など、神の名前が差し替えられ、「神」は共通、共有のものになっていった。

 家族の者が病気になって、薬師如来をお祀りしている寺に行く。それを真っ向から家族はとがめることもできない。
 神さまは、遊びの言い訳になる存在だ。

 そして、お参りのあと、参道でお買い物。そして「甘いものでも食べて一服」。お友だちと、おしゃべりに花が咲く。

<奈良>
 東大寺→わらびもち
 春日大社、興福寺→火打ち焼き
 元興寺→元興寺焼きもち
<京都>
 北野天満宮→長五郎餅
 今宮神社→あぶりもち
 上賀茂神社→焼きもち
 下賀茂神社→みたらし

 東京の柴又帝釈天の草だんごもそう?
 「火打ち焼きもち」は、一乗院(官家)がお成りの時に春日大社、興福寺で出され、食べていた。
 東大寺のわらびもちも、春日、興福寺の火打ち焼きもちも、赤膚焼きの皿に乗せられる。

 あなたのまちの神社とだんごの関係は?

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2007年4月25日 (水)

教えて真樹子さん

 という、企画があります。
 何を、教えてほしいの?
 と言いますと、「白拍子について」

 日頃、自分では、わかったつもりでやっていても「いったいこの人は何をやっているのだろう?と人には映っているんですよ」と「円盤」の店長、田口さんから言われ、この企画が実現しました。聞き手は、自ら知識を入れないように務め、当日を迎えようとしている、音楽出版関係の編集者、鈴木茂さんです。
 鈴木さんは、「白拍子とは?」「声明とは?」という向学のための質問をしたい、というよりかは、「なんで、そんなもんに、興味を持ち、日々の大半の時間を費やしているあなたの人生ってナニ?」というところに最大の関心点があるようです。
 「だって、ピアノ習って、作曲科に行って、どう間違えるとそうなるワケ?」というあたり。
 はい、「原住民の気持ち」でお答えします。乞うご期待!

 白拍子の伴奏をしてくれるのは、普段はパーカッショニストとして、第一級の久下恵生(くげよしお)さん。
 平安時代、白拍子は、ふだん二人組で演奏活動をしていました。踊りながら歌う「歌舞手(うたまいて)」と、それに合わせて鼓を打つ「鼓手(つづみて)」。「鼓(つづみ)」という楽器は、現在では、能や長唄などで使われます。一般にもっとも古い演奏形態は、能の中で、小鼓、大鼓が使われると思われていますが、実は、日本に、小鼓、大鼓といったタイプの「つづみ」が入って来て、最初に演奏した形態は、この白拍子二人組の「鼓手」奏者だったのです。
 久下さんは、今回、「白拍子久下(しらびょうしくげ)」として、さまざまな「動物の皮を張った鼓」で、白拍子桜井の歌舞に付けてくれます。これは、バトルでいきます。
 
 私も関西出身ですが、久下さんも関西出身。前のブログの記事で書いたように、私にとって、声明も雅楽も「音楽」ではなく、「そこにあるもの」だった。「音楽」という言葉を使った途端に、それがヨーロッパ音楽の要素をもった「曲」「作品」として認識していた愚かさ、哀れさが、私にはあります。
 それとおなじく、久下さんは、ずっと大阪で「だんじりの太鼓」を叩いていました。でも、それは、演奏家、パーカッショニストとしてではなく、「それがおれの土地の祭りだから、あたりまえのこと」として、ひたすら叩いていた。
 それは、この前のリハーサルで初めて発覚したことで、「大阪の白拍子二人組」で、二部は、さらに「おたがい、おまかせ白拍子バトル」と行く予定です。
 乞うご期待!

 「教えて!真樹子さん」
桜井真樹子さんに実演を交えて教えていただく幻の芸能"白拍子"の世界!実演にはゲストに久下恵生(perc)氏も参加。
出演:桜井真樹子(白拍子) 久下恵生(perc) 鈴木茂(聞き手)
日時:5月1日(火)
開演:19:00-
料金:¥1,000
場所:円盤〒166-0003 東京都杉並区高円寺南3-59-11 五麟館ビル201
Tel/Fax : 03-5306-2937 Mail : info@enban.org http://www.enban.org/map.html

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2007年4月19日 (木)

UP LINK インタビュー その2

■Q1
先日の打ち合わせで、クセナキスやヒップホップと照らし合わせて声明についてお話しされていたのがとても印象に残っています。これに関してより詳しいお話をお聞かせ下さい。また、音大の出身と伺いましたが、なぜ日本の古典音楽である声明を始めるに至ったのかお聞かせ下さい。

■A2
 私が声明をやっていると聞いて、訪ねてきたアーティストがいました。1995年ごろのことで、当時「ヒップ・ホップ・クィーン」とニューヨーク・タイムズに書かれていたトレイシー・モリスというスラム(作詩とそのの朗読)をしていた女性でした。彼女は奨学金で来日し、日本中の神社を時間の限り訪ね歩きました。どうすれば、従属した思想から独立できるのか?何を敬うことによって、誇り高く生きられるのか?その結論として、彼女は敬うべきは自然の恩恵であると考えていました。そこで、「アニミズムとしての神社」を見て回ったのです。マルコムXのように、「アフリカ」ということを意識している人もいれば、「アメリカ」ということを意識している人もあり、(皮膚の色から言う「アフリカ系」の)アメリカでも人はさまざまですが、少なくともヒップ・ホップに関心を持つ人たちは、前者です。「自分たちの言葉を持つ」ということへの苦渋があります。

 私は、源信(942ー1017)という仏教僧に、それを感じます。彼は、まず「論議」にすぐれた人でした。「論議」とは、二者が、仏教のさまざまな経典の知識を踏まえて、即座にその場に、議論を展開してゆくのです。まずは、同じ宗派内で、論議の試験を合格してゆき、実力をつけ、対外的には、天台宗、真言宗、奈良三論宗の宗派対抗で論議が行われていました。MCバトルです。時には、5日間オールナイトでやったという記録もあります。そこで、天台宗の要となるすぐれた論議を展開するのが源信でした。彼はその功績ゆえに、将来の天台宗のトップの座を約束されたのですが、それを辞退し、隠遁します。
 彼は、中国語で書かれた経典を日本語に訳そうとします。彼は、当時の論議を通して、知識人の間での論議ではなく、まったく仏教の知識から離れた人々に、仏教を広める時代が来たことを予感していました。それが「皆倶成仏道」という天台本覚思想への発展、ひいては「念仏思想」につながるのです。天台宗は、奈良三論宗に対して、後発の新興宗教だったわけですから、知識人のトップが集う保守的なイメージの「東大寺」に対して、さらなるユニヴァースな思想を求めていたのでしょう。それが、法然(1133-1212)の浄土宗、親鸞(1173-1262)の浄土真宗、日蓮(1222-1282)の日蓮宗、一遍(1239-1289)の時宗と、鎌倉新興宗教の招来させたのです。
 また源信は、日本語に節(旋律)をつけたものの法要を創始しました。そのテキストが二十五三昧式、別称「六道講式」です。これは、大ヒットしました。つまりその手法で「平家物語」というテキストで琵琶法師たちが語り始めたのです。「あーそうか、日本語はこうやって語るんだ」と。さらに民間に流れていったのが「絵解き曼荼羅」。とくに地獄の世界をビジュアル化した「熊野観心十界図」という「絵」を解説する熊野比久尼たち。これは「紙芝居」の原点です。しかし、これらの大衆化が始まるとともに、日本の音楽理論はなおざりにされたわけですが。
 結局、琵琶法師や熊野比久尼たちの活躍はあったものの、やはり、一般庶民は、大量に鎌倉振興宗教に改宗してゆきました。それは、親鸞がさらに人々の心に訴えかける節付きの「説教」をし、日蓮が声の限りに「辻説法」をし、一遍は、歌い、踊り、「踊念仏(おどりねんぶつ)」を人々に広めていったから。「論議」はMC、「講式、説教、説法」は「スラム」「絵」はグラフィティ、「踊念仏」は、「ブレイクダンス」。まるでヒップ・ホップ・カルチャーじゃありませんか!(と今、気づく)。

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2007年4月17日 (火)

UP LINK インタビュー その1

■Q1
先日の打ち合わせで、クセナキスやヒップホップと照らし合わせて声明についてお話しされていたのがとても印象に残っています。これに関してより詳しいお話をお聞かせ下さい。また、音大の出身と伺いましたが、なぜ日本の古典音楽である声明を始めるに至ったのかお聞かせ下さい。

■A1
 日本で、声明、雅楽が盛んだったのは、平安から鎌倉初期にかけてといえるでしょう。その当時、何に人々は、心動かされたか?といえば、それは、自分を取り巻く自然、宇宙について、自身の体で感じる瞬間だったと言えます。
 同じ曲を百回吹いてみて見えてくるもの、とか、夜通し寝ずに演奏したときに、見えてくるものとか。朦朧する闇の中で意識された記憶など。
 それを、音楽理論をもって、つまり「知性」と実際の体験から実感した「体感性」、そして五行陰陽という「思想・哲学」と共に、「心動かされるもの」は、「宇宙の理にかなっている」と言っている時代でした。

 それは、時代を経て、現代でも息づいている、と思います。
 日本の「祭り」「儀礼」を調査すれば、それらがほぼ夜通し行われること。翻って、若者が「クラブ」とか「ハウス」とか、とにかく、「大多数ではない、同じ興味や趣向を持ったグループ、部(クラブ)」単位で、あるいは「ぼくの家(ハウス)」で、夜通し踊ったり、夜おそくまで音楽に浸ったりすること。そのような「非日常」を好むのは、「何か」を体感するためでしょう。

 音楽家が常に「知性」を求めることは、歴史的にみても当然なことです。日本の音楽理論の頂点はおそらく鎌倉初期であり、それ以降は、理論で音楽は語られなくなりました。しかし、ヨーロッパの音楽理論は20世紀の初頭まで頂点を目指しました。そのことに洋の東西を問わず、音楽家ならば興味と敬意を払うことは当然です。その頂点を下り始めたときにあらわれたのがクセナキスの「自由確立音楽」というもので、ポアソン分布を使った統計学で音の構成を考えました。それは、「空気中の分子が行き交うさま」を音で表現するためです。そして統計学の「F (x)=」のxを、コンピュータの「ランダム」な発信を使って次々に計算をさせて、数値を決めていった。彼の作品は、オーケストラ曲だったり、アコースティックなものが多かったのですが、その「空気中の分子を表すような音の高さや音色の跳び方」は、結局は、その後のコンピュータ自らの電子音で作曲された「音の跳躍」に模倣された。しかし、後進の作曲家たちは、ただその「音のありかた」をなぞっているにしかすぎない…。

 第二次世界大戦を経験した作曲家たちは「感情」というものを特別に蔑んだ。自らが、軍事的なプロパガンダに躍らされて、敵国の人間を殺せと叫んだこと、そして自らが人を殺したことを悔やんだのです。人の感情という構造が、大きなもの、それは「力(エネルギー)」や「仕掛け」に飲まれ、酔いしれる「稚拙なもの」に見えたのでしょう。今でもハリウッドとか、ドラマという手法はそうでしょう。
 しかし、現代音楽家は、特にギリシャで死刑を宣告されたクセナキスとかは、自らがもっとも崇高に感銘を受けるべきものは「知性」と「宇宙」であると考えた一時期があったのですよ(と、まるで年寄りが若者に語っているような気分で)。
 それで、クセナキスが大好きだった桜井は、雅楽を聴いたとき、「この音楽はクセナキスに似ている」と思った。日本人の血が先祖還りをしたのです。
 私は、10年間、奈良に住んでいました。東大寺の塔頭(たっちゅう=東大寺の中の僧侶が住む自宅寺)のひとつがピアノ教室でした。ですから、奈良東大寺の声明も、春日大社の雅楽も小学校のころから聴いていました。しかし、それは、音楽としてではなく、ただ普通に聞こえる「音」としてです。
 なぜかと、思い返してみれば、東大寺で習ったピアノ曲はショパンだ、シューマンだ、ラフマニノフだと、「感情」に訴えるものであり、そのロマン的表現のピアノ曲は、ハイドンやモーツァルトやバートーヴェンを卒業しなければ弾けない「高度なピアノ曲である」というランクだと認識していたのです。「ロマン派の音楽はテクニックだけでは弾けない」など云々。
 いずれにせよ、「ロマンな音」は日本人にはものすごく新鮮であったことも確かです。

 そうやって、音大に入りましたが、実はやはり、「音楽大学のピアノ科」というものに、何か疑問を抱いていたので「音楽工学」という学科に入りました。そこにいた塩谷宏という元NHKの電子音楽スタジオ、音響技術室のスタッフのチーフディレクターで、黛敏郎、柴田南雄、湯浅譲二と共に電子音楽の仕事をしていた教授がいました。彼も典型的な戦前のプロパガンダに影響されて、「魂を国に売った」と悔やんでいる人だった。彼は、盛んに二月堂のお水取りや春日若宮おん祭りや、日本の伝統儀礼、祭礼を見ろと出席カードを配る。彼は、自己のアイデンティテイを今の時代の力で流れてくる風潮からではなく、祖先から溜め込んできた自らの血に問え、と言いたかったのでしょうか。そこから20世紀の音楽を見直せと、さんざん「プロパガンダ」されました(笑)。当時は、そんなもん、子どものことから見てるわい、と思いつつ、なぜ、音響学、現代音楽を専門学科とする我々が、夜通し祭りを見なければならないのか…と思いましたが。(続く)

日本古来のヒップホップ的大衆音楽を体験する
声明/講式Workshop
出演:桜井真樹子(天台大原流声明/作曲家/白拍子)
場所:UP LINK 渋谷区宇田川町37-18 トツネビル2階 03-6821-6821 info@uplink.co.jp
http://www.uplink.co.jp/info/map.html
日時:4/29(日) 開場14:00 開演14:30
予約:¥2,800(予約方法は下記を参照下さい)
当日:¥3,000(予約が定員に達し次第、入場制限あり)
:: 予約方法 ::
下記要項を明記の上、件名を「声明ワークショップ参加希望」とし、指定のアドレスまでメールにてお申し込み下さい。
【予約要項】 (1)お名前 (2)予約人数 (3)ご住所 (4)電話番号 【予約先】 factory@uplink.co.jp

http://www.uplink.co.jp/factory/log/001927.php#more

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2007年4月14日 (土)

鴟尾琴

ジャーン!鴟尾琴で〜す。
国立劇場からお借りしました。
今の「箏(こと)」よりも1オクターブ低い音。「木音(こと)」という響き。鳥たちの声を「木」が、覚えている。
リコーダー(record)というイタリアの木の笛と同じ考え方。
「コトダマ」は、おそらく「木音霊」=森の樹々は自然や宇宙の音を記憶している。それを伝える巫女の「声」が「言霊」だったのでしょうか?
明日、お時間のある人は是非。
タイトル:ココロミノハナ「百合の精」
日時:2007年4月15日(日)14:30開場 15:00開演  
出演:松山由紀(オイリュトミー&パフォーマンス)
桜井真樹子(歌、鴟尾ノ琴、舞)
場所:スタジオ・ルラ 横浜市南区宿町2-40 大和ビル223
アクセスマップ http://www10.ocn.ne.jp/~lula/contact/
index.html ※横浜市営地下鉄・蒔田駅下車
(北口1番出口:改札口を出 て左側通路から上がる) 徒歩5分
        ※京浜急行線・南太田駅下車 徒歩13分
料金:予約2000円(電話、口頭、E-mail) 当日 2500円
問い合わせ:スタジオ・ルラ Tel&Fax:045-716-3141  e-mail:lula@blue.ocn.ne.jp
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「百合の精」プログラムノート

  この物語の全体を通して歌われるのは、「琴歌譜(きんかふ)」より「しらげ歌」
「あしひきの 山田を作り 山田から 下樋(したひ)を走(わ)しせ 下訪(したどひ)に我が訪(と)ふ妻 下泣きに我が泣く妻 此夜(こぞ)こそ妹(いも)に 安く膚触(はだふ)れ」
 これは、5世紀、允恭(いんぎょう)天皇(?—453年)の皇太子、木梨軽太子(きなしのかるのみこ)が妹の軽大娘皇女(かつのおおいらつめのひいめみこ)への恋慕がつのり、遂に思いを遂げたときに詠んだ歌である。
 「高い山のなかに、水田を作り、そこに水を引くために、地下から管を通して、水を走らせる。私が密かに慕い、そして訪れた妻。私が、人に知られず恋しく思い、涙する妻。今夜こそ、我が妹を妻とし、心安らかに膚を触れ合ったのだ」
 「あしひき」は「山田」の枕詞。「山田」を歌うということは、農耕民の中で歌われていた歌であろう。農耕民の若者が、自分の思っていた女性と念願かなって共寝をしたことを悦んで歌い、書き残した歌垣(ラブレター)だった。それが、宮廷音楽のフレーズに取り上げられた。
 そして、さらに、木梨軽皇子が、同母兄妹の垣根を越えられたことを悦ぶ歌を詠んだと、古事記、日本書紀に記されている。
 古代、兄弟婚は、異母兄弟は許されても、同母兄弟は許されなかったとする説が多く語られる。
 なぜか?
 まず、自分が産まれたもとである母を姦通することは、「母」という生命を与えてくれた「マドンナ(聖母=女神)」に対する絶対的冒瀆である、という倫理がある。
 娘は、母の死のあとも、母の「生命」を受け継ぐ、「生命体」と考えられていた。つまり、「魂」として「同一」であり、別の人格としての認識はなかった。
 だから男性にとって、「最も愛すべきは母、その次は姉妹であるのは当然の原理」という認識が、まずあった。
 そこで、人間は「智」として、その姦通をタブー(禁忌…手を出していけません)とした。それを守ることが社会人生活の第一歩でもある。
 その禁忌を犯した木梨軽皇子に、すべての人々が失意し、皇位継承どころか、宮廷社会からの追放を望んだのだ。

 これに作者(桜井)が共感したのは、アメリカのネイティブ・アメリカンの部族、アリゾナ州に自治区を持つナバホ族の大学に留学していた経験からである。
 男性は結婚すると、その妻の母、姉妹とは一生合わない。なぜか?それは「妻の母、姉妹を愛するに決まっているから」だそうだ。彼らに言わせれば「母、姉妹」は同じ魂を分かち合ったもの。魂として同じなのだから、妻を本当に愛しているなら、好きにならないはずがない。という大前提があるようだ。
 実際、ショッピングセンターなどで、たまたま妻が妹に出会ったりすると夫は子どもを抱いて、たちまち姿を消す。
 古代の日本人、そしてナバホ族。彼らは、人を通して「魂」を見た、そして、どの「魂」のエネルギーが最も自らの魂に至福を、悦びを、歓喜を与えるかを見分けたのだ。
 
 「琴歌譜(きんかふ)」は、日本最古の琴と歌の両方が記された楽譜。
 まず、曲の題名を上げ、万葉仮名で、歌詞を書き、それを歌の詞(ことば)とし、その右横に、琴の弦の糸の番号、「手(拍子を打つところ)」などが朱色で示されている。縦書き。その歌のいわれ(縁起)を日本書紀、古事記から取り出して、記している。
 この「琴歌譜集」は、おそらく、11月の新嘗祭(にいなめさい…今年の豊穣を感謝する。現在の勤労感謝の日)から始まって、正月16日の踏歌の節会(新年にあたって地固め(地鎮)をし、よい年を迎える)までに歌われる曲を集めている。これを「大歌始(おおうたはじめ)」と言い、朝廷は、これらの大歌(大曲の歌謡)を演奏していた。そのため、平安時代、宮廷では、この大歌を歌う部所、「大歌所(おおうたどころ)」では、奏者たちは、宿直(泊まり込み)をして、日々、演奏に従事していた。それが「朝廷の勤め」であった。成立は弘仁年間(810〜823年)と考えられている。

 今回の「茲良宜歌(しらげうた)は、1月16日「踏歌の節会」に歌われる曲として記載されている。
 譜面として、最も詳細に記譜されているのが、新嘗祭の「茲都歌(しづうた)」「歌返(うたがえし)」である。しかし、それをもっても、琴歌譜からの復元は、音楽学者、特に林謙三氏によって「現段階では復元は不可能」と言われた譜面である。
 「茲良宜歌(しらげうた)」に関しては、さらに記載の少ない譜面であり、「これを復曲したのか?」と言われれば、「この譜面と向き合いながら、作曲した」というのが、復元にたずさわった者の実感である。ただ、作曲者はその復曲において万葉仮名のひとつひとつに「音の使命」を持たせ、仮名の振り方に注目をしながら、復曲した。

 鴟尾琴(とびのおのごと)は、古墳時代中期(5世紀)に出土されている。今回使用する鴟尾琴は、国立劇場で復元された楽器である。

 今の「箏(こと)」は十三弦だが、古墳時代中期の「琴」は五弦である。古墳時代後期に一度、四弦になり、その後、奈良時代に入って、六弦となった。
 鴟尾琴から、はじめて琴の下に「共鳴箱」がつけられるようになった。
 今回演奏される鴟尾琴は、伊勢神宮の神宝の六弦の楽器製作の手法を取っている。従って五弦ではなく、六弦琴である。
  十三弦の「箏」には、楽器の各部分の名称に「龍頭」「龍角」「龍口」など「龍」を模している。それに対して、鴟尾琴はその名のとおり、糸をくくりつけた部分が鴟の尾のように、ぎざぎざになっていることを模して名付けた。
 古代の人のイメージとして「龍」は雨を請う神の化身、空飛ぶ鳥は「陽」をもたらす神の化身だった。

 鴟尾琴と同じ形の琴をもった古墳時代の琴奏者の埴輪(土器人形)の役割は、王の葬送儀礼の鎮魂の役割を果たしていた。つまり、王と共に埋められた埴輪は、琴を弾いて、王の安らかな眠りのために古墳に王と共に埋められたのだ。
 それが、荒ぶる精霊を鎮めて、自然の気象の平静を願うために新嘗祭からの正月16日にかけて、演奏される楽器「鴟尾琴」だった。
 
  ふたたび「茲良宜歌(しらげうた)」について言うならば、これは、11月から続いた大歌による「祈り明け」、最後の「踏歌の節会」で歌われた。もともとは農耕の若者たちが、思いを寄せていた女性と、思いを遂げたことを悦ぶ歌であるとするならば、それは、「豊穣」に最もふさわしい曲として、大歌に取り上げられたというのは、想像に固くない。若者たちの恋の成就こそ、豊作の成就につながる。豊穣を願うまたとない祈りとなったのであろう。

 この舞台の作品での最後の四曲、いずれも古事記の「木梨軽皇子」の詠んだ曲とされている。
 「天廻む 軽の孃子(おとめ) 甚泣(いだな)かば 人知りぬべし 波佐の山の 鳩の 下泣きに泣く」
 (空をさまよう 軽の乙女、軽大娘皇女(かつのおおいらつめのひいめみこ)よ、そんなに泣いては、人に知られてしまいますよ。波佐(はさ)の山の鳩のは、どんなに悲しくても声を忍ばせてないているでしょう?)

 「天廻む 軽嬢子(かるおとめ) 確々(しただ)にも 寄り寝て通れ 軽孃子(かるのおとめ)」
 (空をさまよう 軽の乙女、 軽大娘皇女よ、兄の私にしっかりと寄り添っていなさい。私があなたのもとに通って、しっかりと寄り添って寝よう、軽大娘皇女よ)

 「天飛ぶ 鳥も使いそ 鶴が音の 聞こえむ時は 我が名問はさね」
 (天を飛ぶ鳥は、天の使いです。その鶴の声が聞こえる時、兄である私の名まえを鶴に聞いてごらんなさい。その鶴が「それは私だ」と言ってくれますよ。私の魂は鶴となって、あなたのもとに飛んできたのですから)

 「大君を 島に放(はぶ)らば 舟余り い帰り来むぞ 我が畳ゆめ 言をこそ 畳と言はめ 我が妻はゆめ」
 (大君である木梨軽皇子を、島に追放したけれども、舟はこんなにもある。どうして帰って来れないことがあろうか? だから私(木梨軽皇子)の寝るための畳。ことばでこそ「畳」というが、我が妻、妹である軽大娘皇女よ、どうかこの畳を斉(い)み謹んで、私の畳として取っておいておくれ)
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2007年4月12日 (木)

4月15日(日)公演 「百合の精」あらすじ

 古代。
 位も財にも恵まれたひとりの男がいた。男は、自分の宝と同じ数ほど、女がいた。男にとって、女も宝のひとつだった。位の高い女は、自分の地位も財も高めてくれる。
 その中で、遊戯のような女がひとりいた。野の百合が咲き、荒れ放題の破れ家に住む女。男はただ、欲望を満たし、その破れ家で夢のように時を過ごした。
 しかし、男は、その女のもとにばかり、通っているわけにもいかない。女は男の通う数の少なさに、「どのような女のもとに通うのか」と尋ねる。
 男は、得意気に、そしてすべての女を愛おしく語る。それを見て、女は激怒する。「おまえを呪い殺してやる。次に生まれるときは、私が男、おまえが女だ。それも兄と妹だ。二度と私との逢瀬を味わうことなく、なおかつ、別れても別れることのない間柄として、生涯記憶し続けるがいい。」
 
 5世紀の奈良。遠飛鳥宮(とおつあすかのみや)。
 兄は、木梨軽太子(きなしかるのみこ)と言った。妹は軽大娘皇女(かるのおおいらつめのひめみこ)と言った。兄と妹の父は、允恭(いんぎょう)天皇、母は忍坂大中姫(おしさかのおおなかつのひめ)両親を同じくする兄妹。しかし、兄は妹への恋慕の思いを止めることができず、ほとんど死に至るほどだった。そして遂に密通し、互いに愛し合った。木梨軽太子は皇太子であったが、人々は、この近親相姦を不道徳として、離反していった。そして、人々は、木梨軽皇子の弟、穴穂皇子(あなほのみこ)を支持し、木梨軽皇子は、弟との争いに負けて伊予の国に流された。

 舞台では、妹のさまよい歩く姿から始まる。
 伊予の国に流された兄を、妹の軽大娘皇女は伊予まで追った。さまよい歩き、遂に見つけたのは、兄の墓。それを信じることができず、墓を掘り起こした。そして兄の死顔を見た。妹は、二度と正気の世界に戻ることなく、乞食女としてその死に至るまで浮浪し続けた。兄の死顔を見たあとも、乞食女は、心の中で兄の墓を掘り続けた。「兄よ、兄、私はあなたを探しているのです。」
 
 妹は、「穴うさぎ」と生まれ変わり、穴を掘っている。そのうさぎの住む野の丘には、野の百合が咲いている。
 男→妹(軽大娘皇女)→うさぎ
 女→兄(木梨軽太子)→野の百合

 野の丘に住む神は、野の百合と穴うさぎに語らせる奇跡を与えた。
 野の百合「たとえ、妹であれ、君に通う男がいようとも、あなたへの思いは、死に至るほどだった。たとえ、皇太子の地位を失って、伊予で亡くなる生涯であったとしても、あなたとの思いを遂げることこそ、生きて死ぬ人間としての本懐であった」
 うさぎ「あなたを兄と慕い、夫として愛したこと。乞食女になり、狂うことで、死ぬまであなたを探し、あなたを思い続け、私は生涯、幸せだった。」
 
 うさぎは野の百合の丘で穴を堀り、遊び、野の百合はうさぎと戯れて、命を過ごした。

 この二つの霊は、もう生まれ変わろうとは思わない。水として、風として、雲として、空に漂い、ただそこに愛するものがあれば、何の苦しみもない。
 どちらが、何である、という在り方を離れたとき、この愛するふたりは、二度と生まれ変わることなく、漂うことができるようになった。

日時:2007年4月15日(日)14:30開場 15:00開演  
出演:松山由紀(オイリュトミー&パフォーマンス)
桜井真樹子(歌、鴟尾ノ琴、舞)
場所:スタジオ・ルラ 横浜市南区宿町2-40 大和ビル223
アクセスマップ http://www10.ocn.ne.jp/~lula/contact/
index.html ※横浜市営地下鉄・蒔田駅下車
(北口1番出口:改札口を出 て左側通路から上がる) 徒歩5分
        ※京浜急行線・南太田駅下車 徒歩13分
料金:予約2000円(電話、口頭、E-mail) 当日 2500円
問い合わせ:スタジオ・ルラ Tel&Fax:045-716-3141  e-mail:lula@blue.ocn.ne.jp
 制作:宇佐美陽一
 企画・主催:オイリュトミースタジオ・ルラ

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2007年4月11日 (水)

熊野古道と南朝

熊野古道を歩いて、本当にこんな道を「天皇」が歩いたのだろうか?と思った。足の踏み場もない、崖の下り坂、登り坂、何度も滑るこの坂を、「天皇」という「非弱なイメージを持つ人」が本当に歩いたのか?という疑問がつきまとう。近露王子から牛馬童子像まで、寝不王子から滝尻王子まで。その他にも、熊野古道を歩いた人は口々に、この道の「思いもよらぬ難所」を語る。
 世には「熊野古道を歩こう」「世界遺産熊野古道を歩く」など、その手の本が出回っていて、さぞかし、熊野古道のハイキングコースは、観光客でにぎわっているのかと思いきや、桜満開のこの季節でも、この道は静かだ。
 と同時に、「徳川家康」のことを思い出した。彼は、江戸幕府を開いたが、戦国時代の武将でもある。彼は本当に武将として強かった。幕府を開いた後も、何度も大々的な鷹狩りをしている。つまり、動物を殺す、「殺戮」の感性を決して忘れようとはしなかった。
 戦国の武将たちは、「本当に強い男」に敬服する。この男なら命を預けられる、という「命の銀行」「命の預け先」を探したと言う。まさに実力社会の時代。
 そのはじまりは鎌倉時代だ。男として、憧れる男、敬意を抱く強い男、「武士」が弾頭した。当時、社会は「教養」よりも「力」にあこがれ、そこに崇高さ、美学を求めた。
 それに「当時の天皇」が気づいたのだ。平安後期の花山上皇(968-1008),白河上皇(1053-1129)に始まり、鳥羽上皇(1103-1156)21回、後白河上皇(1127-1192)34回、後鳥羽上皇(1180-1239)28回と、熊野古道を歩いている。
 天皇は、時代に遅れまいと一生懸命、「強い男」を目指していたのだろうか?

 最多記録の後白河。彼こそ、幼少のころから、「今様」に狂い、「天皇のくせに今様(最新のポップソング)にうつつをぬかして、情けない」と公家社会から言われた男だ。さらに「今様のオリジナルバージョン(古流)」を知る乙前(おとまえ)という遊女を師匠として敬愛した。
 「今様」を歌い舞う白拍子。男装をし「女なのに男みたいで、かっこいい」と武士たちから絶大な支持を得たアイドル、そして彼らの武運を守護する新しいタイプの巫女。もちろん、熊野詣(もうで)に精を出したような平安末期、鎌倉初期の上皇たちも、流行に遅れまじと白拍子を召し抱えた。白拍子たちは、戦場、殺戮の場にも同行し、「従軍慰安婦」として、さらには、怨霊になることを怖れて、敵の首長の処刑の前夜に、「絶頂の夜」を与えるための「従軍慰安婦」として活躍した。
 一夜妻の潔さ。そんな美徳があったのだろうか?新宮の青年たちが話していた「村一番の娘」、古事記のころから記事として目にする「マレビト(外来者)を受け入れる巫女」そんな女性たちの記憶が熊野にある。
 そして、熊野の山に奥深く潜む逃散の人々、路地に住む人々。
 上皇と逃散の人々、「貴と賤」という構造。熊野古道を歩いて、体力の限界で見た目眩の構図だ。

 実際、彼らは「天皇」を譲り、「上皇」となった。または「院」とよばれ院政をしいた。「院」、つまり、宗教者だ。「天皇」では、通用しなくなった世に、さらにカリスマを得ようと、「院」を名乗ったのか?あまりに不用意な発言かもしれないが。
 しかし、彼らは、宗教というカリスマにすがった。そのカリスマ宗教が「天台宗」だったのだろう。
 時代が下って、後醍醐天皇の息子、護良(もりよし)親王(1308-1335)が、挙兵をしたとき、熊野の中辺路近露王子の豪族たちが、彼に従った。いわゆる「建武の新政」の始まり。そこには逃散の人々も加わったのだろう。護良親王は天台座主(天台宗の最高位)になっている。平安後期からの先人の上皇たちの熊野詣の歴史が、護良親王の挙兵を快く受け入れる下地を作っていたことだろう。天皇が権力を得ようとした最後の時代。
 健全な社会人、税金を納めていた一般庶民にとって、安全の保障先は無論、幕府だった。
 その新興権力に背き、「カリスマ」に忠義を尽くす人々は、「納税と安全保障」とは関係のない「アンタッチャブル」、つまり「逃散(非課税者)」だった。それが「南朝」と「熊野」だったのだろう。
 そんな「力」を失いつつあった南朝が、熊野の人々に求めたものこそ「力」だった。それも「悪」という力だ。「悪」とは、純粋な「力」そのもの。社会を逸脱した、一般社会では受け入れられない、または認められない「力」だ。それは「怪力」であったり、「暴力」だったりする。
 
 子どものころ、春の吉野千本桜を見に連れられて行った。そこに行けば、京都に向かって、つまり「北面」の後醍醐天皇の墓碑に出会う。個人蔵の日本最古の日章旗を見た。そこまで行けば、ついでに十津川にも足が届く。その旅路を常に黒い装甲車が付いてきたのが、なにげに恐怖の記憶として残っている。特に、十津川では、天誅組の、「ここで誰それが、斬り殺された」「ここで、誰それが殺された」という墓標のひとつひとつに、想いをこめて立ち止まっていた人たちの光景を思い出す。
 
 不思議な日本の歴史だ。しかし、「てんのーへーか、ばんざーい!」と叫ぶ日本の人々の血がここにある。
 再び新宮の青年たちのことばを思い起こすなら、「今の天皇は北朝なんだよ」。つまり熊野の人々の敬愛する天皇は、アンタッチャブルに慈悲を注いだマッチョな南朝なのだ。北朝ではない。
 そんな、北朝の皇族、現在の浩宮(ひろのみや)皇太子が、1992年、771年ぶりに、高原熊野神社を訪れたという。
 登山好きで、マッチョな太ももを持った徳仁(なるひと)親王(浩宮皇太子)。偶然とはいえ、彼は、消え去った遥かな南朝から、久々の熊野御幸をした皇族として記憶された。
 
 「南朝は消え去った」とはいうものの、日本人の心には絶大なる天皇崇拝があることを改めて思う。特に熊野詣をした上皇の「カリスマ」。その「カリスマ」は、日本人の中で、綿々として北朝の現天皇家にも注がれている。
 
 特に、第二次世界大戦後、実権を剥奪され、「国の象徴」と言われ、さんざん福祉関係の施設の訪問をする現在の天皇家の人々には、かえって南朝がもっていた、「一般社会の弱者を愛する天皇」というイメージが重なる。「福祉活動に熱心な天皇家」というイメージ。これは、「建武の新政」当時の上皇たちから学んだ姿なのだろうか?

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2007年4月10日 (火)

熊野のお土産 その2

 清姫手ぬぐい…滝尻王子にある熊野古道館でゲット。安珍・清姫で有名な清姫は中辺路出身で、中辺路の人たちは、清姫が大蛇になって安珍を焼き殺したのではなく、大蛇になって死んだ清姫とあの世で結ばれました、というお話になっています。日本手ぬぐい。なんせかわいい。200円

 金山寺味噌(うす塩味)…帰りは和歌山から夜行バスだったので、和歌山駅でゲット。丸新本家。味噌のきらいな私でも、この金山寺味噌は美味いと思う。785円
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熊野のお土産

 熊野牛王神符(くまのごおうしんぷ)…熊野本宮大社でゲット。八十八羽の烏で書かれた「カラス文字」、盗難防止、船酔い防止、病気が治る。でもこの神符の前で誓ったことを破ると、熊野の使いの烏が死んで、自らも血を吐いて死ぬという…。
 紀州中辺路の梅干し…高原熊野神社の駐車場でゲット。本当に中辺路の梅干しは美味い。500円

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滝尻王子到着!

14:43滝尻王子 着いた!雨は降るし、もう死ぬかと思った。熊野古道めちゃくちゃしんどいですよ。特に最後の寝不王子(ねずおうじ)から滝尻王子は、足の踏み場もないような急な坂だし。何度もすべった。あーもうふらふら。
 なんか社があります。
 それから、朦朧としていますが、後鳥羽上皇の歌「おもひやる かものうはけ(上毛)のいかならむ しもさへわたる やま河の」というこの字、めちゃくちゃきれいだ。
 それと、五十嵐播水の句碑「松蝉や熊野古道(ふるみち)草の中」「滝尻や夕日に鮎のまた掛かり」一応、子どものときの俳句のセンセーだったんで。

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乳岩と胎内くぐり

14:30乳岩と胎内くぐり
密教的解説をすれば、この胎内をくぐることによって、人間として生まれる前の宇宙(胎蔵界)の旅が始まる。ここからは、社会から隔絶された修行者たちの世界ですよ、という徴(しるし)。熊野本宮から来たのだから、ここからまた人間社会に戻るのです。
 大きな岩の下の石は床のような平な岩で、ここで雨露をしのぎながら、行者が瞑想をしていたのだろうか、と思う。

 中辺路についている王子の名前、または「王子」そのものについて。東京の人なら
 十丈→十条(京浜東北線)
 王子→王子(京浜東北線)
 寝不→根津(地下鉄千代田線)
 とか、思いますよね。そういう「二字熟語」って、きっとどこかにオリジン(起源)がるのでしょう。
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2007年4月 9日 (月)

大門王子→高原熊野神社

大門王子から先の池 写メールではよくわからないけれども、本当に翡翠のような緑。

 12:17高原熊野神社の集落の入り口にある庚申さま チベットの高僧の帽子みたいなのをかぶっている。
 13:00 高原熊野神社の楠木 デカイ!
 
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大坂本王子→十丈王子→大門王子

 9:24大坂本王子着!
 11:04十丈王子ちゃーく!
 なんか、石仏の頭らしきものと見受けた。
 11:44大門王子着 
 これって、梵字で「オン」って書いてあるの?
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花山院宝筺印塔(ほうきょういんとう)

牛馬童子と阿弥陀さま?の石仏の後ろに「不動明王」不動明王がこんな健全にたっているところをみると、これは新しい石仏でしょうか?
 この3体が向かって見ている位置に立っているのが、花山法皇が書いた経を収めた「花山院宝筺印塔(ほうきょういんとう)」
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近露王子→牛馬童子

4月7日(土)
 8:00am近露王子スタート!
 この「近露王子」の字は、出口王仁三郎の字。大本教弾圧の時、出口王仁三郎関係の石碑は全国津々浦々全部取り潰されました。残っているのは、これだけだそうです。

 8:35am 牛馬童子像
 左が牛、右が馬、この両方にまたがった「花山法皇」の姿だそうです。 
 その横の阿弥陀さま?右手がOKマーク、左の手のひらをみせている石仏。
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2007年4月 8日 (日)

「千年の愉楽」検証

 中上健次の「千年の愉楽」という小説がある。
 この小説に出てくる「美形の男たち」の出自はすべて「路地」。そして、凄まじく刹那で、不幸のうちに若くして死んでゆく姿が描かれる。
 中川王子から近露王子までの間に、集落ともいえない単位で、時々家が建っている。「家」と言えるのだろうか?と思える「建物」で、屋根があるからしのげると言ったようなもの。
 熊野の路の遠くにも2・3軒の建物を見つけたが、多くは熊野の路に沿って細長く建っている。カーテンがなく、外から部屋が見えるような家から、雨戸を閉め切った家まで。もう住んでいないだろうと思えるものもある。
 明らかに住んでいない放置された建物。そのそばに新たに住居が建てられている。
 見かける人たちは、おばあさんかおじいさん。みんなものすごく背が低く、小さい。一度だけ、おばあさんの娘か嫁にあたる人をみかけた。
 パイプ椅子におばあさんが腰掛け、ただ目の前にある洗濯機を眺めている。その奥に背を向けて、野菜を剥くために包丁を持っている女性(ひと)。彼女たちには、なんのことばもなく、熊野の静寂なときが流れている。
 この季節は一日中、うぐいすが鳴いている。そして、他の鳥たちの声も、その旋律もすべて「美しい」。世界は人のことばによって流れるのではなく、路地の人が聴いているであろうと得意げに鳴く鳥たちの声によって流れて行く。
 信じられない光景だった。
 若者たちは、仕事に出ているのだろうか?近露王子にたどり着く。その一帯の家は、いわゆる東京の郊外にあるような、一般的な一戸建て住宅。その住居の差は明らかで、最も立派だと思える建物は、小学校と中学校だった。
 中上の小説では、若者たちは、工事現場や炭鉱現場に出稼ぎに行ったり、街へ降りてゆく。そして街のものたちは、彼らを「路地のもの」と、すぐに見分ける。
 「路地」のものたちが、美形なのは、「高貴な血ゆえ」と小説には、書かれている。地元の人たち自身が、「天皇が来たとき、村で一番の娘を差し出すんだよ。その落し種が、おれたちなんだ」と言う。彼らの「美形」は「天皇の血」だと言うのだ。
 「王子」と呼ばれる場所は、今では、その石碑と解説の看板があるだけだが、当時は借宿でもあった。そこで落とされた「落し種」が、「熊野」を「天皇」と強く結びつけた。それも「南朝」の勢力基盤の根拠地として。
 もともとの豪族もいた。彼らは、いわゆる熊野の住み良い盆地に定住していた。
 しかし、熊野路を歩く行者や、中上の小説にも出てくる「突如現れる巫女たち」。そして山深く住むもの。古代には、田畑の税を払いきれなくなったものは、土地を捨て、逃亡、浮浪した。その同じ行為を中世、近世では、「逃散(ちょうさん)」と言った。
 その中で、「突如現れる巫女」たちは、突然、人々の前に現れ、歌い、舞い、そして赴くままに春をひさぐ。すべて収入を得るためだが、これは、白拍子の末裔でもあり、私の先輩でもある。なぜ、彼女たちは熊野に住み続けたのだろうか?
 身を隠す必要のある女性。今でもいる。罪を犯したもの。自分の子どもを殺したり、捨ててしまったもの。夫の暴力から逃げてきたもの。家庭を捨てるもの。逃散の一家。不治の病、伝染病と宣告されて村を追放されたもの。事情はさまざまだろう。中上の小説には出て来なかったが、歌い、舞えないものは、比久尼となって絵解き曼荼羅を語っていたのだろうか?
 そんな人々が熊野には住んでいた。そんな文章は、中世を研究していれば、いやというほど、目にしてきたのに、この道を歩くまでは、実感がなかったのだ。廃屋となった小屋をいいことに、逃散したひと、巫女や比久尼たちが、雨風をしのいでいたのだろうか?
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比曽原王子

そして比曽原王子へ。この先に、千手観音かな?という石仏が。熊野古道にたたずむこれらの石仏は、とても小さいです。
千手観音は、かろうじて祀られていますが、両手に五鈷杵、独鈷杵をもった石仏とか、不動明王系のような密教的な石仏は、顔が削られているし、それらしき「文言」も消されている。廃仏毀釈のときの影響でしょう。役行者からと言われている熊野古道。平安・鎌倉のころは「天台宗の行者路」だったでしょうからね。
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桜継王子

桜継王子のあたりには、ものっスゴイ大きい杉がいくつもある。社の正面の杉は、雷が落ちた後らしい、切れ目凄まじい杉が。
しかし、この熊野古道、今、桜満開です。なのに、この人の少なさは、なんでしょう。
「熊野古道を歩こう」なんて本がよく出ているので、ハイキング姿に人たちを見かけるのかと思ったらほとんど、誰もいない。全く静かな熊野古道に密かに桜が満開です。
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小広王子→中川王子

さあ、歩きますよぉ。小広王子から中川王子まで。
写真は小広峠の杉と、中川王子の跡地の石碑。
この「王子」というのは、何て言ったらいいのでしょうね。「ポイント地点」に、小さな社とそのそばに借宿(休憩小屋)みたいなものがあったらしいい。その跡地。とりあえず「王子」は熊野権現(くまのごんげん…「熊野の神様が姿を表した」という意味)の王子さま、こどもということで、祀られていたそうです。
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八咫烏(やたがらす)くん New!

熊野本宮大社を出ると、おそば屋さんがある。熊野大社の「八咫烏(やたがらす)」は有名ですが、ここのおそば屋さんのからすもかわいい。梅干しと大根の入った「詣でそば」735円
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梁塵秘抄

熊野速玉大社に行って、バスで、山を上がって熊野本宮大社へ。
入り口に梁塵秘抄
「熊野へ まゐるには 紀路と伊勢路の どれ近し 広大慈悲の 道なれば 紀路も伊勢路も 遠からず」
 紀路は、大阪方面から太平洋湾岸沿いに歩く路、伊勢路は伊勢から太平洋湾岸沿いに歩く路、いずれも新宮に至り、そこから熊野川沿いに上がっていく。
 そんなもん、どっちも遠いわい。
「熊野へ 参らむと 思へども 徒歩より参れば 道通し すぐれて 山きびし 馬にて参れば 苦行ならず 空より参らむ 羽たべ 若王子」
 どうやったら楽に熊野へ参れるだろう?歩かないとありがたさがわからない。楽をしては行にはならない。でも羽があったらね。と、「苦行マニア」なら、どうしてもチャレンジしたくなる熊野路です。
 梁塵秘抄は、とりあえず、白拍子にとって、先輩たちの残したたいせつな歌詞集ですから。この二つの歌も五七調ではなく、四八調のまざっている、古い歌のリズムがあります。
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2007年4月 2日 (月)

桜、サクラ

今日は、埼玉県川口市も桜は満開でした。朝7時半ごろ、近所のまだ誰も遊んでいない公園で、ランドセル姿の娘の写真を桜の樹の下で撮っている父親がいた。次に、父親は娘を抱いて、その姿を母親が撮っている。世の中でこんな美しい光景があるだろうか、と胸がふさがれる思いがした。
 昼には、仕事先の有栖川公園で桜を見る。桜は、気がふれたように「咲き乱れる」のです。この光景を古代の人は、「魂振(たまふ)り」と見立てたようだ。ひとつの「気(ケ)」の状態である。感動を起こす状態。そこの空気を廻すこと。舞うことも、花が咲くことも「魂振り」。だから、桜の花の下で舞うことは、ダブルなわけです。
 すでに、花は散り始め、お花見の私たちに降り注ぐ。花は散り、「花鎮め」によって、私たちは、「魂鎮(たましず)め」される。日本人は知っている。桜が心に感動を与えることを。
 風に吹かれて花が散る。その先に、未知の浄土(至福の世界)が待っているように思える。
 日本が最も美しいとき、日本人は最もしあわせを感じる。私はこのときが一番好きです。
 また、リフレッシュして、始まりますね。Photo_32

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2007年3月28日 (水)

天使の服

 一昨日、30万円のブラウスが世の中にあることを知った。
 http://www.ermannoscervino.it/splash.html?lang=en
 (そして、ERMANNO/SCERVINOをクリックし、次に、”COLLECTIONS”すると、項目が表示され、その中の”WOMAN”の”S.S.2007“の”SHOW”をクリック。そして、開いたページの写真の一番左)
 そして、昨日、「レオナルド・ダ・ヴィンチ展」に行った。
 最初の「受胎告知」の大天使ミカエルのブラウスとこの30万円のブラウスの構造をほぼいっしょ。
 http://www.leonardo2007.jp/
 わかりづらいかもしれませんが、要するに二の腕の部分に、シャーリング(生地を縫いちぢめた飾り、糸を引き締めてギャザーを寄せたもの)が入っており、肩と腕に膨らみを持たせた「袖」を作る。
 この「袖」デザインを持ったブラウスは、イタリアの縫製職人によるイタリアの伝統的装束だったのです。
 天使さまのブラウスかぁ。
 
 そして、電車に乗る。卒業式シーズンで、女の子たちの、着物、袴姿を見かける。
 成人式には、おんなの子たちは「振り袖」を着る。今の世の中で成人式に、高松塚古墳の壁画の「女子群像」のような着物を着るひとはいない。
http://www.asukanet.gr.jp/ASUKA2/TAKAMATUTUKA/takamatutuka.html 
 しかし、このよう出で立ちも「天女」の表現で、それを受け継いだものが「振り袖」「袴」でしょう。
 成人式や卒業式に際してみんな「飛び立って」ゆこうとしている。それを表わす姿で、式にのぞむ。天女たちの集まるときだ!

 「振る袖の…」など、「あの女性(ひと)が袖を降ると…」という歌は、万葉集や中世の和歌にも、また謡の歌詞にも、山のようにある。その「花の袖」が美しいなど。
 
 「袖を振る」というと、いわゆる「別れを惜しむ」とか「舞う」というイメージも込められている。
 天女さまがやってきて、「さぁ、夢から覚める時間ですね。私はまた天に帰ります」などと言って、私たちに背を向けて、天に飛び立つ。離陸するわけで、「袖の下」に浮力をためて、袖を翻す。
 その姿を装束として、人々は綿々と描いていった。その歴史を思う。

 このイタリアのブランドのブラウスは、70年代に一世を風靡したアイドル歌手なども顧客とのことですが、さすがです。そりゃ、彼女たちは「歌姫」ですから、「当然の成り行き(たどり着くべき場所)」だったのでしょう。

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2007年3月20日 (火)

十一面悔過

  修二会は、十一面観音に対して、悔い改めをする「十一面観音悔過」の行法。 悔い改めて、浄めることができたとき、春が来る。旧暦の2月1日から14日に行われていたのを、今の新暦の3月1日から14日の14日間で行われるようになったそうです。奈良に住んでいたころは、本当にお水取りが終わると急に暖かくなって春になる。奈良の春はお水取りに仕組まれたように訪れる。
 印象的な儀式は、だいたいの人がいうのは「走りの行法」、「達陀(だったん)」そして「五体投地」と「沓の音」。
 「二月堂縁起」というものがある。そこには、実忠が、あの世「兜卒天」で、菩薩たちが十一面観音の行法をしているのを見たと書かれている。そこで、この行法をこの世でもやりたい、と菩薩たちに言うと「それは、無理。だって兜卒天の一日は、あなたたちの世界の四百年に当たるから。一日の行法を人間がやろうとすると四百年かかるでしょ」とのこと。それで、実忠は、「だったら、がんばってめちゃくちゃ早いスピードで行法をやる」と言った。
 それで、十一面観音の周りを、この行法の間、ひたすら、時計回りにぐるぐるまわっている。特に「走りの行法」は、はじめは人間がぐるぐる回っているのが、だんだん早くなってきて、沓を脱いで、音もなく、ぐるぐると回り出す。この連行衆(行法に参加している僧)は、人間の歩く速度から走る速度へと、そして光の速度へと達し、連行衆自身が光そのものになっていくような光景を表現しているようにみえる。
 何回行ったか、それを、うやむやにするには、数える「節」をなくすこと。つまり、円周を光の速度で周り、無限回数を表現する。
 さらに、兜卒天の菩薩たちは、実忠に言った。「それに、本当の『生身』の観音さまに悔過しているのであって、あなたたちみたいに、『像』に悔過しているんじゃないから。『生身』の観音さまは、あなたたちの世界にはいないでしょ。」
 それで、実忠は、難波の海岸に行って、一心に祈り…というお話だが、要するに「生身」。生身の人間を観音にしたと、ふと思う。
 12日の「お水取り」のとき、実際には、すべての灯を消して、連行衆たちが、「御幣」をかかげて、二月堂の下にある「閼伽の井」まで行って、水を汲む。最初「御幣」だと気づかなかったとき、本当に白い衣を来た観音さまが台座に載せられて来たと思った、つまり、誰かがそういう衣を来て、演技をしているのかと思った。「御幣」は、今では神事のときの「神様が乗っているもの」という象徴。
 あ、昔、巫女が、この水を浄め、それを取るために、ずっと幽閉されて別火をとっていたんだなあ、と思った。ネパールの生き神信仰「クマリ」、日本の斎宮などが、頭をかすめた。
 実際に、今でも閼伽の井から水を汲むとき、連行衆は、閼伽の井に背を向けて、閼伽の井と二月堂の間にある小さな社でぶつぶとお経を唱えながら、器に入れた棒をコネコネまわしている(コネを使う。ゴマをするとはここから来たのか、と思ったぐらい)。連行衆たちは、神を見ることをはばかっているように。
 上賀茂神社でも、京都の川の源流に、水を浄めるため、巫女が住む斎宮がある。そういう考え方の原点のようなものにも思えた。実際、お水取りの儀式は、沖縄のイサホーとの類似を語る人も少なくない。
 「達陀(だったん)」は、連行衆たちが、突然消防団のような恰好をして、法螺貝の「プープッ、プープッ」っていうリズムに合わせて、前後にステップを踏むとっても楽しいところ。八天の菩薩たちが登場して、その水天と火天が向かい合って、水と火の対決と出会いを表現しているというが…これも、見る限り、水銀と金を溶かした「アマルアガム」を入れた容器を大仏にかけ、それを松明で火をかざして水銀を蒸発させている労働風景の記憶に私には、見えてくる。
 お水取りの劇的な音とパフォーマンスは、音楽劇の原点とも言える。すべてのパフォーマンス(身体的動作)に音が伴う。すでに芭蕉がこの修二会をみて「水取りや籠りの僧の沓の音」と言っているように、連行衆の「沓の音」は、お水取りの最も印象的な音。また、走りの行法のように、無音あり、また曲から曲への間合い、展開と、音の構成は、実に絶妙。そして、アクセントになるのが「五体投地」、少し、床から隙間のあるシーソーみたいになった板に、ジャンンプして膝からニードロップ。「バコーン」と落ちる。この痛そうなパフォーマンスと、その音が印象的。
 こういうのを見ていると、すでに8世紀に音楽劇の頂点はあったのだと思ってしまう。それを、何百年もかけて、さまざま思いでやってきた(参籠衆)が、どんな思いで見ようとも、満足できるものを作りあげたんだと。実忠がその始めかもしれないが、その行法を、名もなき伝承する人々(連行衆)によって、完成させてゆき、1256年も伝統的行事として続けてきた。この行法を伝えてゆきたい、形骸化させたくないと思ったのでしょうね。

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2007年3月17日 (土)

東大寺 修二会「お水取り」

 3月12,13,14日と専門学校の「卒業旅行」ということで、東大寺二月堂の「修二会」、一般に「お水取り」と言われる儀式を見に行った。
 いや〜、今年の冬で一番寒い思いをした。もと奈良県民として、奈良がどれほど寒いか知っていたにもかかわらず、つい東京、大阪が暖かいと油断してしまう。そして、さらに12日は全国的にも寒かったんですよね。奈良の桜井市では、雪が降っていたそうです。「奈良の寒さ忘れるべからず」
 このごろの「お水取りブーム」はすごく、5万人とか来るらしい。
 水と火。こんなことして火事にならないのかというほど、松明を燃やす。二月堂の中で、最後にぐるぐると松明を引きずってまわる。火が地を浄めるという春日若宮おん祭りのお旅所へ若宮を連れていくのと同じ考え方。
 大仏を造営するにあたって、大量の水銀を使って金メッキ(金箔を大仏に貼る)した。その水銀公害の対策として、地中に流れ込んだ水銀を井戸水の中に流れ込ませないようにするには、水銀の水分を蒸発させようと考えたのでしょうか?
 とにかく、「若狭の井戸」という水銀の届かない深く深く掘った井戸水を発見したのですね。これは想像ですが。
 誰がここに井戸を掘れと言った?修二会を始めたのは、実忠と言われていますが…。
 二月堂の本尊は十一面観音です。そのすぐ南となりの三月堂の不空羂索観音は、凄まじく宝石を身にまとった光明皇后のような観音です。さらにその南となりには、手向山八幡宮があり、みなさん女神。
 特に、手向山八幡は、当時(749年)、九州豊前国(大分県)から、禰宜尼杜女(ねぎにもりめ)を呼び、大仏建立の成功を祈ってもらい、大仏殿の手前にある鏡池に手向山八幡宮をおいたそうです。
 「禰宜尼杜女(ねぎにもりめ)」。禰宜は、神職。尼は、女性仏教僧。杜は土地神、大地の神、それを祀るやしろ。杜女だと、土地の女神。
 734年前に 三月堂は建立されていて、
 743年 聖武天皇大仏造立の詔を発する。
 747年 大仏の鋳造開始
 749年 大仏の鋳造終了
     宇佐八幡宮から禰宜尼杜女を迎え、宇佐八幡を東大寺守護の神として迎え入れる。
 751年  修二会(お水取り)が始まる。
 752年  大仏開眼供養が行われる。
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2007年3月 4日 (日)

六道講式集中講座

<内容>
 「往生要集」を著した源信(942-1017)は、仏教の大衆化のために、六道の物語を書きました。その物語を語る法要を作り、「六道講式」、正式名は「二十五三昧式」と呼ばれました。
 六道とは、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天という六つの世界を著します。「魂」というものは、その六道を「輪廻(何度も永久に生まれ変わる)」するのだと。今は人間としての魂を持っているが、生まれ変わって動物や、餓鬼の魂になると、その世界での苦しみが待っているのだと。
 源信は、だから、そのことを悟って輪廻の輪から抜け出そうと言います。
 源信の功績は、人々に、わかってもらうために、「梵網経」をはじめとする経典をもとに、彼の日本語によって、「語り」の文章で、それを著し、それに節をつけて、仏教の教えを聞きに来た一般の人々に向けて語ったということです。中国語そのままの経典を棒読みしても、誰もわからないと思ったからです。
 その「日本語の語り」を「講式」と言います。そして、この「講式」のスタイルが、日本のお坊さんの「お説法」につながってゆきます。
 このワークショップでは、本来なら、習得に何年もかかるものを、8回に分けて、読んで、実際に声にだして、「節」をつけていく実習をします。
 また、希望者は、講習の終了したあとに、実際に「六道講式」が行われている、比叡山横川の元山大師堂で、聴聞しようという企画です。