2006年11月18日 (土)

島の千歳

いや〜、これが聴けたとは、白拍子冥利につきます。「島の千歳」の名は、平家物語の巻第一の「祇王」に出て来ていて「鳥羽(1107~1123)のころに「しまのせんざい、わかのまひ」という二人が舞い出したのが白拍子の始まり、と書かれています。長唄の「島の千歳」の作詞は大月如電、作曲は付杵屋勘五郎で明治38(1905)年の作品。囃子(伴奏楽器)は、小鼓一つ。何代目か、知りませんが、当時の望月太左衛門の襲名披露のときの書き下ろしだそうです。最初は、「白拍子とはこういう人」という唄ではじまる。それから、本曲にはいる。実に、微妙。小鼓のリズムに三味線の音程が付いている、という発想をもった曲で始まるのですが、時々は小鼓のみ、三味線のみになる。後半になると三味線の手に小鼓が合わせるという、小鼓方にとっての超絶技巧が入る。どちらがリードするかは、どちらが「ヨォー」「ヨーィ」のかけ声のかけるかで決めてゆき、そのうちに「ヨーォ(小鼓)」「ハッ(三味線)」とかけ声の取り合いみたいなところもあって、実にビミョーだ、すばらしい。歌詞は、やっぱり「水猿曲(みずのえんきょく)」まったく同じ歌詞だった。やはり、有名なんだ、この歌は。白拍子の代表曲であることは、歴史的に日本人の認めるところなのだろう。「水のすぐれておぼゆるは 西天竺の白露池 尽澄許融に澄み渡る 昆明池の水の色 行く末久しく澄むとかや 賢人の釣りを垂れしは 嚴陵瀬の河の水」ここでブレイクして、インスト(三味線と小鼓のみの演奏)になる。そして後半「月影ながら洩るなるは 山田の筧の水とかや 葦の下葉を閉ずるは 三島入江の氷水 春立つ空の若水は」ここで再びインスト。ここで引っ張る、引っ張る。小鼓は、水がトクトクと流れるような打ち方をしたりして、そして最後「汲むとも汲むとも 尽きもせじ、 尽きもせじ」で終わる。
ん〜、うまくできているではないか。どうしてこれが、名曲じゃないことがあろうか!
長唄の「島の千歳」と白拍子「水猿曲(みずのえんきょく)」でジョイントしたいなぁ。

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2006年11月12日 (日)

風鈴屋

「風鈴売り」でした。「ちりちりと音だけで売る風鈴屋」と言われたそうです。
今日は、風が強くて、風鈴じゃないんでしょうが、「風鈴」のようなものが鳴っています。
その他、強烈な「物買い」「物拾い」5連発。
「灰屋」ごはんを薪で炊くと灰がでるでしょ、それを買いに来るるそうです。それを染め物の灰汁抜き、畑の肥料、濁った酒を澄ませるための殺菌剤として売るそうです。
「薪売り」薪は房州(千葉)から船で江戸に来る。それと共に、帰りの船に、江戸の生ゴミを積んで、房州の埋め立てに使うため、「生ゴミ」を集める。
風呂屋の薪木がなくなると、丁稚どんは、川筋で流れ木を拾う。それもなくなると、道に落ちている「燃えるもの」は何でも拾ってくる。だから江戸には200年間、風呂屋の料金(大人6文、子ども4文)は、上がらなかったそうです。
「ろうそくの流れ買い」流れたろうそくを丸めておくと、それを買ってくれるそうです。それで、またろうそくを作る。
「落ちゃない屋」梳いた髪を丸めておくと、それを買ってくれる。それでカツラを作るそうです。
なんでもビジネスになるんだぁ。

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2006年11月 2日 (木)

諸聖人の日の声明的生活

11月1日
NHKのラジオ・スペイン語講座では、
Vamaos al cemeterio?(お墓参りに行きましょうか?)
Hoy es el dia de Todos los Snatos.(今日は諸聖人の日です)
という文章があったそうです。諸聖人の日は11月1日。
これは、母の命日でもあります。今年の夏に献体をしていた母の遺骨が戻ってきました。
それで、「11月1日に献体した遺族に感謝状を渡すので、神戸にいらっしゃい」と神戸医大から連絡があったので、その人の命日に感謝状を渡すのかと思い、兄と私はそれを口実に、諸聖人の前日、つまり10月31日、ハロウィンの日に神戸の中華街で大いに盛り上がる計画を立てました。いや、実際、地元民は中華街などには行かず、それぞれの知っている「神戸のうまい中華屋」に行くのです。
 11月1日、神戸の「祥福寺」というお寺に行くと、11月1日は、「平成18年度神戸医大解剖学慰霊祭」というこで、今年の10月までの1年間に献体をして遺骨の帰ってきた遺族に対しての感謝状授与と、病理解剖、法医学解剖など、病院、県警を含めた関係者の参列する大法要が行われる日だったのでした。
参列者はざっと、500名以上。
そりゃ、がんばる祥福寺のお坊さん。
ここは、臨済宗、妙心寺派のお寺で、法要の参衆(参加したお坊さん)は、12名。それに導師(どうし)。
こんなに声の出る臨済宗のお坊さんがそろっているお寺は、今まで聴いたことがない。それも全員、暗譜!(暗唱というのか)
法要の壇も、豪華絢爛。
最初の梵語のお経は、奈良の薬師寺の花会式(はなえしき)のように、それぞれが全く違う音の高さをずっと保ちながら、唱える。へぇ、薬師寺以外にもこういうお経を唱えるところがあったんですね。知りませんんでした。
ところが、別のお経になると、同じ音の高さで、一斉に唱える。なかな音楽のもっていきかたもうまい。
そして、さらに「懺法太鼓(せんぼうだいこ)」登場!「懺法太鼓」は「御懺法講(おせんぼうこう)」の時に使われると聞いていましたが、このような施食法要(せじきほうよう)でも使われるとは知りませんでした。
今までは、ハチ(漢字が出なかった、はち=シンバルみたいな楽器)と繞(にょう=ゴングみたいな楽器)が一組になって、叩かれるのを聞いたことがあったのですが、懺法太鼓はハチと一組になって叩かれることも判明。懺法太鼓の役割は、ほとんど繞と同じ。叩きかたも、おもしろいですね。
臨済宗と言わず、禅宗に関しては無知なのですが、お経は「観音経」のようで、これを行道(あるきながら)で唱えていました。
いやぁ、いい声のお坊さんがいました。こんなことを書くこと自体、ほとんど「21世紀の清少納言」状態ですが、ほんとうに善い声で、身体全体が鳴り響いているようなすごい人がいて、その「身体全体の振動」が「音のオーラ」みたいなんですね。
おそらくですが、ここのお寺の勤行(おつとめ)で、指導者の方は、「お経は思いっきり大きい声で唱えろ」と言われているのではないでしょうか?みなさん、そういうたいへん真摯で清々しい読経でした。
それから、毎朝、座禅をされていらっしゃるのは、もう表情でわかるわけで、まるで仏像が歩いているようでした。仏像の表情とは、禅定の表情ですから。
500人の前でコンサートなどする経験のない私は、彼らのパフォーマンスに圧倒。もちろんマイクなし。
ありがたい法要でした。祥福寺の坊さん、今日は、ありがとう。
とてもいいコンサート、ではなく「いい法要」でした。

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2006年10月26日 (木)

<白拍子の起源>…三つの文献より

10月28日(土)に行う清澄庭園での公演のプログラムを書こうと思ったら、どんどん深みにはまって、まずは「白拍子の起源」から、書き始めてしまいました。辛抱強く、忍耐のある方、よかったら読んで下さいませ。

◆『徒然草』225段
 多久資が申しけるは、通憲入道、舞に手の中に、興味ある手どもを選びて、磯禅師といういひける女に教へて舞はせり。白き水干に鞘巻をささせ、烏帽子を引き入れたりければ、男舞とぞいひける。禅師が娘、静といひける、この芸を継ぎけり。これ、白拍子の根元なり。仏神の本縁を歌ふ。其後、源光行、多く本を作れり。後鳥羽院の御作もあり、亀菊に教えさせ給ひけるとぞ。
[訳]多久資(おおのひさすけ)がおっしゃるところによると、藤原通憲(ふじわらのみちのり 1106〜1159)(1)が舞の手の中に、おもしろそうなものだけを選んで、磯禅師(いそのぜんじ)という女に教えて舞わせたのが始まりとか(2)。白い水干(すいかん=公卿の私服、元服前の少年の晴れ着)に、鞘巻(さやまき=人を斬る長い太刀(たち)に添えて挿した鍔(つば)のない短刀。)をささせ、烏帽子(えぼし=貴族が私邸内でかぶった帽子。黒色の紗絹(さけん=薄い絹)で作る)をかぶった姿から、「男舞」と言われる。磯禅師の娘を、静(しずか)という。静は、この芸を引き継いだ。これをもって、白拍子の起源とする。仏や神のちなんだ歌を歌う(3)。その後、源光行(みなもとのみつゆき、1163〜1244)(4)が多く白拍子の歌を作った。後鳥羽院(1180〜1239)(5)の作もある。それを亀菊(かめぎく)(6)という白拍子に教えてさせたと言われている。
[注釈]
(1)藤原通憲…出家して信西(しんぜい)と名乗った。後白河院と結んで一時権勢を極めたが、平治の乱(1159)で追いつめられ、結局自殺してしまう。
(2)藤原通憲は、当時の音楽界の中で、博学あり、奏者としても達人であったと言われている。彼が、朝廷から内教坊(女性の雅楽部門)が廃絶されて、女性の宮廷音楽家が消えてゆくころ、その技術を持った女性音楽家であり、舞踊家である彼女たちを、保護していた、という状況が、「女性の音楽・舞踊家に朝廷の楽部の舞っている舞楽を教えた」という言い方になったのではないか?
(3)朝廷の儀礼音楽のなごりではないか?神、仏に五穀豊穣、天下、万民安穏の祈願するのは、当時は政務であったため。
(4)源光行…鎌倉初期の学者。歌人で多くの和歌を詠んでいる。源氏物語の研究者としても有名で、源氏物語の河内本を校勘(訂正、検討)する。承久の変に連座(処罰を受ける)。白拍子の歌の歌詞の作詞者として知られている。
(5)後鳥羽院…新古今和歌集の編纂を命じた。白拍子の歌も作る。
(6)亀菊…後鳥羽院が寵愛した京都の白拍子。後鳥羽院が亀菊に所領を与えようとして、幕府の地頭(荘園管理の荘官)を停止、すなわち排除しようとしたことが、幕府との対立を起こし、承久の変の一因につながったと言われている。

◆ 「平家物語」巻一『祇王』
白拍子のはじまりける事は、むかし鳥羽院の御宇に、島の千歳・若の前とて、これら二人が舞ひだしたりけるなり。
[訳]白拍子の始まりは、そのむかし、鳥羽院(1107〜1123)の思いもあって、島の千歳、若の前という二人に、舞をさせことが始まりである。

◆『塵添土蓋嚢鈔(じんてんあいのうしょう)』(1)巻二
 白拍子ハ鳥羽院ノ御時ヨリ出来ス。
 [訳]白拍子は、鳥羽院の作から始まったものである。

 [注釈]
 (1)室町時代に成立した辞典

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2006年10月22日 (日)

丹生川上神社 中社 その2

10月9日(月)
丹生の川が見つかったところが、丹生川上神社の中社。ここは「吉野郡吉野村」というところで、丹生の川の場所を教えてくれた自転車屋のおじさんも「吉野の村人」です。おじさんは、丹生の川の見つけ方として、「この道をまっすぐ行くやろ、そしたら、右に車でも上がってゆけるアスファルトの道がある。その反対川の崖を下って川に降りていったところや。」つまり、ある山の頂上に村人たちの祖先の墓があり、その下に丹生があるという。いろんなことが想える。ここは神の降臨する山。そこの丹生は誰にも取らせない。だって、他の山のように、穴がぼこぼこ空いて、山の中まで掘っていくわけですから。それをさせまいと、自らの祖先を埋めることによって、この山の丹生を封印している。おそらく、最大の鉱石量になるであろう山だと、思ったのかも。
話は、いきなり北アメリカのネイティヴ・アメリカンのホピ族に飛んでしまいすが、ホピ族たちが「我々の聖山」としていた山に、大量のウラン鉱が発見されて、その採掘鉱によって広島の原爆が作られたのは、とても有名な話ですね。そのことを思い出させます。ホピの人々は彼らの祖先から「この山には絶対に触れてはならない」と言われていたのに、当時のアメリカ政府の政策で、採掘作業に携わったのは、ホピとナバホの人々。彼らの多くは、その後、放射線の後遺症を持つようになった。
私がナバホの小学校で、「あなたのお兄さんはどこにいるの?」と小学生に質問されて、「ヒロシマ」」と答えると、「ヒロシマってどこにあるの?」と聞かれ、「えっ、ヒロシマを知らないの?」と、聞き返してしまった。彼らは「ヒロシマ」について何ひとつ知らなかった。そのすばらしい情報操作にあっけにとられたことがあったっけ。
 さてさて、その墓に行くアスファルトの道の反対の崖を、ズズズッと降りていくと、上から滴り落ちる「若水」に溶けて、丹生が崖の岩肌から溶けて、にじみ出ているのを見つけた。
 「若水(わかみず)」…白拍子をやっているにもかかわらず、恥ずかしならがら、実感を持ったことがなかった。
 しかし、「これが若水か」という光景だった。崖に苔がはえ、そこから、山自身が含んでいた水が、しずくとなって、豊富な水滴を絶えず滴り落としている。その光景は、緑の苔から生まれ、陽の光に照らされた、美しく、神聖な水、神の手に近い水。巫女ならば、これに感動しなくて、何に感動します?その若水の滴り落ちた岩肌から赤い土がにじみ出しているのでした。
 巫女は、「若水」を見つけ、それと同時にどこに鉱石脈があるのかを知ったのでしょう。巫女は、コミュニティ(村人たち)にとって重要な情報源の提供者だったはずです。
 確かにこの吉野川の水の色は、緑と青の混ざったような色をして流れてが、ときどき、黄色や茶褐色によどんでいるのを所々に見かける。そこから、なにがしかの鉱物が川に流れ込んでいるのでしょう。
 そして「若水」のそばには、鹿の足跡が。つまり、鹿や獣たちは、もちろん、どこに「吉野のおいしい水」があるかは、知っている。
 奈良の春日大社にやって来た神は、白い鹿に乗ってきたんですよね。
 彼らは同じものを求めるもの同士だった。
 この、「丹生」を指で触ると、固まっていない粘土のような「丹砂」で、指に茶褐色に色を付ける。この感触は、皮膚から落ちる「垢(あか)」のようだ。
 そう、つまり、「丹」でなぜ「あか」と読む?「丹(タン)」は水銀の砂「丶」とそれを掘った穴の形「井」っから成っている。
 それに「あか」とつけたのは、「垢」と同じ感触だったから?
 能「井筒」に出てくる女の人が「暁ごとの閼伽の水」と言って、朝一番に汲む水、「仏さんにお供えするあかみず」もそうですが、まだ人の膚から垢が出て、さわっていない状態、「人の手に汚されていない水」を「あかみず」と言うのは、そういう感性から生まれたことばなのでしょうか?
 「丹生(にう)」とは、山の神の体(ご神体)の「垢の生まれるところ」なわけです。それを知っているのが巫女なわけです。その道案内をするのが鹿なのですね。
 ちなみに丹生川上神社 中社の祭神は「罔象女神(みずはのめのかみ)」。つまり水を司る女神、という意味です。

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