2007年5月 6日 (日)

今井町 その2

町の入り口の門の東西には、庚申塚(こうしんづか)が立っている。外敵から町を護る塚。これは、奈良市の近鉄奈良駅前の元興寺の参道の商店街もそうですね。
大阪の泉州だとこれが地蔵になる。
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2007年4月11日 (水)

熊野古道と南朝

熊野古道を歩いて、本当にこんな道を「天皇」が歩いたのだろうか?と思った。足の踏み場もない、崖の下り坂、登り坂、何度も滑るこの坂を、「天皇」という「非弱なイメージを持つ人」が本当に歩いたのか?という疑問がつきまとう。近露王子から牛馬童子像まで、寝不王子から滝尻王子まで。その他にも、熊野古道を歩いた人は口々に、この道の「思いもよらぬ難所」を語る。
 世には「熊野古道を歩こう」「世界遺産熊野古道を歩く」など、その手の本が出回っていて、さぞかし、熊野古道のハイキングコースは、観光客でにぎわっているのかと思いきや、桜満開のこの季節でも、この道は静かだ。
 と同時に、「徳川家康」のことを思い出した。彼は、江戸幕府を開いたが、戦国時代の武将でもある。彼は本当に武将として強かった。幕府を開いた後も、何度も大々的な鷹狩りをしている。つまり、動物を殺す、「殺戮」の感性を決して忘れようとはしなかった。
 戦国の武将たちは、「本当に強い男」に敬服する。この男なら命を預けられる、という「命の銀行」「命の預け先」を探したと言う。まさに実力社会の時代。
 そのはじまりは鎌倉時代だ。男として、憧れる男、敬意を抱く強い男、「武士」が弾頭した。当時、社会は「教養」よりも「力」にあこがれ、そこに崇高さ、美学を求めた。
 それに「当時の天皇」が気づいたのだ。平安後期の花山上皇(968-1008),白河上皇(1053-1129)に始まり、鳥羽上皇(1103-1156)21回、後白河上皇(1127-1192)34回、後鳥羽上皇(1180-1239)28回と、熊野古道を歩いている。
 天皇は、時代に遅れまいと一生懸命、「強い男」を目指していたのだろうか?

 最多記録の後白河。彼こそ、幼少のころから、「今様」に狂い、「天皇のくせに今様(最新のポップソング)にうつつをぬかして、情けない」と公家社会から言われた男だ。さらに「今様のオリジナルバージョン(古流)」を知る乙前(おとまえ)という遊女を師匠として敬愛した。
 「今様」を歌い舞う白拍子。男装をし「女なのに男みたいで、かっこいい」と武士たちから絶大な支持を得たアイドル、そして彼らの武運を守護する新しいタイプの巫女。もちろん、熊野詣(もうで)に精を出したような平安末期、鎌倉初期の上皇たちも、流行に遅れまじと白拍子を召し抱えた。白拍子たちは、戦場、殺戮の場にも同行し、「従軍慰安婦」として、さらには、怨霊になることを怖れて、敵の首長の処刑の前夜に、「絶頂の夜」を与えるための「従軍慰安婦」として活躍した。
 一夜妻の潔さ。そんな美徳があったのだろうか?新宮の青年たちが話していた「村一番の娘」、古事記のころから記事として目にする「マレビト(外来者)を受け入れる巫女」そんな女性たちの記憶が熊野にある。
 そして、熊野の山に奥深く潜む逃散の人々、路地に住む人々。
 上皇と逃散の人々、「貴と賤」という構造。熊野古道を歩いて、体力の限界で見た目眩の構図だ。

 実際、彼らは「天皇」を譲り、「上皇」となった。または「院」とよばれ院政をしいた。「院」、つまり、宗教者だ。「天皇」では、通用しなくなった世に、さらにカリスマを得ようと、「院」を名乗ったのか?あまりに不用意な発言かもしれないが。
 しかし、彼らは、宗教というカリスマにすがった。そのカリスマ宗教が「天台宗」だったのだろう。
 時代が下って、後醍醐天皇の息子、護良(もりよし)親王(1308-1335)が、挙兵をしたとき、熊野の中辺路近露王子の豪族たちが、彼に従った。いわゆる「建武の新政」の始まり。そこには逃散の人々も加わったのだろう。護良親王は天台座主(天台宗の最高位)になっている。平安後期からの先人の上皇たちの熊野詣の歴史が、護良親王の挙兵を快く受け入れる下地を作っていたことだろう。天皇が権力を得ようとした最後の時代。
 健全な社会人、税金を納めていた一般庶民にとって、安全の保障先は無論、幕府だった。
 その新興権力に背き、「カリスマ」に忠義を尽くす人々は、「納税と安全保障」とは関係のない「アンタッチャブル」、つまり「逃散(非課税者)」だった。それが「南朝」と「熊野」だったのだろう。
 そんな「力」を失いつつあった南朝が、熊野の人々に求めたものこそ「力」だった。それも「悪」という力だ。「悪」とは、純粋な「力」そのもの。社会を逸脱した、一般社会では受け入れられない、または認められない「力」だ。それは「怪力」であったり、「暴力」だったりする。
 
 子どものころ、春の吉野千本桜を見に連れられて行った。そこに行けば、京都に向かって、つまり「北面」の後醍醐天皇の墓碑に出会う。個人蔵の日本最古の日章旗を見た。そこまで行けば、ついでに十津川にも足が届く。その旅路を常に黒い装甲車が付いてきたのが、なにげに恐怖の記憶として残っている。特に、十津川では、天誅組の、「ここで誰それが、斬り殺された」「ここで、誰それが殺された」という墓標のひとつひとつに、想いをこめて立ち止まっていた人たちの光景を思い出す。
 
 不思議な日本の歴史だ。しかし、「てんのーへーか、ばんざーい!」と叫ぶ日本の人々の血がここにある。
 再び新宮の青年たちのことばを思い起こすなら、「今の天皇は北朝なんだよ」。つまり熊野の人々の敬愛する天皇は、アンタッチャブルに慈悲を注いだマッチョな南朝なのだ。北朝ではない。
 そんな、北朝の皇族、現在の浩宮(ひろのみや)皇太子が、1992年、771年ぶりに、高原熊野神社を訪れたという。
 登山好きで、マッチョな太ももを持った徳仁(なるひと)親王(浩宮皇太子)。偶然とはいえ、彼は、消え去った遥かな南朝から、久々の熊野御幸をした皇族として記憶された。
 
 「南朝は消え去った」とはいうものの、日本人の心には絶大なる天皇崇拝があることを改めて思う。特に熊野詣をした上皇の「カリスマ」。その「カリスマ」は、日本人の中で、綿々として北朝の現天皇家にも注がれている。
 
 特に、第二次世界大戦後、実権を剥奪され、「国の象徴」と言われ、さんざん福祉関係の施設の訪問をする現在の天皇家の人々には、かえって南朝がもっていた、「一般社会の弱者を愛する天皇」というイメージが重なる。「福祉活動に熱心な天皇家」というイメージ。これは、「建武の新政」当時の上皇たちから学んだ姿なのだろうか?

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