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2020年4月11日 (土)

声明とグレゴリオ聖歌「ダビデの声明・如来のイムヌス」より

 「声明とグレゴリオ聖歌」共に、聖なる言葉の書かれた本から節をつけています。
 「声明」という意味は、もともと僧侶になるための「五明(五つの学問分野を明らかに理解する)」の中の一つです。
 声明…言語、文法、文学
 因明…論理、哲学
 内明…宗派・学派別の教理・教義学
 医明…医学
 工巧明…建築・工学
 現代的に言えば、文学部、哲学部、宗教学部(あるいは法学とも)、医学部、工学部の五つの学部を修了して初めて僧侶になれるということです。
 話は逸れましたが、つまり「声明」というのは音楽ではないのです。日本の僧侶なら、経典の原文である中国語の文法を理解し、中国語に堪能になり正しい発音を学ぶ。さらに中国語経典の元であるサンスクリット語、これを中国漢字表記された梵語に精通していなければならない。僧侶たちは文字からサンスクリットの原典の響を求めたことでしょう。聖なることばを発すれば、そこに美しい響きが現れる。「如来唄」「中唄」であれば、五言に整えられた韻律の響きに、僧侶たちは宗教的感動を覚えたことでしょう。
 ここで多くは語らないことにしますが、響きが発せられたとき、人は時の流れ(時間)と世界観(空間)に改めて気づきます。その時間と空間、「聖なる世界」(鎌倉仏教は一般の人々にわかりやすいように「浄土の世界」と説いた)を、今ここに実現させること。それを宗教儀礼と名付け、宗教者たちは、その時空を何度も実現させようとする。彼らの宗教活動の始まりだったでしょう。
 その響きの実現が音楽と言われるかもしれません。その宗教儀礼がパフォーマンスと言われるかもしれません。それは後付けであったでしょうが、総じて「芸術活動」の根源を築いてくれました。
 甥の櫻井元希も叔母の桜井真樹子も、音楽家として歩み始めたが、その道の始まった最初、音楽の扉の開かれた、その「扉」を探しているのかもしれません。
 現代における「音楽」が、決して純粋な実態として成立していないと感じるとき、「本来、音楽はなぜ人(わたし)を感動させるのか?」というテーマの旅行を、桜井家は続けてゆけたらと思います。

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