« 2015年4月 | トップページ | 2015年10月 »

2015年8月26日 (水)

イラク戦争(第二次湾岸戦争)時代

2003年4月に、ニューヨーク・シティのロックフェラー・センターの通りは、アメリカ合衆国の旗、一色に染められた。それまでの五番街、六番街の間の、その通りは、「世界平和」を謳うがごとく、各国の旗が掲げられていた。アパート、マンション、一軒家の住居のベランダや庭先に、アメリカ合衆国の旗が掲げられていれば、それは、その家族の誰かがイラクに出兵していることを意味していた。その家族に「イラク戦争反対」などというアメリカ一国民としての感想を述べようものなら、「では、うちの息子はイラクへ意味もなく、命を晒しに行ったのか!」と、激怒をくらう、という市民同士のいざこざの構図が予想されることとなった。だから、人々は、口をつぐんだ。「国家が決議したアメリカ軍のイラク出兵は、間違っている」とは言ってはいけない、と。日本からアメリカに着いて、突如、自由という空気が、ニューヨークから消えたのを肌で感じた。「私たちは口をつぐんでいるんだ」と、日本人の私にこっそり教えてくれた人々が何人かいた。「だから、あなたも…」というアドバイスでもある。イラク戦争が2003年3月に始まって一ヶ月後のころだ。  
 1995年3月、東京で地下鉄サリン事件があった。オウム真理教という新興宗教団体が無差別テロを行った。この事件以来、宗教的な要素をもった芸術は、すべて避難の目に晒された。と、言って、それに同意してくれる日本人が、今、いるだろうか?すべての人は忘れてしまった。声明の研鑽を積んで、日本の最も古い歌唱法から、音楽を表現していこうと、作曲、ライブ活動をしていた私は、オウム真理教と、なんら変わらぬ意識をもった人間として、音楽活動の領域(アート・シーン)、さらには、その領域を越えて、ありとあらゆる人々から、忌み嫌われた。当時、ヨガ教室、瞑想教室、占星術、療法的芸術(絵画、舞踊)、インド音楽などに携わっていた人たちなら、この「弾圧の日々」を記憶していらっしゃるかもしれない。  
 1993年4月、Jリーグ(日本プロサッカーリーグ)は立ち上げられ、5月にリーグ戦が開幕した。それまで、プロ・スポーツとして人々に知られてい たのはプロ野球だったであろう。プロ野球のチームのホームグランド以外の地域に、Jリーグのホームグランドを作られ、国民の「熱狂」は徐々にJリーグにシフトしていった。
  1997年11月、ワールド・カップ本戦を決める試合が、イラン代表チームを相手に行われた。延長戦の後、劇的なゴールが決まり、日本代表チームが本戦初出場を決めた。16日、日曜日の深夜、その試合はマレーシアから衛星放送され、フジテレビの平均視聴率は47,9%だった。埼玉県川口市の深夜のアパートの窓は、どこも明かりが消えず、シュートを決めようとするたびに、夜空に歓声が湧いていた。「これで国民の熱狂が、宗教批判からサッカーに完全にシフトした」と、私の心は、深夜のベランダに立ちながら確信した。心底ほっとしたことを今でも忘れない。事実、その直後から、演奏依頼が三年ぶりに来た。私の記憶はさらに明確に留められた。  
 2003年、「イラク戦争への注意事項」のアドバイスを受けつつ、ニューヨーク・シティのライブを見に行った。以前から、ニューヨーク・シティ(別称マンハッタン)は、アーティストが住めるような家賃ではなくなっていた。特にダウンタウンのソーホーは、スタジオ兼住居として芸術家が多く住んでいたが、すでにそのころは、アーティステイックな空気のゆかりを、戦略的に掴み、まことにセレブリティなブランド店が軒を揃える街へと変貌を遂げていた。個人経営的ライブハウスは、かなりなくなっていたにも関わらず、それでもライブハウスを構える「ライブハウス」でフリー・ジャズを聴きに行くと、そこでは、ミュージシャンたちが、イラク戦争以前と、何ら変わりのない「音」を響かせていた。こいつらは「クソか!」と思った。もっとも空気に鋭敏であるはずの経済的、社会的弱者であるアーティストが「アメリカはイラン戦争以前と何も変わっていない」と、表現しているのだ。きっと彼らは、経済的、または社会的に弱者ではないのであろう。
 別の日に、チャイナタウンにある、フィル・ニブロック(Phil Niblock)が長年経営しているExperimental Intermedia Music(EIM)というライブハウスに行った。そこには若手のコンピューター・ミュージックと映像の作家が二人で、作品を発表していた。2001年のアメリカ同時多発テロでワールドトレードセンターが炎上し崩壊する映像、ブッシュ前大統領の映像、アメリカ軍の一兵卒の映像が、繰り返し、映し出される。観客は五人。その中に前の木の長椅子に両肘を置いてニコニコしている老人がいた。彼はラ・モンテ・ヤング(La Monte Young)ではないか?目を疑ったが彼だ。この静かに微笑む老人の存在は、自由の表現の仁王門、弱小アートティストの前に立つ金剛力士だった。
 帰国して、ニューヨーク・シティの小学校に通っていた友人から、当時、その小学校のPTA会長をしていたパティ・スミスから、全卒業生宛てに手紙が送られ、「我が小学校は、今回のブッシュ大統領によって宣戦布告したイラク戦争に反対する」と書かれていた、と言った。あの空気の中で、このメッセージをより多くの人に読んでもらおうと思ったパティ・スミスの揺るぎない正義に心が震えた。彼女は2003年のアルバムでRadio Baghdadを歌う。  
 1620年メイフラワー号に乗って、アメリカ大陸に上陸した清教徒、ピューリタンを先祖に持つ家庭がニューヨーク・シティの北部のマンションに住んでいた。彼らはインテリ階層で、その系図を額に入れてリビングに飾っていた。彼らの運動は、「自分の息子を戦場に行かせない運動」だった。あの空気の中で「イラク戦争反対」という言葉はどうしても使えなかったことを、私はよく理解できた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2015年4月 | トップページ | 2015年10月 »