« かぐや姫ノート 2 | トップページ | 道成寺 »

2007年10月19日 (金)

青い比久尼の物語

 大阪市平野区に「長宝寺」という尼寺がある。開山(寺を開いた人)は坂上田村麻呂の娘、坂上春子(さかのうえはるこ)(慈心大姉)と言われており、父親、田村麻呂によって大同年間(806-810年)によって建てられた。春子は生前の空海に出会って、帰依しており、この寺は高野山真言宗。そして、現在に至るまで、坂上家の流れを汲む七名家の姓をもつ女子が住職にあたる。
 本尊は、十一面観音と閻魔王。
 この寺には、「よみがえり草紙」という物語が残されている。
 永享11(1439)年、当時の住職である慶心坊尼(けいしんぼうに)が、頓死(突然亡くなること)した。慶心坊尼は、そこで、閻魔大王に会い、「もし仏道の修行をなまけると、このような地獄に落ちる」と、地獄のさまを、慶心坊尼に見聞させた。また「閻魔大王の証判を持つ者は地獄に落ちない」と、慶心坊尼に証判を与え、頓死から三日後、慶心坊尼は、蘇生した。
 慶心坊尼は、人々に「逆修(ぎゃくしゅ…生きている間に、死後の菩提(ぼだい…煩悩をから解放されて悟りを開くこと)を願う)」を勧めた。嘉吉元(1441)年、読経中の慶心坊尼に、青い蜘蛛がやって来て、その糸をつかむと、慶心坊尼の手の中に仏舎利に変わったという。
 翌年、嘉吉2(1442)年、慶心坊尼が逆修供養を行ったとき、ある僧が尼寺を訪れ、閻魔大王の木像を刻んで姿を消した。
 以上が「よみがえりの草紙」である。

 長宝寺には、今でも「青蜘蛛の舎利」、「閻魔大王実判」、「閻魔大王木像」、が伝わり、残されている。
 平野は、戦国時代より自治権を掌握し、環濠を廻らせて自衛にあたり、堺と並ぶ自治行政を行う都市として知られていた。政所(まんどころ)では、民衆によって議会が開かれ、裁判が行われ、福祉政策が決議され、丁稚(でっち)のための経営塾「含翠堂(がんすいどう)」には、著名な学者たちによる講義が学費無償で経営されていた。大名を置かない平野では、権力者に税金を払うことがなかった。
 しかし、その自衛のための経費と、自衛力の維持には、常に大きな比重が置かれていたこともたしかだった。女性たちの仏教への帰依には、現在でも厚いものがある。祈ることも、権力者から一族を、自治権を守ることだったのだ。
「よみがえりの草紙」がこと細かく残されているのは、このように平野が自治行政地区であったことによる。幕府体制側についていた放浪芸能集団「御伽衆(おとぎしゅう)」は、町々の言い伝えを聞かせてくれと民衆に近寄り、その町の動勢をこと細かく調べ集め、体制側に情報提供していたからだ。
 御伽衆たちは、物語を教えてくれたお礼として、他の遠い地方に伝わる言い伝えや物語を話して聞かせる、という語り部集団として、活躍していた。
 御伽衆の最も古い作品は、京丹後に伝わる「竹取物語」。そして、平野を始め、自治権を持つ都市、宗教活動に熱心な町などに伝わる物語が、彼らによって、多く残されていったのだ。
 
 大阪には、大阪湾沿いに「熊野街道」がある。文字通り和歌山の熊野権現大社に続く道である。別名「小栗街道」とも呼ばれる。
 毒酒の飲まされてあの世にいった小栗が、閻魔大王の裁きを受けてふたたびこの世によみがえった。しかし、それは、毒酒に体を蝕まれ、人に姿をさらすことも、自ら歩くこともできず、「お慈悲を頂けるのならこの車を引いて下さい」と張り紙をした「土車」に乗せられた者としてである。小栗はいつか、この土車が「熊野の湯」にたどり着き、この体が癒されるのをひたすら待ち望んだのだった。
 「熊野街道」は、一本の道ではなく、いくつもの分れ道がある。ある言い伝えでは、「穢(え)の道」と言われ、あるところでは「小栗道」と言われる。
 「熊野みち」は、海よりの家並みを抜けてゆく道。もう一つは、山側にそって、そこを歩くものが、鈴を鳴らしながら行き来する道。日中でも陽射しのあたらない暗闇の道。かれらは、ときに、「ささら(108枚の木片と両端のグリップを紐で結びつけた形状をした楽器)」を鳴らし、道ばたに筵(むしろ)を敷いて、この「小栗判官」の物語を語った。中世期末から近世初頭にかけて延々と語り継がれたこれらの芸能を「説経」と言う。これが、浄瑠璃へとつながっていった。
 宮本常一の「忘れられた日本人」には、伊予の小松から土佐の寺川を越える途中に出会った老婆の話がある。「その原生林の中で、一人の老婆に逢いました。髪はあるかないか、手には指らしいものがないのです。細い道一本です、よけようもありませんでした。『婆さんはどこから来た』ときくと、阿波から来たといいます。『こういう業病で、人の歩くまともな道はあるけず、人里も通ることはできないのでこうした山道ばかりを歩いて来たのだ』」
 日本を廻ると、細く長く続く道があることに気がつく。はるか遠い土地を目指して、山に林に抜ける道が、網の目のように広がっている。今は、鉄道、自動車道と、日本人は歩く旅を捨てた。巡礼の道を捨てたのだ。なぜ、何十年もかけて、あるいは生涯をかけて、かれらは、ただ「道」を歩いたのか?
 そこに「無縁」があった。「有縁=社会」から切り離された人々の世界が、道にはあった。「さすらい人」と呼ばれる人がいた。生涯、「巡礼」という信仰生活を送った彼らによって、「説経」は生まれた。今では、それを語る人々の存在はない。しかし、もし日本を歩けば、今でも、誰も歩くことのなくなった、「説経」の歌の聴こえた「巡礼の道」に出会うことがあるかもしれない。

「月に捧ぐ声」
日時:10月23日18:00開場18:30開演
場所:国立音楽院B1KMAスタジオ
http://www.kma.co.jp/info/map.shtml
料金:無料
曲目:八丈太鼓 箏曲「夕顔」 小鼓セッション 筑前琵琶「文覚発心」沖縄三線「月ぬ美しゃ」声明「青い比久尼の物語」  
アーティスト:桜井真樹子(国立音楽院講師)今井尋也(国立音楽院講師)高峯香風(琵琶奏者)他
問い合わせ:onbasarasatanba@yahoo.co.jp

|

« かぐや姫ノート 2 | トップページ | 道成寺 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 青い比久尼の物語:

« かぐや姫ノート 2 | トップページ | 道成寺 »