「百合の精」プログラムノート
この物語の全体を通して歌われるのは、「琴歌譜(きんかふ)」より「しらげ歌」
「あしひきの 山田を作り 山田から 下樋(したひ)を走(わ)しせ 下訪(したどひ)に我が訪(と)ふ妻 下泣きに我が泣く妻 此夜(こぞ)こそ妹(いも)に 安く膚触(はだふ)れ」
これは、5世紀、允恭(いんぎょう)天皇(?—453年)の皇太子、木梨軽太子(きなしのかるのみこ)が妹の軽大娘皇女(かつのおおいらつめのひいめみこ)への恋慕がつのり、遂に思いを遂げたときに詠んだ歌である。
「高い山のなかに、水田を作り、そこに水を引くために、地下から管を通して、水を走らせる。私が密かに慕い、そして訪れた妻。私が、人に知られず恋しく思い、涙する妻。今夜こそ、我が妹を妻とし、心安らかに膚を触れ合ったのだ」
「あしひき」は「山田」の枕詞。「山田」を歌うということは、農耕民の中で歌われていた歌であろう。農耕民の若者が、自分の思っていた女性と念願かなって共寝をしたことを悦んで歌い、書き残した歌垣(ラブレター)だった。それが、宮廷音楽のフレーズに取り上げられた。
そして、さらに、木梨軽皇子が、同母兄妹の垣根を越えられたことを悦ぶ歌を詠んだと、古事記、日本書紀に記されている。
古代、兄弟婚は、異母兄弟は許されても、同母兄弟は許されなかったとする説が多く語られる。
なぜか?
まず、自分が産まれたもとである母を姦通することは、「母」という生命を与えてくれた「マドンナ(聖母=女神)」に対する絶対的冒瀆である、という倫理がある。
娘は、母の死のあとも、母の「生命」を受け継ぐ、「生命体」と考えられていた。つまり、「魂」として「同一」であり、別の人格としての認識はなかった。
だから男性にとって、「最も愛すべきは母、その次は姉妹であるのは当然の原理」という認識が、まずあった。
そこで、人間は「智」として、その姦通をタブー(禁忌…手を出していけません)とした。それを守ることが社会人生活の第一歩でもある。
その禁忌を犯した木梨軽皇子に、すべての人々が失意し、皇位継承どころか、宮廷社会からの追放を望んだのだ。
これに作者(桜井)が共感したのは、アメリカのネイティブ・アメリカンの部族、アリゾナ州に自治区を持つナバホ族の大学に留学していた経験からである。
男性は結婚すると、その妻の母、姉妹とは一生合わない。なぜか?それは「妻の母、姉妹を愛するに決まっているから」だそうだ。彼らに言わせれば「母、姉妹」は同じ魂を分かち合ったもの。魂として同じなのだから、妻を本当に愛しているなら、好きにならないはずがない。という大前提があるようだ。
実際、ショッピングセンターなどで、たまたま妻が妹に出会ったりすると夫は子どもを抱いて、たちまち姿を消す。
古代の日本人、そしてナバホ族。彼らは、人を通して「魂」を見た、そして、どの「魂」のエネルギーが最も自らの魂に至福を、悦びを、歓喜を与えるかを見分けたのだ。
「琴歌譜(きんかふ)」は、日本最古の琴と歌の両方が記された楽譜。
まず、曲の題名を上げ、万葉仮名で、歌詞を書き、それを歌の詞(ことば)とし、その右横に、琴の弦の糸の番号、「手(拍子を打つところ)」などが朱色で示されている。縦書き。その歌のいわれ(縁起)を日本書紀、古事記から取り出して、記している。
この「琴歌譜集」は、おそらく、11月の新嘗祭(にいなめさい…今年の豊穣を感謝する。現在の勤労感謝の日)から始まって、正月16日の踏歌の節会(新年にあたって地固め(地鎮)をし、よい年を迎える)までに歌われる曲を集めている。これを「大歌始(おおうたはじめ)」と言い、朝廷は、これらの大歌(大曲の歌謡)を演奏していた。そのため、平安時代、宮廷では、この大歌を歌う部所、「大歌所(おおうたどころ)」では、奏者たちは、宿直(泊まり込み)をして、日々、演奏に従事していた。それが「朝廷の勤め」であった。成立は弘仁年間(810〜823年)と考えられている。
今回の「茲良宜歌(しらげうた)は、1月16日「踏歌の節会」に歌われる曲として記載されている。
譜面として、最も詳細に記譜されているのが、新嘗祭の「茲都歌(しづうた)」「歌返(うたがえし)」である。しかし、それをもっても、琴歌譜からの復元は、音楽学者、特に林謙三氏によって「現段階では復元は不可能」と言われた譜面である。
「茲良宜歌(しらげうた)」に関しては、さらに記載の少ない譜面であり、「これを復曲したのか?」と言われれば、「この譜面と向き合いながら、作曲した」というのが、復元にたずさわった者の実感である。ただ、作曲者はその復曲において万葉仮名のひとつひとつに「音の使命」を持たせ、仮名の振り方に注目をしながら、復曲した。
鴟尾琴(とびのおのごと)は、古墳時代中期(5世紀)に出土されている。今回使用する鴟尾琴は、国立劇場で復元された楽器である。
今の「箏(こと)」は十三弦だが、古墳時代中期の「琴」は五弦である。古墳時代後期に一度、四弦になり、その後、奈良時代に入って、六弦となった。
鴟尾琴から、はじめて琴の下に「共鳴箱」がつけられるようになった。
今回演奏される鴟尾琴は、伊勢神宮の神宝の六弦の楽器製作の手法を取っている。従って五弦ではなく、六弦琴である。
十三弦の「箏」には、楽器の各部分の名称に「龍頭」「龍角」「龍口」など「龍」を模している。それに対して、鴟尾琴はその名のとおり、糸をくくりつけた部分が鴟の尾のように、ぎざぎざになっていることを模して名付けた。
古代の人のイメージとして「龍」は雨を請う神の化身、空飛ぶ鳥は「陽」をもたらす神の化身だった。
鴟尾琴と同じ形の琴をもった古墳時代の琴奏者の埴輪(土器人形)の役割は、王の葬送儀礼の鎮魂の役割を果たしていた。つまり、王と共に埋められた埴輪は、琴を弾いて、王の安らかな眠りのために古墳に王と共に埋められたのだ。
それが、荒ぶる精霊を鎮めて、自然の気象の平静を願うために新嘗祭からの正月16日にかけて、演奏される楽器「鴟尾琴」だった。
ふたたび「茲良宜歌(しらげうた)」について言うならば、これは、11月から続いた大歌による「祈り明け」、最後の「踏歌の節会」で歌われた。もともとは農耕の若者たちが、思いを寄せていた女性と、思いを遂げたことを悦ぶ歌であるとするならば、それは、「豊穣」に最もふさわしい曲として、大歌に取り上げられたというのは、想像に固くない。若者たちの恋の成就こそ、豊作の成就につながる。豊穣を願うまたとない祈りとなったのであろう。
この舞台の作品での最後の四曲、いずれも古事記の「木梨軽皇子」の詠んだ曲とされている。
「天廻む 軽の孃子(おとめ) 甚泣(いだな)かば 人知りぬべし 波佐の山の 鳩の 下泣きに泣く」
(空をさまよう 軽の乙女、軽大娘皇女(かつのおおいらつめのひいめみこ)よ、そんなに泣いては、人に知られてしまいますよ。波佐(はさ)の山の鳩のは、どんなに悲しくても声を忍ばせてないているでしょう?)
「天廻む 軽嬢子(かるおとめ) 確々(しただ)にも 寄り寝て通れ 軽孃子(かるのおとめ)」
(空をさまよう 軽の乙女、 軽大娘皇女よ、兄の私にしっかりと寄り添っていなさい。私があなたのもとに通って、しっかりと寄り添って寝よう、軽大娘皇女よ)
「天飛ぶ 鳥も使いそ 鶴が音の 聞こえむ時は 我が名問はさね」
(天を飛ぶ鳥は、天の使いです。その鶴の声が聞こえる時、兄である私の名まえを鶴に聞いてごらんなさい。その鶴が「それは私だ」と言ってくれますよ。私の魂は鶴となって、あなたのもとに飛んできたのですから)
「大君を 島に放(はぶ)らば 舟余り い帰り来むぞ 我が畳ゆめ 言をこそ 畳と言はめ 我が妻はゆめ」
(大君である木梨軽皇子を、島に追放したけれども、舟はこんなにもある。どうして帰って来れないことがあろうか? だから私(木梨軽皇子)の寝るための畳。ことばでこそ「畳」というが、我が妻、妹である軽大娘皇女よ、どうかこの畳を斉(い)み謹んで、私の畳として取っておいておくれ)

| 固定リンク


コメント
こんなおしゃれな、ブログを展開していたんですね。昨年は東大の表象文化学会でパフォーマンスしてたんですか、サイトを発見して驚きました。研究者なんですね。熊本でも舞ってください。
投稿: さえです | 2007年6月12日 (火) 14時11分
さえさま
ありがとうございます。
是非、熊本でも舞ってみたいです。
うまい酒もっていきます。
バッカスしましょう!
投稿: 桜井真樹子 | 2007年6月13日 (水) 01時50分
古田史学の会 横田と申します。このたび寄稿「研究史・『琴歌譜』に記された楽譜の解読と和琴の祖型」(『藝能史研究』No. 144)増田修を掲載しました。その中で山口庄司氏が1茲都歌・2歌返の復元を行っています。わたしたちは古墳時代、さらに遡って考えてもよいと考えています。参考までに。
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/simin11/kinkafu.html
投稿: 横田幸男 | 2008年9月13日 (土) 21時26分