2015年8月26日 (水)

イラク戦争(第二次湾岸戦争)時代

2003年4月に、ニューヨーク・シティのロックフェラー・センターの通りは、アメリカ合衆国の旗、一色に染められた。それまでの五番街、六番街の間の、その通りは、「世界平和」を謳うがごとく、各国の旗が掲げられていた。アパート、マンション、一軒家の住居のベランダや庭先に、アメリカ合衆国の旗が掲げられていれば、それは、その家族の誰かがイラクに出兵していることを意味していた。その家族に「イラク戦争反対」などというアメリカ一国民としての感想を述べようものなら、「では、うちの息子はイラクへ意味もなく、命を晒しに行ったのか!」と、激怒をくらう、という市民同士のいざこざの構図が予想されることとなった。だから、人々は、口をつぐんだ。「国家が決議したアメリカ軍のイラク出兵は、間違っている」とは言ってはいけない、と。日本からアメリカに着いて、突如、自由という空気が、ニューヨークから消えたのを肌で感じた。「私たちは口をつぐんでいるんだ」と、日本人の私にこっそり教えてくれた人々が何人かいた。「だから、あなたも…」というアドバイスでもある。イラク戦争が2003年3月に始まって一ヶ月後のころだ。  
 1995年3月、東京で地下鉄サリン事件があった。オウム真理教という新興宗教団体が無差別テロを行った。この事件以来、宗教的な要素をもった芸術は、すべて避難の目に晒された。と、言って、それに同意してくれる日本人が、今、いるだろうか?すべての人は忘れてしまった。声明の研鑽を積んで、日本の最も古い歌唱法から、音楽を表現していこうと、作曲、ライブ活動をしていた私は、オウム真理教と、なんら変わらぬ意識をもった人間として、音楽活動の領域(アート・シーン)、さらには、その領域を越えて、ありとあらゆる人々から、忌み嫌われた。当時、ヨガ教室、瞑想教室、占星術、療法的芸術(絵画、舞踊)、インド音楽などに携わっていた人たちなら、この「弾圧の日々」を記憶していらっしゃるかもしれない。  
 1993年4月、Jリーグ(日本プロサッカーリーグ)は立ち上げられ、5月にリーグ戦が開幕した。それまで、プロ・スポーツとして人々に知られてい たのはプロ野球だったであろう。プロ野球のチームのホームグランド以外の地域に、Jリーグのホームグランドを作られ、国民の「熱狂」は徐々にJリーグにシフトしていった。
  1997年11月、ワールド・カップ本戦を決める試合が、イラン代表チームを相手に行われた。延長戦の後、劇的なゴールが決まり、日本代表チームが本戦初出場を決めた。16日、日曜日の深夜、その試合はマレーシアから衛星放送され、フジテレビの平均視聴率は47,9%だった。埼玉県川口市の深夜のアパートの窓は、どこも明かりが消えず、シュートを決めようとするたびに、夜空に歓声が湧いていた。「これで国民の熱狂が、宗教批判からサッカーに完全にシフトした」と、私の心は、深夜のベランダに立ちながら確信した。心底ほっとしたことを今でも忘れない。事実、その直後から、演奏依頼が三年ぶりに来た。私の記憶はさらに明確に留められた。  
 2003年、「イラク戦争への注意事項」のアドバイスを受けつつ、ニューヨーク・シティのライブを見に行った。以前から、ニューヨーク・シティ(別称マンハッタン)は、アーティストが住めるような家賃ではなくなっていた。特にダウンタウンのソーホーは、スタジオ兼住居として芸術家が多く住んでいたが、すでにそのころは、アーティステイックな空気のゆかりを、戦略的に掴み、まことにセレブリティなブランド店が軒を揃える街へと変貌を遂げていた。個人経営的ライブハウスは、かなりなくなっていたにも関わらず、それでもライブハウスを構える「ライブハウス」でフリー・ジャズを聴きに行くと、そこでは、ミュージシャンたちが、イラク戦争以前と、何ら変わりのない「音」を響かせていた。こいつらは「クソか!」と思った。もっとも空気に鋭敏であるはずの経済的、社会的弱者であるアーティストが「アメリカはイラン戦争以前と何も変わっていない」と、表現しているのだ。きっと彼らは、経済的、または社会的に弱者ではないのであろう。
 別の日に、チャイナタウンにある、フィル・ニブロック(Phil Niblock)が長年経営しているExperimental Intermedia Music(EIM)というライブハウスに行った。そこには若手のコンピューター・ミュージックと映像の作家が二人で、作品を発表していた。2001年のアメリカ同時多発テロでワールドトレードセンターが炎上し崩壊する映像、ブッシュ前大統領の映像、アメリカ軍の一兵卒の映像が、繰り返し、映し出される。観客は五人。その中に前の木の長椅子に両肘を置いてニコニコしている老人がいた。彼はラ・モンテ・ヤング(La Monte Young)ではないか?目を疑ったが彼だ。この静かに微笑む老人の存在は、自由の表現の仁王門、弱小アートティストの前に立つ金剛力士だった。
 帰国して、ニューヨーク・シティの小学校に通っていた友人から、当時、その小学校のPTA会長をしていたパティ・スミスから、全卒業生宛てに手紙が送られ、「我が小学校は、今回のブッシュ大統領によって宣戦布告したイラク戦争に反対する」と書かれていた、と言った。あの空気の中で、このメッセージをより多くの人に読んでもらおうと思ったパティ・スミスの揺るぎない正義に心が震えた。彼女は2003年のアルバムでRadio Baghdadを歌う。  
 1620年メイフラワー号に乗って、アメリカ大陸に上陸した清教徒、ピューリタンを先祖に持つ家庭がニューヨーク・シティの北部のマンションに住んでいた。彼らはインテリ階層で、その系図を額に入れてリビングに飾っていた。彼らの運動は、「自分の息子を戦場に行かせない運動」だった。あの空気の中で「イラク戦争反対」という言葉はどうしても使えなかったことを、私はよく理解できた。

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2015年4月 4日 (土)

マンサフ

 3月3日。今日は、パレスチナ最後の日。「何が食べたい?」というので、知っている料理の名前といえば、マンサフ。だから「マンサフ」と言うと、途端に彼は、電話をかけ出した。「おい、サーヒル。今晩、マンサフ作りに来れるか?」そして、他の男たちにも電話をかける。「マンサフは、羊の肉を煮込んだり、仕込みに、3時間はいるんだ」「えっ、そんなに大変だったらいいよ、マンサフでなくても」「いや、そういうことではないんだ。」  どういうこなんだ?  さて、サーヒルがやってきた。男たちは言う。「彼はマンサフが作れるんだ。」  一つの鍋には、ヨーグルトのスープを作りつつ、別の鍋では、サフラン・ライスを作る。さらにもう一つの鍋には、羊が茹だっている。直径1メールほどの大きな皿に、薄いパンをちぎって敷き、ヨーグルト・ソースをかける。さらにその上にサフラン・ライスを敷き詰め、ヨーグルト・スープをかける。オリーブ・オイルで炒めたピーナッツを散らし、その上に骨つきの羊の肉を満遍なく敷き詰める。この大きな皿は、庭に運ばれ、その周りを男たちが囲んだ。サーヒルが祈りを捧げ、大きな皿から直接、スプーンで食べる。各自に配られたヨーグルト・ソースを再び、スプーンでかけながら。しかし、ひとりの男が「いまどきの男たちはスプーンなんて使うが、サーヒルが正しい食べ方を見せてくれる」と言うと、サーヒルは右手でサフラン・ライスを寿司を握るように固め、口に放り込む。私もがんばって、握り寿司方式で食べる。さらに「いまどきは、こんなおしゃれに羊の肉を切って、米の上に乗っけているが、本当は、羊の丸茹でをそのまま、ドンとおいて、それをみんなで引き裂きながら食べるんだ」  マンサフはなかなか男の食い物だったようだ。今では、家庭でお母さんが作ったり、レストランでも一つの皿に盛って出されるし、そう合気道の合宿めしがマンサフだった。  しかし、マンサフの原形は、男たちの団結を固めるものだった。サーヒルの父親はヘブロンの町のリーダーで、彼は父親の作るマンサフを手伝っていたので、本当のマンサフが作れるのだ、と言う。ヘブロンはイスラエル軍に対して激しい抵抗をした町。今日、集まった男たちも「ハリーリ(ヘブロンの男)」だった。  「同じ釜の飯を食う」「固めの杯」これらは、人々の結束を固めるものなのだろう。部族のリーダーの屠った羊の血と肉を共に分かち合う。同じ羊の血と肉が、男たちの身体に入り、彼らの魂に生命を吹き込む。そして男たちの身体を一つにして闘う。2000年前に、ユダヤ人のキリストは、最後の晩餐で、ぶどう酒を血にたとえて「これは私の血だ」と言った。それを回し飲みする。そしてパンを肉にたとえて「これは私の身体だ」と言って、再び回し食いをする。今日、カトリックのミサでは、このようにおしゃれにやっているが、おそらく、キリストの最後の晩餐はマンサフではなかったのだろうか?という説を聞くことも多い。ユダヤ教の七日目の安息日では、「三つ編みパン」と「ぶどう酒」を共に分かち合う。これも「マンサフ」だったかもしれない。三つ編みに結い上げたパンは、のっぺらな棒状のパンよりも肉の断片にも見える。エチオピアでは「ハンニバル」の原形があったそうで、智慧者が老衰し、死を迎えると、人々はその智慧者の肉を食べた。彼の智慧を肉によって授かるために。  血と肉が再び自分の血と肉となる、という実感がある者たちにとって、食べることこそ儀礼となる。

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2015年3月21日 (土)

パレスチナ国語の教科書

 パレスチナの子どもたちが寄ってきた。アラビア語で話そうとするが、子どもたちは私のアラビア語を聞いて「こりゃ、ダメだ」と、小学校一年生の「正則アラビア語」の教科書を持ってきた。パレスチナ、ヨルダン、シリア、エジプト、モロッコとそれぞれの地方によって、現代語で話されるアラビア語は、アンミーヤ(地方言語)と呼ばれる。パレスチナ人ならヨルダン、シリア、レバノンはだいたいわかるそうだ。エジプトもまぁ、大丈夫。でも、アルジェリア、リビア、モロッコになるとわからない。「正則アラビア語」は、現代のどの地域を標準語にした、というものではなく、7世紀から9世紀に成立したイスラームの聖典、クルアーンを基本とした言語だ。これを国語の時間に学ぶ。
第12課「祖国の自由」
ワファーが刑務所から帰って来ました。
お母さんは、大変喜びました。
近所の人たちは、ワファーの出所をお祝いしました。
お母さんは言いました。「アイマンも、もう直ぐ出てきます。そうしたら、私たち(家族)に、完全な喜びがやってくるでしょう。」
第18課「エルサレムへの遠足」
ガサからエルサレムへ生徒たちが遠足に出発しました。
先生は言いました。「これが、アムード門(エルサレム旧市街の「ダマスカス門」のこと)です」
生徒たちは、エルサレム旧市街の市場を見て周ります。
生徒たちは、アクサー・モスク(エルサレム旧市街の「神殿の丘」のこと)でお祈りをします。
「岩のドーム(神殿の丘の中にある。カバア、預言者のモスクに次ぐ、イスラム教、第三の聖地)」をしっかりと目に焼き付けます。
キリスト教会(エルサレム旧市街の「聖墳墓教会」)を訪れました。
先生は言いました。「エルサレムはパレスチナの首都です。」
 
第12課 
 小学校一年生から、ずいぶん重たい国家の問題が、教材となっている。
 理由もなく投獄されるパレスチナ人は巨万といる。彼らは自己紹介のときに「私は6年投獄された」「そうか、私は10年だ」と、日本ならまるでヤクザのような会話で始まるのを聞いたことがある。家に戻ってくるのを、一日千秋の思いでいる家族がどれだけいるだろう。そんな身近な話題だ。
第16課
 ガザから生徒たちが遠足でエルサレムにやってくる。こんなことは、ありえない。彼らは、パレスチナの領域から外には、一生出られない。さらに、ガザの政府はハマース、西岸区の政府はファタハ。この両政府は、パレスチナ人同士で、反目しあっているという、イスラエル側にとってラッキーな政治的情勢がある。この教科書は西岸区域の教科書だから、「パレスチナの首都はエルサレム(アラビア語では「アル・クドゥス」)」と、「ガザの先生」は言うのだ。
 パレスチナは、キリスト教が生まれたところ。ベツレヘムはキリスト教徒が60%、イスラム教徒が40%ぐらいだと、パレスチナの友人は、言っていた。パレスチナ人たちは、何の問題もなく、ともに仲良くやっている。「お互いの教義は、個々の教えに深く結びつくものだ」と、彼女は言っていた。
 
 各課の最後には、暗唱するための詩がある。
 我が国、我が国 それは夢。
 我が国 我が国 それを敬い、
 それを守り、建てる。
 それは、私の心、捧げ物。
 ああ、我が国、パレスチナ。私はいつもともにいる。
 私の美しい家。ああ、我が国、パレスチナ。
 イスラム教の聖典、クルアーンは、素晴らしい韻を踏んだ、そして文法的にも性格で、なおかつ美しい詩でもある。人前で話す人間となるためには、ただ、整然として理論を語るだけではなく、美しい詩となるべく、言葉を選ばなければならない。その言語力も含めて人々は、論者に耳を傾ける。
 政治、宗教、文学が分離していない、というか統合された文化がある。
 彼らは、「韓国人と日本人の区別がつかない」という。「じゃあ、パレスチナ人とヨルダン人はどう違うの?」と聞くと「そんな、変わらない(笑)。でも、パレスチナの方がはるかに表現の自由がある」
 ああ、私の固定観念がぐらぐらする。しかし、彼らに言わせれば、イスラエル政府、ファタハ、そしてアッバスへの批判、悪口、罵詈雑言はいくらでも、ポップスにも詩にもフェイス・ブックにもあるという。「そんなこと言ったら、また逮捕されるんじゃないの?」と聞けば、「それは、みんなわかっている。でも歌い、書き続ける」そうだ。
 空気が違うとでも言おうか。日本では、すでに庶民は、萎縮している。あえていえば、沖縄に近いような気もした。弾圧と闘うという「伝統」と「文化」を持った人々なのだ。それは、ひとりひとりが、ある意味「個」を犠牲にして積み上げてきたのだろう。
 教科書の問題。日本では、どうやら、いろいろと政府が口出ししたいようだ。教科書は文科省が認定するものだから。すっかり「政府」は「王国」のようになっている。
 今まさに憲法改正の問題がある。憲法は国民が政府に宣言するものである。だから、国民ひとりひとりが憲法をかける文章力を、義務教育の期間で養わなければならない。せめて読解できる能力を。マンガを読んで、人生を豊かにする平和な時代が、いきなり終わりを告げ、今、憲法改正案を「読解」し、自分ならどう書くべきか、という文章に近いものはどれかを、検証すべき刻(とき)が、来ているのだ。

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2015年3月 5日 (木)

パレスチナの畜産農業

 日本の貧困女子にとって、パレスチナに来て、一番つらかったのが、「食べる量」だ。朝、黒角砂糖一つ。昼はプラット・ホームでおにぎり一つ。夜はとりあえず夕食らしきもの。これで普段まかなっていると、朝から卵、鳥のレバー、ホムス(ひよこ豆のペースト)、何種類かのチーズにトマトにきゅうりにパン。昼も夜も、がっつり米だ肉だと出てくると、到底食べられない。そこにたたみかけるように果物が三食の間に出てくる。「どうして食べないの?口に合わないの?」と言われても、パレスチナ人に日本の貧困女子の食生活は、全く想像もつかないし、そんなしけた話をしてもしょうがない。とにかく、困り果てた。普段の量からすると常に食べ過ぎで、胃が痛い。
 というわけで、パレスチナの食卓は豊かだ。トマトもきゅうりも生き生きしているし、ピーマンも肉厚。鶏肉、羊、牛(そう、豚肉は、イスラムでは食べてはいけないからない)も、ドカンと米の上に乗っかって、しっかりとした味がする。
P:パレスチナ人 J:日本人
 J:パレスチナの野菜は、パレスチナで採れ たもの?
 P:もちろん。
 J:鶏肉、羊、牛もパレスチナで育ったもの?
  P:もちろん。
 J:日本は、農民が作ってはいけないものがあって、たくさんの野菜や肉がアメリカから輸入されて、日本の野菜や肉よりもずっと安いので、日本の畜産、農業は風前の灯火なんだよ。
 P:そんなことは、あってはならない。パレスチナでは法律で、野菜や肉は輸入してはいけないことになっている。卵もそうだ。もし勝手にパレスチナに持ってきて売ろうしたら法律で罰せられる。これらはパレスチナにとって大切な食べ物だ。それでもチーズ、ハム、果物のいくつかはイスラエルから入ってくる。スナックとかお菓子もイスラエルから入ってくるけど、野菜や肉は、私たちにとって一番大切なものだろ?
 パレスチナはイスラエルに占領されている。しかし、それでも食生活は独立している。つまり自給自足している。日本の方が、よっぽど食生活においてアメリカに占領されている。そして最後のとどめがTPP。日本の農民から作物を作るという基本的権利を奪ってゆくだろう。日本の農民から、もはや誇りは失われていくように、アメリカの規格落ちした、農薬まみれの、ひからびた野菜や肉を食べる「消費する日本人」にも、なんの誇りもない。
  パレスチナの市場にいくと、形のふぞろいなトマトやきゅうりたちが山積みになっている。日本のように大きさ、長さ、形の規格がない。トマトやきゅうりたちは、個性的を発揮して、民主主義的に積まれている。
 パレスチナの代表的な風景は、村のオリーブ畑。キリスト教徒の村、タイベイのオリーブ畑を散策すると、耕された土が、ふわふわの絨毯のようだった。肥えた土だ。「これは100年、これは200年くらい」と、彼らは、幹の太さで、樹齢を教えてくれる。何代にも渡ってその木を守り、一つの丘には、いくつかの家族がそれぞれのオリーブの木を持っている。オリーブの手入れの作業は、それぞれの家族が全員そろって、同じ日に一斉に行う。そして、早く終わった家族は、作業の残っている家族を手伝う。
 オリーブの幹の絶妙にねじれた芸術的な線を見るたびに、パレスチナ人は「美しい」と、その感動を口にする。

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2015年3月 3日 (火)

ジェリコ

 「世界最古の町」として入られているパレスチナのジェリコ。この町の運命は、不思議だ。

 「ジェリコの戦い」 Joshua Fit The Battle Of Jerichoは、結構日本人にも知られていう曲だろう。

 https://www.youtube.com/watch?v=gPZuWzZvoYQ

 ジェリコにある死海に流れるヨルダン川を歌ったのは「深い河」Deep River

 https://www.youtube.com/watch?v=TPslJMheiPU

 共にゴスペルであり、日本では中学校の音楽の教科書に載っている。なぜ、アフリカ系アメリカ人が、旧約聖書に書かれたジェリコやヨルダン川を、霊歌Spiritualとして歌い上げるのだろうと、霊歌の歴史を知らない者の一人として、ジェリコに立って思う。

 1948年、イスラエル建国宣言以来、パレスチナ占領に地道をあげてきたイスラエルだが、なぜかジェリコには手を出さなかった。ここには、紀元前8000年前から集落があったという。また紀元前1900年には、モーセのあとを継いだヨシュアがカナン人の町、ジェリコを征服した。もしかしたら、その道を歩いている人は、ジョシュアの子孫、つまりエジプトを脱出した直系のユダヤ人かも知れない。ユダヤ教会(シナゴーグ)の遺跡も発掘されている。 

 今のジェリコはファタハによるパレスチナ自治区であり、アラファトの後期の政策で、親米寄り。アメリカのゼネコン、そしてJAICAという名を借りた麻生セメントなど、日本のゼネコンによって「観光地」として、海外からも観光客がやってくる。パレスチナ人でビジネスに成功した人々もジェリコに別荘を建てる。

 ジェリコは、最も品質の良いナツメヤシが採れるところでもある。古代からオアシスがあり、何千年も前から、人々は水を求めてここにやってきた。今でも、ジェリコの人々は、イスラエル人以外、さまざまな訪問者たちを快く迎え入れてくれる。

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2015年3月 1日 (日)

2月26日 木曜日

 成田空港から、イスタンブール行きのターキッシュ・エアー・ラインに乗った。トルコ航空に乗るのは初めてかもしれない。普通は、油で揚げたピーナッツか柿ピーが出てくるのだが、小さなトルコ菓子が出てきた。「トルコ料理は、世界三大料理の一つ」ということで、機内食にも気合を入れているようだ。
 機内の中ではトルコ映画が映画のライン・アップにあった。その中のひとつ、 タイトルは「Yunus Emre Askin Sesi」。トルコ語なので、全くわからない。おそらく、Yunus(ユナス)という主人公が、メヴレヴィー教団(スーフィズム)に入って、修行を積み、詩人「修行僧ユナス」となる物語だと思う。
 修行僧ユナスは、森の中で、薪の木を伐って、僧院まで運ぶ。ユナスは師匠と問答をする。心の葛藤をの末、放浪の僧(ダルビッシュ)となり、信仰心を育む。
 天台声明の曲の中の「法華賛嘆」にも
 昔ノ大王ハ仙人ノタメニ
 千載(せんざい)ノ給仕ヲ至シテ
 一乗ノ妙法ヲツタヘ
 今ノ諸徳ハ権現ノ御タメニ
 八軸ノ真文(しんもん)ヲ講御(こうじましま)スソ
 貴(たっと)カリケル
 謹デ奉讃嘆(さんたんしたてまつる)
と歌詞がある。意味は、
 「昔、釈迦は、仙人であった堤婆達品のために、長い月日にわたり給仕をして仕え、大乗仏教の教えを伝えた。今の高僧たちは、姿を変えた仏。菩薩のために法華経八巻の真実を講演し、これをおさめることは貴いことなのです。このことを謹んで讃嘆いたします。」
 これは、 法華経の第11章「堤婆達多品(だいばだったぼん)」の物語で、釈迦が悟りを開く前世では、釈迦に反逆をした堤婆達多を師として仕えていたというところを歌にしたものだ。
 その問答は、チベットのゾクチェンの修行僧と師匠の話、禅問答など、さまざまな宗教の師弟関係の物語を私に思い出させた。
 
 思えば、3・11以降、日本の政治や経済が、とんでもないところに転がってゆくように思えて、ひたすら、政治、経済の本を読むようになった。それ以前は、天台声明を学び、ユダヤ教の聖典「雅歌」を暗唱したり、イスラエルに留学したころは、イエメン系ユダヤ人の賛美歌「ディワン」を学んだり、アラブ・イスラーム学院のころはクルアーン・クラブで毎週クルアーンの章を暗唱したり、宗教歌の勉強をして、平和に暮らしていたと思う。そういう平和の空気が日本から失われて、宗教的な世界(聖域)とか、その美学とかから遠ざかってしまったなぁと思った。
 
 しかし、トルコの政治などを見ていると、ヨーロッパとイスラム国の両方を見据えたしたたかな外交がある。エジプトでもアメリカのグローバル資本が侵入しようとしたのを最初に避難したのはスーフィズムの宗教家たちだった。アラブの独裁政権を避難するのもスーフィズムの人々だ。歴史を紐解くと、ペルシャからウィグルに至るまで、スーフィズムの詩人たちは、時の政権を避難した詩を歌い、そのほとんどが処刑されている。
 つい4日前に、原作・脚本して上演した「岸辺の大臣」は、特別秘密保護法案を題材にした創作能だった。前述したように、3・11以降、時世を見据えた作品を作るようになり、人々は私を「左寄り」と言うようになった。
 実は、自分が「左寄り」だという自覚はなかった。人から言われて、そう見られているんだと、他人事のように思ったものだ。しかし、私の本心は違う。しかしなぜか、自分でもどうしても、それが説明できなかった。
 
 宗教に目覚めたものは、形成された社会域外に、住まいする。祇園精舎もそうだったし、修道院もそうだ。そこで、現代の常識や思想、流行、時の政治権力から離れた「治外法権の域」に住む。それが聖域。そして、すべてから逸脱した世界の中に築かれる信念みたいなものを形成する。それが信仰。聖域に信仰をもって暮らす人々から見えてくるものを、世俗の人々は「智慧」と言って、敬意を評した。彼らには、世論は全く通用しない。世論の形成は、為政者が、無知な人々に「流れてゆく道筋」をつけてやることだ。その道筋の思惑が、修行僧には、透明に鮮明に見えてくるのだろう。決して、政治、経済を専門とせずとも。
 
 私は、修行を積んだ修行僧ではない。しかし、聖域を好み、修行僧たちの詩、つまり「聖典」を好んで歌っていた者が、3・11以降、日本の社会で何が起こっているのか、政治の全く素人として、取り組んでいったときのことを思い出してみた。
 まず、何が起こったのか全く把握できていなかった。さまざまな見解を述べる人々の「声」を聴いて、真実の「声」を聞き分けていった。心にやましさのある者の「声」を聞き分けていった。そこには、日本の歴史的な政治家たちの愚かさがあった。だんだんわかってきた。本を読んでもわかるようになった。そして詩が生まれた。詩は真実を伝えるものだから。それは預言でもある。これがメディウム(使者)、エヴァンゲリオン(伝達者)の使命だろう。

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2014年7月 5日 (土)

はなこのおむこさんと焼身自殺

 2014年6月27日(日)午後1時ごろ、友だちとJR王子駅の近くで、焼き魚定食を食べながら、「韓国では、FTAに反対して焼身自殺する人まで出たけど、日本人は、TPPに反対って言っても焼身自殺まではしないようねぇ」とか、なぜが「焼身自殺」の話題になった。「ベトナムで焼身自殺した人」とか、「チベット弾圧に抗議して焼身自殺したお坊さん」とか。「そういえば、『フランシーヌの場合は』」っていう歌が、日本で流行ったんだよ」と、「フランシーヌのばあいは〜」と、焼き魚定食を食べながら友だちの前で歌ってしまった。
 その日の夜、家に帰ると、「新宿で男性が焼身自殺」とネットで情報が流れている。ぞっとした。焼き魚定食の焼き魚の皮が香ばしく焼けて美味しかったのを思い出した。
 彼は60歳前後の男性で、安倍政権の集団的自衛権に抗議する演説を行い、焼身自殺を計った。消防隊員が火を消し止め、顔に重傷のやけどを負ったが、命を取り留めたという。しかし、名前もわからない。軽犯罪法違反で、容態が回復次第、事情聴取を行うと言ったが、それ以降、何一つ、知らされることはなかった。彼の名前も。
 「日本人は、特別秘密保護法、TPP、集団的自衛権が通っても焼身自殺しない」と、高をくくっていた。しかし、実際に国政に抗議して焼身自殺をする人が出て来た。彼の気持ちを、自分なりに共感してみようと思う。たとえば、60歳男性、子どもも妻も、孫もいない。貯金も仕事も地位もない。7月分の家賃も払えない。健康上の問題もあったかもしれない。もう失うものは何もない。生きていても何の希望もない。そうなったとき、焼身自殺は、死を迎える一つの選択肢に入ってきたのかもしれない。日本経済の低迷だと思った。しかし、本当のことは何一つ、知らされていない。
 
 私は、2012年に「はなこのおむこさん」というこけしのお人形たちで、物語る「こけし浄瑠璃」を上演した。2010年12月17日、チュニジアでムハンマド・ブアジージという職に就けない青年が、青果を販売中に警官の暴力に合い、それに抗議をして焼身自殺を計った。ブアジージのセリフを「はなこのおむこさん」の台本から
 「私は、マグリブ、西の国、日の沈む国で生まれました。26歳のとき、仕事がなく仕方なく道ばたで、果物と野菜を売っていました。しかし、許しも得ずに店を開いたと言って、警察の見回りの者たちに、売りものも、売り上げのお金も、秤も取り上げられ、殴られ、蹴り飛ばされました。もしも、秤を返してほしかったら、賄賂を渡せと言われました。私は、彼らに抗議して、全身に油をかぶって自分の身体に火をつけました。それでも私は18日の間、生き長らえていました。しかしそれ以上生きることは出来ず、ここにいるのです。」
 彼の亡くなる2、3日前に当時のチュニジアの大統領ベン=アリーが、病院に見舞いにきた写真もネットで見た。ブアジージの葬儀に、彼の友人、若者たちが遂に、抗議のデモ始めた映像も見た。
 ここから、「アラブの春」は始まったと言われている。
 はるか遠くのチュニジアの青年の焼身自殺のことが、ここまでネット検索でわかったのに、新宿で焼身自殺しようとした男性のことは、何もわからない。
 作家として、アーティストとして、これでは済まされない気分になっているのが正直なところだ。物語を書くものとして、彼の行動を自分の作品の中で、反映するべきであると思う。作家、アーティスト、クリエイトする者は、人々の中に潜む深層を文字や歌、踊りにする。メディア“MEDIUM”=媒介する者=巫女でもある。
 「はなこのおむこさん」は、津波にのまれて亡くなった女の子「はなこ」が、冥界で、おむこさんをさがしに西へと旅する。そしてブアジージと知り合って、冥界で結婚する。これは山形の「冥界婚」の風習をもとに、日本とイスラームの結婚式を音楽劇にしたもの。そして2011年という時代がどういう時代であったかを、記憶するために。
 焼身自殺はたった一人で、命と引き換えに行うメッセージ。だからそれまで無名であったのに突然人々の心に名を刻む。
 1963年、当時南ベトナムでベトナム戦争に抗議をして焼身自殺をしたのは、テッック・クアン・ドック。
 1969年、フランスのパリで、フランシーヌ・ルコント(当時30歳)がベトナム戦争とビアフラ戦争に抗議して焼身自殺した。
 2009年から2012年にかけて中国政府に対するチベット弾圧に抗議をして焼身自殺をした僧侶の数は80名とも言われている。多くの僧侶が若く、そして尼僧もいる。
 1969年の6月15日に、第一次安保闘争で亡くなった樺美智子(かんばみちこ)を記念して、「フランシーヌの場合」という曲が発売され、80万枚を売った。反安保のテーマみたいになったことが、イメージとして、今回の事件を抹殺しようとしている「者たち」にあるのかもしれない。
 焼身自殺をするチベット僧侶たちの人数は、情報がさまざまで、中国政府下の中、その真実を知ることはできない。
 
 焼き魚定食のとき、日本人の焼身自殺として思い出したのは、室町時代の尼僧「慧春尼(えしゅんに)」(?〜1402?)。彼女は曹洞宗大雄山最乗寺を開いた了庵慧明(りょうあんえみょう)の妹。自分も出家をしたいと兄の了庵慧明に言うと「おまえは美しいので男を惑わす」と許さなかった。そこで、慧春は、自分の顔を火鉢で半分焼いて、兄の前に現れ、出家を許された。しかし、男性の僧に言い寄られること、あとを立たたなかった。そこで彼女は、「すべての女のこの業を私が背負う」と言って、薪を組み、自ら焼身自殺をした、と大雄山のお坊さんから話を聴いたことがある。さらに、「慧春尼守」という、とてもかわいいお守りがあって、それは「セクラハに効きます」ということで、その凄まじい効き目たるや、かなり伝説的。さらに本格的にセクハラ予防のための腰巻きも売っていた。
 この凄まじい女性、慧春尼のことが、とても気になって、「慧春尼」の像も見に行った。最乗寺にはなく、その近くの塔頭(たっちゅう)のような、幼稚園経営をしているお寺にあった。本当に美しいひとだったのだと思う。「この慧春尼さまのお顔は一年たつとどうしても左半分の顔が煤けたように汚れるんですよ」と、お坊さんが言っていた記憶がある。
 そう、面(おもて)だ、と思う。能で使われる面(めん)のこと。顔に火傷を負った男が、幽玄の世界から、「2014年に平和を失ってしまった日のことを思い出して下さい」と未来のワキ(僧侶)に現れるのである。

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2014年6月30日 (月)

巫女の歌

(1)天橋も長くもがも 高山も高くもがも 月詠の持てる復若水いとり来て
君に祀りて をち得しむもの 
読み人知らず 万葉集 巻第十三 三二四五歌
 天にかける橋も、いくらでも長くあってくれればよい。高い山も、くらでも高くあってくれればよい。そうすれば、月に達して、「月読命(つくよみのみこと)」という月の神が持っているという、若返りの水を取ってきて、あなたに差し上げて、若返らせることができるものを。
<解説>
 「真名井の巫女」と呼ばれる丹波の巫女は、斎宮が体系化する前の組織だったと言われている。「みつはくむ」と言われるように、水を汲むことが巫女の務めだった。そこから「罔象女神(みずはめのかみ)」という水の女神の名が生まれた。水を絶やさないこと、水を浴びせ「みずみずしい」ことは、老いを止め、若返らせること。王の生命が衰えることなく、平穏な治世を祈ることが巫女の務めだった。
(2)うつそみの 人なるわれや 明日よりは 二上山を 弟背(いろせ)とわが見む
万葉集 一六五番 大来皇女(おおくめのひめみこ)
 肉体を持った人間である私として、私の弟を葬った山だから、明日からは、二上山を兄弟として見なければならないのだろうか。
<解説>大来皇女(661〜702年)。父の天武によって初代斎王となった。初代より斎院とは、有力な皇女を政界より遠ざけ、婚期を逃し、経済的後ろ盾を得ないようにと、母方の血脈の闘争から生まれた一つのシステムでもある。大来皇女は、泊瀬斎宮から伊勢に向かい、13年間斎宮を務める。天武の死後、弟の大津皇子が謀反人として自害した後、退下。山岳信仰の色濃く残る時代、弟の葬った二上山を弟自身として、信仰する。
 (3)琴のねに峰の松風かよふらしいづれのをよりしらべそめけむ
拾遺集 四五一番
 琴の音に、峰の松風の音が通いあっているらしい。一体この妙なる音色はどの琴の緒から奏で出し、どこの山の尾から響き始めて、ここに相逢ったのだろう。
(4)世にふればまたも越えけり鈴鹿山むかしの今になるにやあるらむ
拾遺集 四九五番
 生き長らえた末に、再び越えるのだ、鈴鹿山を。昔が今によみがえったのだろうか。
<解説>徽子(きし)女王(928〜985年)…茂明親王の第一王女。後醍醐の皇孫。伊勢斎宮(938〜945年)。母の死により退下。948年に叔父の村上天皇の女御となり、規子内親王(第四皇女)と皇子(早世)もうける。規子内親王が再び伊勢斎宮となるため再び伊勢斎院に同行。第一句目は、自身が伊勢斎宮時代に開かれた歌会での歌。二句目は、規子内親王と伊勢に同行するときの歌。源氏物語の六条御息所のモデルとされている。「斎宮女御」という名で、三十六歌仙の一人となっている。
巫女の歌
2014年8月15日(金) 18:30 open 19:00 start
キッド・アイラック・ホール 東京都世田谷区松原2-43-11
TEL:03-3322-5564  http://www.kidailack.co.jp/?page_id=8
料金:当日3,500円 前売り3,000円
予約・お問い合わせ:
キッド・アイラック・ホール
http://www.kidailack.co.jp/?page_id=19
桜井真樹子 makiko_puti@mac.com 090-6-34-7716

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2014年4月 8日 (火)

文人の愛した弦楽器

 知識人、教養人と呼ばれる文人たち。彼らは、自分の考えや思いを言語化し、それを書き留めた。さらには、自作の歌に旋律を付け、さらには弦楽器を奏でながら、自らが歌った。文人たちには、愛用の弦楽器があった。
 ペルシャ(イラン)では、スーフィズム(神秘主義者)たちが、修業のためにセタールという弦楽器を奏でた。
 アフガニスタン、ウィグル、ウズベキスタンに広がるスーフィズムの思想のもとでの文人たちは、心にめばえた愛を詩に託すことによって、神と自分の内面的合一に達しようとした。紅シリア(パレスチナ、シリア)で発達した「愛」の思想は、外面的形式動作(=儀式)によって神を讃美するのではなく、内面的に神を讃美できる人間となるためには「愛」を自覚しなければならないと。
 それは、「美」という芸術的観念の体験である。その達成のために、故郷、地位、名誉、財産を捨てて、旅にでる。それがスーフィズムの修行僧「ダルヴィーシュ」の姿だ。
 ペルシャのルーダキー(850〜941)は、バールバド(アラブ圏のウード、琵琶の源流)を愛した。30歳のころにサマーン朝の宮廷詩人となるが、故郷に帰り、盲目にされて、最後は殺害されたと言われている。シェイダ(1843〜1906)はセタール(神秘主義者たち愛用の擦弦楽器)を歌い奏で、シャフリーヤ(1906〜1988)はセタールそのものに愛を語る。
 ウィグルのメシュレプ(1641〜1711)は、サタール(擦弦楽器)に心の想いを、旋法の違いに分けて語りだす。彼も一時は、アッバー・ウジャ朝(ウィグル)に仕えるが、再び中近東への放浪の旅を続け、最後には、アシュタル・ハン朝(ウズベキスタン)の政治批判の詩を詠み、絞首刑となった。
 ここまではスーフィズムの文人と弦楽器。
 中国に入ると、文人は仙人となる。3世紀ころからの老荘思想により、知識・教養のあるものたちは、俗世から超越した言動を行い、社会抵抗と批判を行った。「竹林の七賢」の指導者的存在であった阮籍(210〜263)は多くの琴の曲を残した。甥の阮咸も竹林の七賢のひとりで、彼の名がつけられた阮咸に改良を加え、愛用した。
 白居易(772〜846)も琴を愛し、また「琵琶行」という詩も残している。彼も、公職の頂点にいたような人だが43歳で左遷。以降は、自らの知性と教養は、詩を作るために注がれた。
 中国の文人たちは、自らの著作、詩、つまりは「書」を残すために必要な道具、筆・紙・墨・硯を、「文人に必要な四つの宝」ということで「文房四宝」と呼んだ。この詩には、このような筆を使い、その筆跡と墨のにじみを残すための紙はこれ。その詩に漂うふさわしい香りの墨はこれ。それらのふさわしい選択が、すべて揃って、文人の詩の世界が、「書」を通して空間に表現されるのだ。この美意識をさまざまな文人たちが語った著作を集めたものが「文房清玩」。そこには、文房四宝のみならず、机、窓、庭など、文人の生活が仙人の遊学の世界に近づけるための、周辺に置かれるべきもののあり方が語られている。
 そこに文房(文人に必要な道具)として、琴がある。詩を書き、旋律を付け、それを声に出して歌うには琴が文人の書斎には必要であるということ。その琴は、どのような木で、どこに置かれ、どこでつま弾かれるものであるか、と書き留めたのが、超希鵠の「洞天清禄集」、屠隆の「考槃餘事」、張謙徳の「硃砂魚譜」などである。
 日本は、中国の神仙思想を受け継いだ。平安前期の歌人、蝉丸は、貴族階級の出自であるにもかかわらず、盲目のため、その知性と教養を、歌および、琵琶の奏者として注いだ。逢坂の関に居を構え、人と会うこともなく過ごしていたが、その琵琶曲の伝授を乞うて源博雅が三年間も蝉丸の垣根のもとまで、通い続けたという言い伝えは有名だ。
 百人一首に残されている蝉丸の歌 
 「これやこの 行くも帰るも分かれては 知るも知らぬも逢坂の関」
 これは、なかなか意味深いものだ。彼は逢坂を隠遁の地と定めた。そして居を出ることはなかったとはいえ、この逢坂の関は、東の大津(滋賀県)から平安京に入る関所(インターチェンジ)でもあるゆえに、人の行き来が多い。ここで人は京都に行き、京都から帰る。ここで別れを告げる人もいる。その場所の名を知っているか知っていないかは知らないが、「逢坂の関」という。知っている知っていないかは知らないが、そこに私が住んでいるのだ。という想いを歌で掛けているのだろう。
 「秋風に なびく浅茅の 末ごとに おく白露の あはれ世の中」
  秋風になびいている浅茅の葉の先ごとに置かれている白露に、哀れで切ない世の中を思う。
 イラン、ウィグル、中国、日本、文化圏の違いはあっても、「文人」と呼ばれた人々は、政治つまり「歴史」を動かす中枢から離れ、彼らの知性と教養をその社会批判に注ぎ、その体勢に目を光らせていた。彼らは俗世にまみれることを嫌い、真実を愛するがゆえに、決して権力の動く中枢に身を置くことができず、追放され、人によっては、彼らに命を絶たれることもあった。
 かれらの詩には、スーフィズムであれ、神仙思想であれ「人間とは」ということを歌う。それがゆえに、歴史から離れ、その時計は止まったまま。文人たちの心は、真実を見つめなければならなかった。その歌は、真実を見つけた文人のみが、聞こえるように奏でられた。歴史の舞台では、真実を語れば、その物語は崩壊するからだ。
 現代の日本において、この文人とは誰のことだろうか?ジャーナリストは文人であることを止めて久しい。
 文人とは、都知事にまでなった小説家、というよりは、政治の舞台から左遷された人、たとえば、孫崎享氏のような。書斎には琴のかわりにイコンがありそうだが、小説を書き出そうとしている姿は、和漢朗詠集にその朗詠のいくつかを残した橘在列にも重なるような気がする。
第77回琵琶樂人倶楽部
「語り物の系譜Ⅶ~文人の愛した弦楽器」
2014/4/9(水) 19:30 
場所:会場:名曲喫茶ヴィオロン(JR阿佐ヶ谷北口徒歩5分)
料金:1000円
ゲスト:桜井真樹子(歌・作曲・レクチャー) 
出演者:塩高和之(樂琵琶)
「帰雁」「詠懐詩」「対琴待月」「松根」(以上 桜井真樹子)他
問合せ:orientaleyes40@yahoo.co.jp

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2014年1月28日 (火)

鳥のことば

 今回の「鳥のことば」は12世紀のペルシャの神秘主義(スーフィズム)詩人アッタールの詩によるものです。
 この詩は、鳥たちが「真実」を求めて旅に出るという物語です。
 「真実」というのは「神」と言ってもいいでしょう。
 鳥たちは、この旅にほとんどの人生を費やします。これは修行をするダルヴィーシュ(スーフィーの修行僧)の姿でもあります。
 旅の途中で、「真実の旅」から脱落する鳥も出てきます。
 
 ペルシャの神秘主義(スーフィズム)。これはイスラム教(イスラーム)のシーアに属するとも言えます。
 しかし、イスラーム以前からあるギリシャにつながるペルシャの思想・哲学でもあります。
 「一は無限であり、無限は一である」
 この思想は、シルクロードを渡り、中央アジアで「華厳経」として仏教に取り入れられました。
 「華厳の思想」は、密教へとつながりました。
 彼らも修行僧として、山に籠り、また、山を走り、「真実」と一体となる体験を得るために人生を費やします。
 後に、スーフィズムでは、「無限は一である」という方向へと向いて「一神教」の思想となり、華厳の思想は「一は無限である」という方向から「多神論」へと、それぞれが向かっていったようです。
 
 しかし、ともに修行という旅の後に、「光」に出会うのです。
 「鳥のことば」では、最後まで旅を続けた三十羽の鳥たちは、「光」の前で彼らの魂が光輝いたのです。
 「華厳 Vairocana-Buddha」とは、「太陽に輝く仏(真実)」という意味。
 今回のライブでは、「鳥のことば」を日本語で朗読して、アラビア語で歌います。
 そして「鳥のことば」の各章の合間に「華厳経」の詩「讃」を歌います。
 そして、華厳の思想の時代の万葉集の和歌、そして白拍子も続けて挟まれてゆきます。
 ペルシャからつながる「花鳥風月」という楽園思想(オアシスのもと、木に咲く花、その枝に止まる鳥のある風景は、楽園の象徴)、そして「一は無限」という華厳の思想から、万葉集を読み直してゆきます。
 アラブ文化圏の人々は今でも、古代オリエント(今のエジプト、イラク、シリア、イラン)からみて「西の果」は、モロッコ、これを「マグリブ(西)」と言います。では、「東の果は?」と問えば、近い東は、ペルシャ、遠い東は、日本と答えます。つまり、彼らにとって、日本までが「オリエント(東洋)」。旅を続けたペルシャ系商人「ソドク人」の歩いたシルクロード、それは日本までつながっていると。
 
 日本は、鎌倉仏教以降、自力で悟りを開こうという修行僧の仏教スタイルから、「他力本願」の思想へと移行し、仏教は、修行をしない一般民衆のためのものとなりました。
 他力本願の仏教のイメージからは、今でも現存するアラブ文化圏のスーフィズムの歌や踊りは、遠いものに見えるかもしれません。
 しかし、年に一度の奈良博物館の「正倉院展」を見ると、というか奈良を歩くと、やはりそこにはオリエントが今でも残されています。
 アラブ白拍子計画は、白拍子がオリエントの旅をしに、遠い東の果から西に向かって歌い継ぐものです。
 「鳥のことば」
−ペルシャの神秘主事詩人アッタールと万葉集の「鳥のことば」による組曲−

2014/2/12(水)18:30 open / 19:30 start

チャージ:2,600円(予約は取っておりません。直接お越し下さい)

場所:音や金時 東京都杉並区西荻北2-2-14貴志コーポB!
TEL:03-5382-2020 
http://www2.u-netsurf.ne.jp/~otokin/kokogaotokin.html

出演:桜井真樹子(白拍子・歌)、立岩潤三(ダラブカ、ダフ)、及川景子(Arab-oriental viloin)、今井尋也(小鼓)

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