王たちの山岳信仰
アショカ(Asoka B.C.268〜232)は古代インドを統一した王。武力から法による政策を行い、道路の植樹、共同の井戸の掘削、公共施設(公共休憩所)などの公共事業、療養所を設置し福祉事業も行い、あらゆる宗教を保護した王だった。仏教への信仰心は強く、仏舎利を8万4千塔建立した。中国でアショカ王は「阿行王」と翻訳された
後、インドは仏教国からバラモン、ヒンドゥー、イスラームと様々な宗教に制覇される。
7世紀(618〜690)に中国で唐が起こるころ、インドは、最後の仏教国ヴァルナダ朝が倒れ、いくつかのヒンドゥー国によって分裂し、8世紀にはイスラーム勢力の侵入を受ける。
仏教は、唐の成立とともに中国へと移った。
三代皇帝高宗(649〜683)の妻、武則天(690〜705)は、国の名を「周」と改め、女帝として執政した。「皇帝は老子の子孫」と言う道教の思想を弱め、仏教を厚く信仰した。
アショカ王を賢明な王とたとえ、「転輪聖王経」が語られるようになる。仏教を厚く信仰する人々のもとに賢明な王が国を治め、そこに弥勒菩薩が現れて、仏の教えがことごとく実現される世界の物語。
武則天は、女性の皇帝の威厳を高めるため、「輪転聖王今日で語られた弥勒菩薩は、インドで姿を消したあと、中国で女性として、武則天として生まれ変わった」と自らを弥勒菩薩と称し、そのことを記したとする「大雲経」を作り、その経典を納める「大雲経寺」を中国の全土に作らせた。
そのころの仏教の中心地である五台山にも大雲経寺の建立を迫るが、五台山は受け入れなかった。
「中国にはもともと仏教の神々が降りる場所『山』があった」と言う伝説が、唐の時代より、語られるようになる。そこで、四つの山が選ばれ、今では、「中国四大仏教名山」と呼ばれている。
普陀山(ふださん、浙江省、舟山群島)。916年、日本の留学僧、慧萼(えがく)が日本に帰国しようとして、普陀山の観音像を日本に持って帰ろうとしたが、「観音が来日を拒んだ」と言う伝説から、観音菩薩の霊場となった。
九華山(きゅうかさん、安寧省池州市青陽県)。794年、新羅の金喬覚和尚が99歳で、この地の化城寺で修行中に亡くなった。3年経って、塔に安置しようと棺を開いたところ、顔貌が全く変わっていなかったことから地蔵菩薩と同一化され、地蔵菩薩の聖地となった。
峨眉山(がびさん、四川省)。63年、蒲と言う姓の老人が、家の近くで薬草を採集していると、蓮の花のような足跡を残す鹿に出会った。鹿を追いかけて峨眉山の山頂(金頂)まで行くと、鹿は不思議な仏光を放った。老人は、普賢菩薩に出会ったと思い、自宅を普光殿に建て替えた。
その後、唐の二代皇帝、唐太宗(在位627〜649)は、普賢菩薩を参拝に来た。唐の第十二代皇帝、唐徳宗(在位779〜805)は、「峨眉山を普賢菩薩の聖地とする」と聖旨を下した。
北宋の第二代皇帝、太宗(在位976〜997)は980年に、初代皇帝、趙匡胤(在位960〜976)が仏像の鋳造を政令によって禁じたにもかかわらず、成都(四川省)に宦官を派遣し、金メッキの巨大な普賢菩薩の銅像を鋳造し、峨眉山の普賢寺に安置した。明朝の第十四代皇帝、万暦(在位1572〜1620)は、三度に渡って、峨眉山の寺院の拡張、修繕のための詔書を下した。
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