王たちの山岳信仰

 アショカ(Asoka B.C.268232)は古代インドを統一した王。武力から法による政策を行い、道路の植樹、共同の井戸の掘削、公共施設(公共休憩所)などの公共事業、療養所を設置し福祉事業も行い、あらゆる宗教を保護した王だった。仏教への信仰心は強く、仏舎利を84千塔建立した。中国でアショカ王は「阿行王」と翻訳された

 後、インドは仏教国からバラモン、ヒンドゥー、イスラームと様々な宗教に制覇される。

 7世紀(618690)に中国で唐が起こるころ、インドは、最後の仏教国ヴァルナダ朝が倒れ、いくつかのヒンドゥー国によって分裂し、8世紀にはイスラーム勢力の侵入を受ける。

 仏教は、唐の成立とともに中国へと移った。

 三代皇帝高宗(649683)の妻、武則天(690705)は、国の名を「周」と改め、女帝として執政した。「皇帝は老子の子孫」と言う道教の思想を弱め、仏教を厚く信仰した。

 アショカ王を賢明な王とたとえ、「転輪聖王経」が語られるようになる。仏教を厚く信仰する人々のもとに賢明な王が国を治め、そこに弥勒菩薩が現れて、仏の教えがことごとく実現される世界の物語。

 武則天は、女性の皇帝の威厳を高めるため、「輪転聖王今日で語られた弥勒菩薩は、インドで姿を消したあと、中国で女性として、武則天として生まれ変わった」と自らを弥勒菩薩と称し、そのことを記したとする「大雲経」を作り、その経典を納める「大雲経寺」を中国の全土に作らせた。

 そのころの仏教の中心地である五台山にも大雲経寺の建立を迫るが、五台山は受け入れなかった。

 「中国にはもともと仏教の神々が降りる場所『山』があった」と言う伝説が、唐の時代より、語られるようになる。そこで、四つの山が選ばれ、今では、「中国四大仏教名山」と呼ばれている。

 

 普陀山(ふださん、浙江省、舟山群島)。916年、日本の留学僧、慧萼(えがく)が日本に帰国しようとして、普陀山の観音像を日本に持って帰ろうとしたが、「観音が来日を拒んだ」と言う伝説から、観音菩薩の霊場となった。

 九華山(きゅうかさん、安寧省池州市青陽県)。794年、新羅の金喬覚和尚が99歳で、この地の化城寺で修行中に亡くなった。3年経って、塔に安置しようと棺を開いたところ、顔貌が全く変わっていなかったことから地蔵菩薩と同一化され、地蔵菩薩の聖地となった。

 峨眉山(がびさん、四川省)。63年、蒲と言う姓の老人が、家の近くで薬草を採集していると、蓮の花のような足跡を残す鹿に出会った。鹿を追いかけて峨眉山の山頂(金頂)まで行くと、鹿は不思議な仏光を放った。老人は、普賢菩薩に出会ったと思い、自宅を普光殿に建て替えた。

 その後、唐の二代皇帝、唐太宗(在位627649)は、普賢菩薩を参拝に来た。唐の第十二代皇帝、唐徳宗(在位779805)は、「峨眉山を普賢菩薩の聖地とする」と聖旨を下した。

 北宋の第二代皇帝、太宗(在位976997)は980年に、初代皇帝、趙匡胤(在位960976)が仏像の鋳造を政令によって禁じたにもかかわらず、成都(四川省)に宦官を派遣し、金メッキの巨大な普賢菩薩の銅像を鋳造し、峨眉山の普賢寺に安置した。明朝の第十四代皇帝、万暦(在位15721620)は、三度に渡って、峨眉山の寺院の拡張、修繕のための詔書を下した。

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2020年9月 6日 (日)

言葉が生まれる

人は、おそらく声帯を使うと自ら音を発することを知った。両手を打ち鳴らすよりも、様々な音色も奏でられる。そこで「おーい」、「シー(静かに)」、「ワー(うるさい!)」「ワーイ(やったー!)」など。その後に、「あぶない!」「早く!」「こっち」など、少しずつ言語の形態を帯びてくる。言語こそヒトの最初の歌であろう。

 ヒトはもっと言語の音色を増やして歌いたくなった。類人猿からヒトの咽頭の発育が異なってゆき「声道の縦横比が1:1になり、自在な構音が可能になった」そうだ。(http://umdb.um.u-tokyo.ac.jp/DKankoub/Publish_db/2006babj/09-12.html より)

 歌(言語)の意味を共有する範囲が生まれてくる。それがコミュニティーであろう。言語の信号はコミュニティーによって異なる。あるコミュニティーで使われる発声音が、他のコミュニティーでは使われない。日本人が苦労する外国語の「ある発音」など、みなさんも体験したことがあるだろう。さらに、意味の伝達から、自分の思い、「心のありさま」を伝達しようとするとき、それは何か美しくなければならない思いに駆られる。そして音色の統一性が行われる。日本語であれば、「ア、イ、ウ、エ、オ」が子音の後に必ず付けられる。現代標準アラビア語「フスハー」であれば「ア、イ、ウ」と、「アー、イー、ウー」によって発音が分類される。子音で終わって統一性をみる言語もある。そこに言語の音色が生まれる。弦楽器でもギターの音、バイオリンの音と楽器によって音色が違うことがわかるように。中国語の音色、韓国語の音色、日本語の音色、言語に音色が生まれる。さらに強弱、高低、重軽、長短などもコミュニティー言語の規則に加えられる。美しい言葉に熱中する人は、韻を生み出し、ライム(長短)の絶妙さを紡ぎ出す。イスラームの聖典「クルアーン」は人が生み出せない韻を持っていると言われる。それが、聖典であることを人に認識させた。

 マルコムXを始めとするアフリカ系アメリカ人のプライドを目覚めさせた先人たちをリスペクトした、「ライムに熱中した若者たち」は、彼らのコミュニティーの若者を魅了した。さらに世界中のコミュティー言語の中で、リリック(歌詞)をライムに載せるパフォーマンス「ヒップ・ホップ」は世界中の若者を魅了することになった。

 ヒトの創造は「美しい文章」=「美しい内容」=「美しい響き」を結びつけた。この奇跡がアートの始まりだ。

 

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2018年10月26日 (金)

私の心はあなたとともに

私の心はあなたといっしょに。

父のような気高く、強く負けない人。

私の愛は、あなたの黒い瞳にあります。

私は他の誰でもなく、あなたを愛する人となります。

 

私の人生にこの愛で、心に安らぎが訪れ始めました。

そして私の心は、あなたを恋しく思います。

私の思いはあなたとともに、私の愛は火のように。

私は他の誰でもなく、あなたを愛する人となります。

 

もし私の心があなたに私の愛を語るなら、

ああ、それは多くを焼き付けるでしょう。

あなたが近くに来れば、私の愛は、

甘いものとなるでしょう。

https://www.youtube.com/watch?v=WHjFJv33Pgg&list=RDWHjFJv33Pgg&start_radio=1

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2018年10月20日 (土)

そよ風を吹いてください。

Hov arek, sarer djan, hov arek

そよ風を吹いてください。愛する山よ、そよ風を吹いてください。

Im dardin tarman arek

私の悶え苦しむこの苦悩に癒しをください。

Sareruh hov tchen anoum

山は風を持ってきてくれません。

Im dardin tarman anoum

 私の悩みに癒しをください。

 

Amber, amber, mi kitch zov arek

雲よ、雲、もう少しだけ涼しくしてください。

Vartar antzrev tapek,

海に大きな雨を注いでください。

dzov arek Kesh martou or-arevuh

悪い男のよい日

Sev hoghi dagov arek

 黒い土の下に行かせてやってください。

 

Hov arek, sarer djan, hov arek

そよ風を吹いてください。愛する山よ、そよ風を吹いてください。

Im dardin tarman arek

私の悶え苦しむこの苦悩に癒しをください。

Sareruh hov tchen anoum

山は風を持ってきてくれません。

Im dardin tarman anoum

 私の悩みに癒しをください。

 

Hov arek, amber djan,

そよ風をください、愛する雲よ、そよ風をください。

hov arek Im dardin tarman arek

私の悶え苦しむこの苦悩に癒しをください。

Sareruh hov tchen anoum

山は風を持ってきてくれません。

Im dardin tarman anoum 

私の悩みに癒しをください。

https://www.youtube.com/watch?v=aqeU7IPU2Sk

 

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2018年10月19日 (金)

彼が踊ったあと

作詞:シャアル・カディーム

作曲:ガイル・ムハディード

 

彼が踊ったあと、彼が踊ったあとは、

私の美しい愛は、私を幸せにし続ける。

あなたの美しいひとみは、私の心を一瞬にして捕まえる。

枝が重たいもので曲げられたように私の心も曲げられた。

 

私の約束、私の心配、

私に苦しみを与える。

慈悲深くなるのは、

愛の中の病と痛みによって。

美しき王、あなた以外は。

 

※トルコから来たエジプトの王のために(20世紀初頭)。原曲はイブン・アル・ハティーフ( 13131374)のアンダルシア音楽。

https://www.youtube.com/watch?v=Tm8cKnJkUt4&start_radio=1&list=RDTm8cKnJkUt4

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2018年10月18日 (木)

彼女は大きな冗談

作詞・作曲:ジヤード・アルラハバーニー

歌:ザイード・ファイルーズ

 

もうひとつの夜、なぜなら、あなたは私を愛しているままだった。

または、もしかしてあなたは私を愛していないかもしれないと話す。

もうひとつの夜、彼女は彼を愛していると冗談をいう。

ああ、またはもしかして彼女は彼を愛していないかもしれない。

 

どんなに彼が感じているか彼は知らない。そして彼は何を感じているかわからない。

どれだけ彼が愛しているか彼は知らない。そして、彼は愛しているかどうかわからない。

 

この人生の後で彼女は彼を愛していると大きな冗談を言う。

または、もしかして彼女は彼を愛していないかもしれない。

 

私だけを愛して。私を愛して。

私だけを愛して。私を愛して。

私だけを愛して。私を愛して。


どんなに彼が感じているか彼は知らない。そして彼は何を感じているかわからない。

どれだけ彼が愛しているか彼は知らない。そして、彼は愛しているかどうかわからない。

 

この人生の後で彼女は彼を愛していると大きな冗談を言う。

または、もしかして彼女は彼を愛していないかもしれない。

 

私だけを愛して。私を愛して。

私を愛して。私を愛して。

私だけを愛して。

私を愛して。

https://www.youtube.com/watch?v=i6Ztvk__y7o&index=1&list=RDi6Ztvk__y7o

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2015年8月26日 (水)

イラク戦争(第二次湾岸戦争)時代

2003年4月に、ニューヨーク・シティのロックフェラー・センターの通りは、アメリカ合衆国の旗、一色に染められた。それまでの五番街、六番街の間の、その通りは、「世界平和」を謳うがごとく、各国の旗が掲げられていた。アパート、マンション、一軒家の住居のベランダや庭先に、アメリカ合衆国の旗が掲げられていれば、それは、その家族の誰かがイラクに出兵していることを意味していた。その家族に「イラク戦争反対」などというアメリカ一国民としての感想を述べようものなら、「では、うちの息子はイラクへ意味もなく、命を晒しに行ったのか!」と、激怒をくらう、という市民同士のいざこざの構図が予想されることとなった。だから、人々は、口をつぐんだ。「国家が決議したアメリカ軍のイラク出兵は、間違っている」とは言ってはいけない、と。日本からアメリカに着いて、突如、自由という空気が、ニューヨークから消えたのを肌で感じた。「私たちは口をつぐんでいるんだ」と、日本人の私にこっそり教えてくれた人々が何人かいた。「だから、あなたも…」というアドバイスでもある。イラク戦争が2003年3月に始まって一ヶ月後のころだ。  
 1995年3月、東京で地下鉄サリン事件があった。オウム真理教という新興宗教団体が無差別テロを行った。この事件以来、宗教的な要素をもった芸術は、すべて避難の目に晒された。と、言って、それに同意してくれる日本人が、今、いるだろうか?すべての人は忘れてしまった。声明の研鑽を積んで、日本の最も古い歌唱法から、音楽を表現していこうと、作曲、ライブ活動をしていた私は、オウム真理教と、なんら変わらぬ意識をもった人間として、音楽活動の領域(アート・シーン)、さらには、その領域を越えて、ありとあらゆる人々から、忌み嫌われた。当時、ヨガ教室、瞑想教室、占星術、療法的芸術(絵画、舞踊)、インド音楽などに携わっていた人たちなら、この「弾圧の日々」を記憶していらっしゃるかもしれない。  
 1993年4月、Jリーグ(日本プロサッカーリーグ)は立ち上げられ、5月にリーグ戦が開幕した。それまで、プロ・スポーツとして人々に知られてい たのはプロ野球だったであろう。プロ野球のチームのホームグランド以外の地域に、Jリーグのホームグランドを作られ、国民の「熱狂」は徐々にJリーグにシフトしていった。
  1997年11月、ワールド・カップ本戦を決める試合が、イラン代表チームを相手に行われた。延長戦の後、劇的なゴールが決まり、日本代表チームが本戦初出場を決めた。16日、日曜日の深夜、その試合はマレーシアから衛星放送され、フジテレビの平均視聴率は47,9%だった。埼玉県川口市の深夜のアパートの窓は、どこも明かりが消えず、シュートを決めようとするたびに、夜空に歓声が湧いていた。「これで国民の熱狂が、宗教批判からサッカーに完全にシフトした」と、私の心は、深夜のベランダに立ちながら確信した。心底ほっとしたことを今でも忘れない。事実、その直後から、演奏依頼が三年ぶりに来た。私の記憶はさらに明確に留められた。  
 2003年、「イラク戦争への注意事項」のアドバイスを受けつつ、ニューヨーク・シティのライブを見に行った。以前から、ニューヨーク・シティ(別称マンハッタン)は、アーティストが住めるような家賃ではなくなっていた。特にダウンタウンのソーホーは、スタジオ兼住居として芸術家が多く住んでいたが、すでにそのころは、アーティステイックな空気のゆかりを、戦略的に掴み、まことにセレブリティなブランド店が軒を揃える街へと変貌を遂げていた。個人経営的ライブハウスは、かなりなくなっていたにも関わらず、それでもライブハウスを構える「ライブハウス」でフリー・ジャズを聴きに行くと、そこでは、ミュージシャンたちが、イラク戦争以前と、何ら変わりのない「音」を響かせていた。こいつらは「クソか!」と思った。もっとも空気に鋭敏であるはずの経済的、社会的弱者であるアーティストが「アメリカはイラン戦争以前と何も変わっていない」と、表現しているのだ。きっと彼らは、経済的、または社会的に弱者ではないのであろう。
 別の日に、チャイナタウンにある、フィル・ニブロック(Phil Niblock)が長年経営しているExperimental Intermedia Music(EIM)というライブハウスに行った。そこには若手のコンピューター・ミュージックと映像の作家が二人で、作品を発表していた。2001年のアメリカ同時多発テロでワールドトレードセンターが炎上し崩壊する映像、ブッシュ前大統領の映像、アメリカ軍の一兵卒の映像が、繰り返し、映し出される。観客は五人。その中に前の木の長椅子に両肘を置いてニコニコしている老人がいた。彼はラ・モンテ・ヤング(La Monte Young)ではないか?目を疑ったが彼だ。この静かに微笑む老人の存在は、自由の表現の仁王門、弱小アートティストの前に立つ金剛力士だった。
 帰国して、ニューヨーク・シティの小学校に通っていた友人から、当時、その小学校のPTA会長をしていたパティ・スミスから、全卒業生宛てに手紙が送られ、「我が小学校は、今回のブッシュ大統領によって宣戦布告したイラク戦争に反対する」と書かれていた、と言った。あの空気の中で、このメッセージをより多くの人に読んでもらおうと思ったパティ・スミスの揺るぎない正義に心が震えた。彼女は2003年のアルバムでRadio Baghdadを歌う。  
 1620年メイフラワー号に乗って、アメリカ大陸に上陸した清教徒、ピューリタンを先祖に持つ家庭がニューヨーク・シティの北部のマンションに住んでいた。彼らはインテリ階層で、その系図を額に入れてリビングに飾っていた。彼らの運動は、「自分の息子を戦場に行かせない運動」だった。あの空気の中で「イラク戦争反対」という言葉はどうしても使えなかったことを、私はよく理解できた。

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2015年4月 4日 (土)

マンサフ

 3月3日。今日は、パレスチナ最後の日。「何が食べたい?」というので、知っている料理の名前といえば、マンサフ。だから「マンサフ」と言うと、途端に彼は、電話をかけ出した。「おい、サーヒル。今晩、マンサフ作りに来れるか?」そして、他の男たちにも電話をかける。「マンサフは、羊の肉を煮込んだり、仕込みに、3時間はいるんだ」「えっ、そんなに大変だったらいいよ、マンサフでなくても」「いや、そういうことではないんだ。」  どういうこなんだ?  さて、サーヒルがやってきた。男たちは言う。「彼はマンサフが作れるんだ。」  一つの鍋には、ヨーグルトのスープを作りつつ、別の鍋では、サフラン・ライスを作る。さらにもう一つの鍋には、羊が茹だっている。直径1メールほどの大きな皿に、薄いパンをちぎって敷き、ヨーグルト・ソースをかける。さらにその上にサフラン・ライスを敷き詰め、ヨーグルト・スープをかける。オリーブ・オイルで炒めたピーナッツを散らし、その上に骨つきの羊の肉を満遍なく敷き詰める。この大きな皿は、庭に運ばれ、その周りを男たちが囲んだ。サーヒルが祈りを捧げ、大きな皿から直接、スプーンで食べる。各自に配られたヨーグルト・ソースを再び、スプーンでかけながら。しかし、ひとりの男が「いまどきの男たちはスプーンなんて使うが、サーヒルが正しい食べ方を見せてくれる」と言うと、サーヒルは右手でサフラン・ライスを寿司を握るように固め、口に放り込む。私もがんばって、握り寿司方式で食べる。さらに「いまどきは、こんなおしゃれに羊の肉を切って、米の上に乗っけているが、本当は、羊の丸茹でをそのまま、ドンとおいて、それをみんなで引き裂きながら食べるんだ」  マンサフはなかなか男の食い物だったようだ。今では、家庭でお母さんが作ったり、レストランでも一つの皿に盛って出されるし、そう合気道の合宿めしがマンサフだった。  しかし、マンサフの原形は、男たちの団結を固めるものだった。サーヒルの父親はヘブロンの町のリーダーで、彼は父親の作るマンサフを手伝っていたので、本当のマンサフが作れるのだ、と言う。ヘブロンはイスラエル軍に対して激しい抵抗をした町。今日、集まった男たちも「ハリーリ(ヘブロンの男)」だった。  「同じ釜の飯を食う」「固めの杯」これらは、人々の結束を固めるものなのだろう。部族のリーダーの屠った羊の血と肉を共に分かち合う。同じ羊の血と肉が、男たちの身体に入り、彼らの魂に生命を吹き込む。そして男たちの身体を一つにして闘う。2000年前に、ユダヤ人のキリストは、最後の晩餐で、ぶどう酒を血にたとえて「これは私の血だ」と言った。それを回し飲みする。そしてパンを肉にたとえて「これは私の身体だ」と言って、再び回し食いをする。今日、カトリックのミサでは、このようにおしゃれにやっているが、おそらく、キリストの最後の晩餐はマンサフではなかったのだろうか?という説を聞くことも多い。ユダヤ教の七日目の安息日では、「三つ編みパン」と「ぶどう酒」を共に分かち合う。これも「マンサフ」だったかもしれない。三つ編みに結い上げたパンは、のっぺらな棒状のパンよりも肉の断片にも見える。エチオピアでは「ハンニバル」の原形があったそうで、智慧者が老衰し、死を迎えると、人々はその智慧者の肉を食べた。彼の智慧を肉によって授かるために。  血と肉が再び自分の血と肉となる、という実感がある者たちにとって、食べることこそ儀礼となる。

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2015年3月21日 (土)

パレスチナ国語の教科書

 パレスチナの子どもたちが寄ってきた。アラビア語で話そうとするが、子どもたちは私のアラビア語を聞いて「こりゃ、ダメだ」と、小学校一年生の「正則アラビア語」の教科書を持ってきた。パレスチナ、ヨルダン、シリア、エジプト、モロッコとそれぞれの地方によって、現代語で話されるアラビア語は、アンミーヤ(地方言語)と呼ばれる。パレスチナ人ならヨルダン、シリア、レバノンはだいたいわかるそうだ。エジプトもまぁ、大丈夫。でも、アルジェリア、リビア、モロッコになるとわからない。「正則アラビア語」は、現代のどの地域を標準語にした、というものではなく、7世紀から9世紀に成立したイスラームの聖典、クルアーンを基本とした言語だ。これを国語の時間に学ぶ。
第12課「祖国の自由」
ワファーが刑務所から帰って来ました。
お母さんは、大変喜びました。
近所の人たちは、ワファーの出所をお祝いしました。
お母さんは言いました。「アイマンも、もう直ぐ出てきます。そうしたら、私たち(家族)に、完全な喜びがやってくるでしょう。」
第18課「エルサレムへの遠足」
ガサからエルサレムへ生徒たちが遠足に出発しました。
先生は言いました。「これが、アムード門(エルサレム旧市街の「ダマスカス門」のこと)です」
生徒たちは、エルサレム旧市街の市場を見て周ります。
生徒たちは、アクサー・モスク(エルサレム旧市街の「神殿の丘」のこと)でお祈りをします。
「岩のドーム(神殿の丘の中にある。カバア、預言者のモスクに次ぐ、イスラム教、第三の聖地)」をしっかりと目に焼き付けます。
キリスト教会(エルサレム旧市街の「聖墳墓教会」)を訪れました。
先生は言いました。「エルサレムはパレスチナの首都です。」
 
第12課 
 小学校一年生から、ずいぶん重たい国家の問題が、教材となっている。
 理由もなく投獄されるパレスチナ人は巨万といる。彼らは自己紹介のときに「私は6年投獄された」「そうか、私は10年だ」と、日本ならまるでヤクザのような会話で始まるのを聞いたことがある。家に戻ってくるのを、一日千秋の思いでいる家族がどれだけいるだろう。そんな身近な話題だ。
第16課
 ガザから生徒たちが遠足でエルサレムにやってくる。こんなことは、ありえない。彼らは、パレスチナの領域から外には、一生出られない。さらに、ガザの政府はハマース、西岸区の政府はファタハ。この両政府は、パレスチナ人同士で、反目しあっているという、イスラエル側にとってラッキーな政治的情勢がある。この教科書は西岸区域の教科書だから、「パレスチナの首都はエルサレム(アラビア語では「アル・クドゥス」)」と、「ガザの先生」は言うのだ。
 パレスチナは、キリスト教が生まれたところ。ベツレヘムはキリスト教徒が60%、イスラム教徒が40%ぐらいだと、パレスチナの友人は、言っていた。パレスチナ人たちは、何の問題もなく、ともに仲良くやっている。「お互いの教義は、個々の教えに深く結びつくものだ」と、彼女は言っていた。
 
 各課の最後には、暗唱するための詩がある。
 我が国、我が国 それは夢。
 我が国 我が国 それを敬い、
 それを守り、建てる。
 それは、私の心、捧げ物。
 ああ、我が国、パレスチナ。私はいつもともにいる。
 私の美しい家。ああ、我が国、パレスチナ。
 イスラム教の聖典、クルアーンは、素晴らしい韻を踏んだ、そして文法的にも性格で、なおかつ美しい詩でもある。人前で話す人間となるためには、ただ、整然として理論を語るだけではなく、美しい詩となるべく、言葉を選ばなければならない。その言語力も含めて人々は、論者に耳を傾ける。
 政治、宗教、文学が分離していない、というか統合された文化がある。
 彼らは、「韓国人と日本人の区別がつかない」という。「じゃあ、パレスチナ人とヨルダン人はどう違うの?」と聞くと「そんな、変わらない(笑)。でも、パレスチナの方がはるかに表現の自由がある」
 ああ、私の固定観念がぐらぐらする。しかし、彼らに言わせれば、イスラエル政府、ファタハ、そしてアッバスへの批判、悪口、罵詈雑言はいくらでも、ポップスにも詩にもフェイス・ブックにもあるという。「そんなこと言ったら、また逮捕されるんじゃないの?」と聞けば、「それは、みんなわかっている。でも歌い、書き続ける」そうだ。
 空気が違うとでも言おうか。日本では、すでに庶民は、萎縮している。あえていえば、沖縄に近いような気もした。弾圧と闘うという「伝統」と「文化」を持った人々なのだ。それは、ひとりひとりが、ある意味「個」を犠牲にして積み上げてきたのだろう。
 教科書の問題。日本では、どうやら、いろいろと政府が口出ししたいようだ。教科書は文科省が認定するものだから。すっかり「政府」は「王国」のようになっている。
 今まさに憲法改正の問題がある。憲法は国民が政府に宣言するものである。だから、国民ひとりひとりが憲法をかける文章力を、義務教育の期間で養わなければならない。せめて読解できる能力を。マンガを読んで、人生を豊かにする平和な時代が、いきなり終わりを告げ、今、憲法改正案を「読解」し、自分ならどう書くべきか、という文章に近いものはどれかを、検証すべき刻(とき)が、来ているのだ。

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2015年3月 5日 (木)

パレスチナの畜産農業

 日本の貧困女子にとって、パレスチナに来て、一番つらかったのが、「食べる量」だ。朝、黒角砂糖一つ。昼はプラット・ホームでおにぎり一つ。夜はとりあえず夕食らしきもの。これで普段まかなっていると、朝から卵、鳥のレバー、ホムス(ひよこ豆のペースト)、何種類かのチーズにトマトにきゅうりにパン。昼も夜も、がっつり米だ肉だと出てくると、到底食べられない。そこにたたみかけるように果物が三食の間に出てくる。「どうして食べないの?口に合わないの?」と言われても、パレスチナ人に日本の貧困女子の食生活は、全く想像もつかないし、そんなしけた話をしてもしょうがない。とにかく、困り果てた。普段の量からすると常に食べ過ぎで、胃が痛い。
 というわけで、パレスチナの食卓は豊かだ。トマトもきゅうりも生き生きしているし、ピーマンも肉厚。鶏肉、羊、牛(そう、豚肉は、イスラムでは食べてはいけないからない)も、ドカンと米の上に乗っかって、しっかりとした味がする。
P:パレスチナ人 J:日本人
 J:パレスチナの野菜は、パレスチナで採れ たもの?
 P:もちろん。
 J:鶏肉、羊、牛もパレスチナで育ったもの?
  P:もちろん。
 J:日本は、農民が作ってはいけないものがあって、たくさんの野菜や肉がアメリカから輸入されて、日本の野菜や肉よりもずっと安いので、日本の畜産、農業は風前の灯火なんだよ。
 P:そんなことは、あってはならない。パレスチナでは法律で、野菜や肉は輸入してはいけないことになっている。卵もそうだ。もし勝手にパレスチナに持ってきて売ろうしたら法律で罰せられる。これらはパレスチナにとって大切な食べ物だ。それでもチーズ、ハム、果物のいくつかはイスラエルから入ってくる。スナックとかお菓子もイスラエルから入ってくるけど、野菜や肉は、私たちにとって一番大切なものだろ?
 パレスチナはイスラエルに占領されている。しかし、それでも食生活は独立している。つまり自給自足している。日本の方が、よっぽど食生活においてアメリカに占領されている。そして最後のとどめがTPP。日本の農民から作物を作るという基本的権利を奪ってゆくだろう。日本の農民から、もはや誇りは失われていくように、アメリカの規格落ちした、農薬まみれの、ひからびた野菜や肉を食べる「消費する日本人」にも、なんの誇りもない。
  パレスチナの市場にいくと、形のふぞろいなトマトやきゅうりたちが山積みになっている。日本のように大きさ、長さ、形の規格がない。トマトやきゅうりたちは、個性的を発揮して、民主主義的に積まれている。
 パレスチナの代表的な風景は、村のオリーブ畑。キリスト教徒の村、タイベイのオリーブ畑を散策すると、耕された土が、ふわふわの絨毯のようだった。肥えた土だ。「これは100年、これは200年くらい」と、彼らは、幹の太さで、樹齢を教えてくれる。何代にも渡ってその木を守り、一つの丘には、いくつかの家族がそれぞれのオリーブの木を持っている。オリーブの手入れの作業は、それぞれの家族が全員そろって、同じ日に一斉に行う。そして、早く終わった家族は、作業の残っている家族を手伝う。
 オリーブの幹の絶妙にねじれた芸術的な線を見るたびに、パレスチナ人は「美しい」と、その感動を口にする。

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2015年3月 3日 (火)

ジェリコ

 「世界最古の町」として入られているパレスチナのジェリコ。この町の運命は、不思議だ。

 「ジェリコの戦い」 Joshua Fit The Battle Of Jerichoは、結構日本人にも知られていう曲だろう。

 https://www.youtube.com/watch?v=gPZuWzZvoYQ

 ジェリコにある死海に流れるヨルダン川を歌ったのは「深い河」Deep River

 https://www.youtube.com/watch?v=TPslJMheiPU

 共にゴスペルであり、日本では中学校の音楽の教科書に載っている。なぜ、アフリカ系アメリカ人が、旧約聖書に書かれたジェリコやヨルダン川を、霊歌Spiritualとして歌い上げるのだろうと、霊歌の歴史を知らない者の一人として、ジェリコに立って思う。

 1948年、イスラエル建国宣言以来、パレスチナ占領に地道をあげてきたイスラエルだが、なぜかジェリコには手を出さなかった。ここには、紀元前8000年前から集落があったという。また紀元前1900年には、モーセのあとを継いだヨシュアがカナン人の町、ジェリコを征服した。もしかしたら、その道を歩いている人は、ジョシュアの子孫、つまりエジプトを脱出した直系のユダヤ人かも知れない。ユダヤ教会(シナゴーグ)の遺跡も発掘されている。 

 今のジェリコはファタハによるパレスチナ自治区であり、アラファトの後期の政策で、親米寄り。アメリカのゼネコン、そしてJAICAという名を借りた麻生セメントなど、日本のゼネコンによって「観光地」として、海外からも観光客がやってくる。パレスチナ人でビジネスに成功した人々もジェリコに別荘を建てる。

 ジェリコは、最も品質の良いナツメヤシが採れるところでもある。古代からオアシスがあり、何千年も前から、人々は水を求めてここにやってきた。今でも、ジェリコの人々は、イスラエル人以外、さまざまな訪問者たちを快く迎え入れてくれる。

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